ギョーム・ヨゼフ・シャミナード
1761年4月8日、フランスのペリグーに生まれました。
ムシダンの小神学校、次いでボルドー、パリで学んだ後、1785年、司祭に叙階されました。
1789年にフランス革命が起こらなかったなら、恐らくそれ以前にムシダンの小神学校でしていた会計係と教師の仕事を続けていたに違いありません。
1790年、シャミナード神父は、フランス革命による聖職者市民憲法によって統制された司祭として生きることを拒絶し、彼を捕らえようとする官憲の目を避けて、
ムシダンを去らなければなりませんでした。
1791年、ボルドーに入り、恐怖政治の時代、命がけで秘密裏に聖務を行っていました。
1795年から2年間、つかのまの宗教迫害の休止の後、1797年迫害が再開された時、シャミナード神父はスペインに亡命を余儀なくされます。
亡命の間、スペイン サラゴサの柱の聖母の傍近くで恵みの日々を過ごし、ここで彼は将来の使命、 マリアニスト家族についてのインスピレーションを受けます。
1800年39歳の時ボルドーに戻り、彼は現在の信徒マリアニスト共同体(MLC)の前身であるコングレガシオンを創立し、大成功をおさめます。
1809年、“エタ”が誕生します。
これは世間で生活しながら、神に身を捧げて生きることを望む人びとのためのものです。
この間にシャミナード神父は、ラムルス嬢を助けて、娼婦の更正を目的とする“ミゼリコルド会”の創立に関わります。
1816年にはトランケレオン嬢と共に “汚れなきマリア修道会” を、1817年には “マリア会” を創立します。
この両修道会はコングレガシオンの活力から生まれました。
シャミナード神父はその後の生涯の日々を、自ら創立した諸事業への奉仕のうちに過ごし、 1850年1月22日、ボルドーで亡くなりました。2000年、ヨハネパウロⅡ世教皇によって列福されました。
アデル・ドゥ・バッツ・ドゥ・トランケレオン
アデルはフランス革命を目前に控えた1789年6月10日、フランスのアジャンからあまり遠くないフガロールに生まれました。
父親のシャルル・ドゥ・バッツ男爵は、フランス王の近衛隊長を勤め、母親は聖ルイ王の血を引く貴族でした。
1797年、アデルは母親と共にスペイン、次いでポルトガルに亡命します。
1801年、アデルはスペインのサン・セバスチャンで初聖体を受けますが、この時すでに神の呼びかけを感じてカルメル会入会を希望しています。しかし、まだ若すぎました。
1801年、家族はフランスに戻ってきます。
1803年、アデルは堅信の秘跡を受けると、ますますカルメル会への夢をふくらませてゆきます。
入会を待ちながら1804年、友人と共に、祈りとキリスト教の信仰を広めることを目的とした“小さな会”を作ります。
これはボルドーのコングレガシオンと非常に性格が似ていました。
1808年、ボルドーのコングレガシオンとの摂理的な出会いの後、アデルとシャミナード神父との間に手紙の交換が始まり、やがてアデルの“小さな会”はボルドーのコングレガシオンに併合されます。
病気の父親の看護を続けながら、アデルは次第にカルメル会とは異なる新しい形の修道生活に思いをはせてゆきます。
1815年、父親が亡くなると、翌年の1816年、アデルはついにシャミナード神父の協力の下に“汚れなきマリア修道会”を創立しました。
新しい修道会の目標は宣教です。シャミナード師は書いています。
「あなた方の修道会は宣教修道女のみで構成されなければなりません。」(1815.10.3)
アデルの生存中に4つの修道院 (1820年トナンス、1824年コンドンとボルドー、1826年フランス東部のアルボア) が創立されました。
その活動は多岐にわたっています。田舎の宣教のために、アデルは“エタ”とは異なる“第三会”の発展に心を配っていました。
「弱いものと共に弱いものでありなさい。」と彼女は書いています。
アデルの健康はすぐれず、徐々にその活動は狭められてゆきました。
「すべては神のおぼし召しのままに…。」 1827年、容態は次第に悪化し、1828年1月10日、「ダビデの子にホザンナ!」と叫んだ後、息を引き取りました。わずか38歳でした。