デュクルノ氏の旅だち
ラリボー神父とアソシアシオン/アソシアシオンの発展
1805年の後半、すでにアデルは友人のジャンヌが身ごもっていることを知っていた。生まれてくる子どもの名前はもう決まっていた(1)。アデルは一生懸命に安産を祈った。当時、出産にともなって母親が死亡することはけっして稀なことではなかった(2)。死産をしたり、生まれた子どもが早世することもめずらしくなかった。だから1月2日、マダム・ベロックことアデルの親友ディシェレットが男の子ユージーン(EUGENE)を無事出産したと聞き、アデルは大いに喜んだ。
「わたしの代わりにお母さんと赤ちゃんを抱きしめて、キッスをしてあげてください。」
アガタにそう書き送った(3)1月29日の手紙には、安産にたいする神への感謝の気持ちが満ち溢れている。アデルはこの手紙を通して、自分がささげるこの感謝の祈りにアガタも参加するように勧め、この祈りを通して親子がこころから神を愛し、神の思し召しに従って生きていくことができるようにと希望している(4)。
出産の知らせを受けたアデルは、最近知合いになったばかりのラリボー神父(LARRIBEAU)にもこのニュースを知らせた(5)。
アデルがこの神父に出会ったのは、おそらく1805年のことであったと思われる(6N45)。ゆくゆくこの神父は、アデルの生涯とアソシアシオンに決定的な役割をはたすことになる(7)。ただ、アデルとラリボー神父の出会いがいつ、どのようにして行われたかは定かでない。アデルの手紙の中でこの神父の名前が最初に登場するのは、1806年4月のことである(8)。
しかし、この時にはすでにラリボー神父はアソシアシオンと深いかかわりを持っており、アソシアシオンのメンバーに霊的指導を行なっていたことが判っている。かれの名はジャン・ラリボー(JEAN LARRIBEAU)と云い、ロンピアン(LOMPIAN)の主任司祭であった。ロンピアンはガロンヌ川の下流にあり、フガロールからは西北へ約15キロ離れたところにある小さな町だ。
かれは1762年1月9日、コンドムに生まれ、今年44才になる。フランス大革命が勃発した当時は、ロンピアンから南へ約10キロ離れたダマザン(DAMAZAN)で助任司祭をしていた。1792年には宣誓を忌避し、追放された。ナポレオンの時代になって追放の地から帰ったが、その人徳のゆえに仲間から高い評価を受けていた。かれは深い教養を身につけていたにもかかわらず、健康に恵まれず、働き過ぎないように常に配慮しなければならなかった。ジャクピ司教(JACOUPY)がかれをロンピアンの主任司祭に任命したのは、この仕事が比較的楽であったからだ(9N46)。
ラリボー神父は素朴な人で、平和を愛し、どちらかといえば少し内気な性格の持ち主であった。かれ自身の言葉をかりて云えば、素朴で敬虔な人たちとともにいることを好むタイプの人物であったと考えられる。1804年に、かれはすでにボルドーの汚れなきおん孕りのソダリティの司祭メンバーの一人として登録されていた。それは、このソダリティがギヨーム・ジョセフ・シャミナード神父によって設立されてからわずか3年のちのことである(10)。
ラリボー神父はアデルとアソシアシオンの会員に出会い、まもなくその賛助会員になるが、最終的には「指導者」になる(11)。かれはなん人かのメンバーの霊的指導者であったが(12)、アデルはその中の一人であった。事実、アデルは死ぬまでラリボー神父を霊的指導者として仰いでいる。
そのようなわけで、ラリボー神父は、男爵夫人とデュクルノー氏に次いでアデルの霊的生活に大きな影響を与えた人物であり、だれよりも長期にわたってアデルを指導した人物であった。ラリボー神父が初めてシャトーを訪れたのは、その年の終わりころである(13)。そして、そのとき以来、師はしばしばシャトーを訪問することになった。
アデルがラリボー神父に出会ったちょうどその頃、かの女は将来アソシアシオンのメンバーになるもう一人の神父に出会った。
とき折りしも、ピオ7世はフランスにたいして特別な聖年を布告し、フランスの教会の再生に大きな影響力をあたえた。数多くの司教は、教区内の教会に特命の説教師を派遣し、「ミッション」をもよおした。このミッションは長期にわたるもので、一般に、一週間のあいだおこなわれた。人びとは説教を聴き、心霊修業や信心業をおこない、秘跡を受けた。このようにして、この種のミッションは数多くの人たちに改心の機会を与えたのである。
このミッションに、ジャクピ司教は有名な説教師ミクエル(J.C.F.X.MIQUEL)神父を起用した。この神父は司教館つきの参事官であると同時に、モンペリエの神学校の校長でもあった(14)。ちなみに、このモンペリエでは、以前、男爵の伯父が司教をつとめていたことがある(15)。
復活祭が終わって間もなく、ミクエル神父はミッションの説教をするためにアジャンへやって来た。これを聞いたアデルは、早速このミッションに参加する許可を両親に願いでた。そして、急いでアガタに手紙を書き、間もなくアジャンを訪問することになるので、その時には会うことができるであろうことを喜んでいる、と伝えている(16)。
ところで、これを聞いたアガタは、それ以前に他の所でこの司祭の説教を聴いたことがあったので、そのときの体験を熱意を込めてアデルに報告した(17)。アデルはこのアガタの手紙に返事を書き、そのような貴重な体験は、十分に活用するようにととアガタに勧め、聞いたことを実践に移さなければ無意味であるとも述べている。また、このような恩寵が与えられるのは、説教を聴いた人が、それまでにもまして熱心なキリスト者となり、よりよい人間になるためである、とも述べている。
5月の中旬になって、やっとアデルはトランケレオンを発ち、アジャンを訪れることができた。アジャンに到着したアデルは友人たちと一緒に聖霊降臨祭を祝ったのちミクエル神父が説教する黙想会の一つに参列した。そのときアデルは、アガタをともなってミクエル神父が宿泊する病院へ師をたずねた。二人はアソシアシオンについて説明し、ぜひ自分たちの祈りに参加してくれるようにと説得した。このとき、師は喜んでこの願いを受け入れた(18)。
アデルは、ミクエル神父の素朴で心のこもった聖なる人柄に深く感銘を受け、それから一年たったのちにも、その時に受けた印象をアガタに書き送っているほどである(19)。
アジャンで行われたこの黙想は約6週間続き、5月30日に閉幕した。最後の日に、民衆は行列をして大きな鉄の十字架を運び、町の広場にこれを立てた。司教館の参事官と聖職者がこれに参加したのはもちろんのこと、市長や評議員ならびに警察署長もこれに参列した。当然、ミクエル神父もこの行列に参加したが、その時、師は雨の降りしきる中、ぬかるみを裸足で歩いた(20)。云わずもがな、アデルもアジャンのアソシアシオンのメンバーとともに、この行列に参加した。
帰宅したアデルは、時を移さずコンドムの伯母を訪問する旅支度にとりかかった。アデルは再度旅立つにあたって、アガタに手紙を書き、聖霊が心を照らし、コンドムにいるアソシアシオンのメンバー、とりわけこれからメンバーになろうとしている若い人たちの上に豊かな恵みが下るように、また、この新しいメンバーが、神に仕えるこの最善の道を、さらに多くの人たちに指し示すことができるように祈ってほしい、と依頼している。
アデルはコンドムで新しいメンバーを増やすことができた。3週間後、トランケレオンに帰宅したアデルは、早速そのことをアガタとジャンヌに書き送っている。かの女二人もアデルと同じように、新しいメンバーの募集に力を注いだ(21N47)。
アガタがアソシアシオンに入会させようと考えていた友人の中に、マドモアゼル・ペロ(MADEMOISELLE PEROT)がいた。この女性については、アデルの手紙に記されていること以外はなにも分かっていない。
1805年7月5日のアガタに宛てた手紙の中で、アデルは、マドモアゼル・ペロの消息を知らせてくれるように依頼している(22)。そして、自分がマドモアゼル・ペロに関心があるのは、ペロが自分の友人の知人であることと、かの女が神を愛する人物であるからだ、と述べている。
12月にアデルは、再度、マドモアゼル・ペロの消息を尋ねている(23)。1月になってアデルはかの女にかんする情報を受け取ったが、結果はあまりかんばしくなかったようである。アデルは、ペロがすばらしいメンバーになるだろうと考えていたが、時はいまだ熟していなかったのだろう。残念ではあったが、神の聖旨にお任せするほかはなかった(24)。
それから一週間後、アデルは再びこの問題に触れている(25)。アデルはアガタに宛てた手紙の中で、やっとペロと連絡がついたことは喜ばしいことだが、なぜそれほどまでに時間がかかったのか、いぶかしく思っていた。そして、まだ他にペロをアソシアシオンに勧誘する方法が残されていないだろうか、と問いかけている。そして、ペロの祈りは、アソシアシオンにとって、決して無駄なものではない、とも述べている。
(1806年の)6・7月頃になって、ペロのアソシアシオンにたいする連絡が何者かによって阻止されていたことが判明した(おそらく両親が反対したのだろうと思われる)(26)。
このできごとはアデルを深く悲しめた。ペロは聖なる人柄の持ち主であり、アソシアシオンにとっては素晴らしく役に立つ人だと考えていたからである(27)。もし事態を悪化させることなくかの女に連絡を取ることができるならば、是非これからもそうしてくれるように、とアデルはアガタに書き送っている。
事態は、翌年の1月になっても好転しなかった。アデルはこのころの手紙の中で、アソシアシオンのメンバーと文通できることは大きな喜びであるが、ペロと文通ができないことは残念だ、と述べている。そして、アガタがペロのためにつくった小さな刺繍をペロに送ってくれたかどうか尋ね、繰り返して、ペロがアソシアシオンに参加できないことは残念だ、と述べている。そして、アデルはこの手紙をしめくくるに当たって、もし神がお望みであるならば、かならず解決の道が開かれるだろうと、信仰の言葉で結んでいる(28)。
これがペロにかんする最後の記録である。おそらくペロは決してアソシアシオンに入ることはなかったのだろう(29N48)。
かの女たちの努力は、このような暗いものばかりではなかった。アジャンのアソシアシオンでは、ディシェ家の4人姉妹に次いで、ドロテ・デュマ(DOROTHEE DUMAS)25才と、その妹ソフィ(SOPHIE)23才、マリ・マサック(MARIE MASSAC)28才、エリザ・ド・ボ−ゼイュ(ELISA DE BEAUZEIL)21才、アレクサンドリン・セレス(ALEXANDRINE SERES)22才、などの新しいメンバーが加わった。このほかにも、今年26才になるセレン・ド・サンタマンス(SERENE DE SAINT-AMANS)がいた。かの女は誰よりも早く入会したメンバーの一人であったが、4年後の1810年に死亡している(30)。
12月、アデルはセレンにたいし、ミクエル神父がアソシアシオンを忘れないように、自分に代わって手紙を出してくれるように依頼した。それは、セレンとミクエル神父がそれまでにも文通しており、従って、かの女の手紙にミクエル神父は注意を払うであろうと考えたからである(31)。
セレンはラリボー神父(LARRIBEAU)とも文通しており(32)、ラリボー神父からの手紙や、その他の人たちからくる手紙を、デュマ家の姉妹たちとまわし読みしていた(33)。セレンはどうやら刺繍にも秀でていたらしく、かの女は、アソシアシオンのメンバーであるビルヌーブ・ド・マルサンのアデル・ド・ポミエと同じ先生から手解きを受けていたようである(34)。セレンが病気になるとアデルは非常に心配し、かの女を見舞いに行くようにと、アガタに勧めている(35)。
1810年にセレンが死に、それに先駆けること1年、1809年にはアミント・ド・モティエ(AMINTHE DE MOTIER)が死んだ(36)。かの女の死は、アソシアシオンのメンバーとしての最初のものであった。この二つの不幸なできごとは、人間の存在のもろさと、死がつねに目前にある現実であるとこを、アデルに深く考えさせるよい機会となった(37)。
アソシアシオンは、アジャンを核にしてその周辺のビルヌ−ブ・ダジャン(VILLENEUVE-D’AGEN)に拡がり(記録によれば、アデルはこのグループに属していた)、さらに、ビルヌーブ・シュル・ロット(VILLENEUVE-SUR-LOT)を越えて、アジャンの北方約50キロに位置するモンフランカン(MONTFLANQUIN)にまで波及した。ここでは、他の場所におけると同じように、アソシアシオンはその人たちの家族全員に影響を与えた(38)。
モンフランカンでは、ド・ボンナル家(DE BONNAL)の2人姉妹と、マルスピン家(MALESPINE)の3人姉妹、ラグランジュ家(LAGRANGE)の2人姉妹、ラフォール家(LAFORE)の3人姉妹、そして、カンパニョール家(CAMPAGNOL)の2人姉妹が会員になっている(39)。
ド・ポミエ家の姉妹たちは、もとはといえばデュクルノー氏に勧誘されたのであったが、今度はかの女たち自身が自分たちの町に住む人たちを勧誘し(40)、しかも、近隣の町サン・セベール(SAINT-SEVER)に住むド・ポルテ家(DE PORTETS)の5人姉妹を勧誘した(41)。この人たちの年齢は12才から23才であった。
コンドムでは、アデルが伯母への訪問を通じて知り合うようになった友人たちの中から幾人かのメンバーを募集した(42)。その中には、コンパニョ家(COMPAGNO)の3人の姉妹がいた。38才のカタリン(CATHERINE)、35才のマリ(MARIE)、32才のヘンリエッタ(HENRIETTE)の3人である。ちなみに、1807年以降アソシアシオンの会則に付加された条項によれば、入会年齢は30才以下に制限されている(43)。
このほかにコンドムでは、18才のデルフィン・トンブラン(DELPHINE TOMBRIN)と、15才のビクトリン・ラグテール(VICTORINE LAGUTERE)、および、18才のジャンヌ・マリ・シャルロット(あるいはロロットかも知れない)・ド・ラシャペル(JEANNE-MARIE CHARLOTTE [LOLOTTE] DE LACHAPELLE)がいた(45)。
アデルは、コンパニョ家の4番目の娘アドレード(ADELAIDE)をも勧誘しようとしていた。アドレードはコンパニョ家の一番年下の娘で、今年28才であった。アデルは云っている。
「アドレードは、年若いが素晴らしい聖徳の持ち主であり、姉たちはアドレードが洗礼のときに受けた潔白さを一度も損なうことがなかったと信じているほどです。もしアドレードがアソシアシオンに入会するならば、わたくしたちはどれほど多くを得ることになるでしょう! その上、もしアドレードが入会すれば、わたくしが余りよく存じ上げないコンドムの若いひとたちをたくさん集めることができると思います。わたくしはアデレードにお会いして、わたくしたちのこの愛する会の拡張についてお話しするつもりです。ひょっとして、アデレードは他の町にもお知り合いがあるかも知れません。そうすれば、わたくしたちの輪をさらに広げていくことができるでしょう。」(46)。
アドレード・コンパニョの欠点をあえて挙げるとするならば、かの女の文章がスペルの間違いだらけであったということであろう(47)。アドレードとの文通は、アデルの方から始まり、その後なん年間も続いた(48)。
アソシアシオンのメンバーは、その会則の規定によると、近くに住んでいるメンバーたちは、すくなくとも週に一回は集会をもち、祈りや反省をし、キリスト者として成長することができるように励まし合うことになっていた(49)。
アデルは田舎に住んでおり、他の会員から離れていたために、規則的に行なわれるこのような集会の恩恵を受けることはできなかった(50)。しかしながら、ディシェ家の人たちがトランケレオンを訪れたときは、かの女たちと多くの時間をともに過ごした。また、アデルがアジャンを訪問したときは、その地のメンバーたちと集会をもつことができた。
やがてロンピアンでも、ラリボー神父を中心に集会をもつようになった。しかし、それを除けばトランケレオンは、どちらかと言えば他のメンバーから遊離していたといえるだろう。文通がアデルにとって重要であったのは、そのような理由からである。
文通をとおしてアデルは他のメンバーから支援や示唆を受けたのであり、そしてなによりも文通こそがアデルにとって他のメンバーと連絡をとる手段であり、他のメンバーを知る手段であった(アデルはまだ一度も会ったことのない人を、驚くほどよく知っていた)。そしてアデルは、文通をとおしてメンバーを霊的成長に導くように励まし助け、慈善事業や使徒事業、霊生のネットワークをはぐくみ育てた(51)。アデルの手紙は楽観的でダイナミズミに満ち溢れ、アデルの人柄をよく反映している。窮乏や失意や落胆に苦しむ友にたいしては特に雄弁になり、相手を考え、理解を示し、効果的に支援を送った(53)。
アデルはアソシアシオンのメンバーに、その共通の使命を思い起こさせ、より大いなる熱誠とチャレンジの精神をかきたてればかきたてるほど、ますます他のメンバーたちから「親愛なるアデル(CHERE ADELE)」と呼ばれるようになった(54)。
あるときなどは、アデルは、メンバーにたいして忠告をあたえ、「わたくしたちはもっと努力をしなければなりません。努力がなければ後退するばかりです。前進しましょう、でなければ敗北します。前進するか敗北するかは、あなた方が自分で選ぶことです」(55)と書き送っている。
アデルは、メンバーの中のある人たちから強い感銘を受けたときは、そのメンバーをアガタやその他のメンバーに良き模範として示している。例えばその一例として、17才になるモンフランカンのヘンリエッタ・ド・ラクロア(HENRIETTEDE LACROIX)を挙げることができよう。アデルは云っている。
「なんと熱心なことでしょう。ヘンリエッタはわたくしたちと同世代の人です。模範にしようではありませんか。かの女は神を愛し、この世のものごとから離脱しようとしています。わたくしたちは少なくともその精神と望においてかの女の手本に倣わなければなりません」(56)。
モンフランカンで、多数の家族から娘たちをアソシアシオンに入会させたのは、ほかでもない、この年若いヘンリエッタであった(57)。
また、その他の機会には、アデルはアガタに次のように励ましている。
「アソシアシオンのメンバーであるド・ポミエ家のお嬢さんたちを手本にしましょう。かの女たちの模範は、わたくしたちに前進することを教えてくれます。あなたもわたくしも、このように聖なる人たちと結び付いているのです。でも残念なことに、わたくしたちはいまだに旧態然としています! これほどまでに多くの恩寵と良い模範をあたえられ、これほどまでに多くの救霊の手段を頂いたわたくしたちには、大きな責任があります」(58)。
アデルはメンバーに会則の規定を繰り返し思い起こさせ、ラリボー神父から送られてくるコメントや示唆を、他のメンバーたちに回覧していた。あるときラリボー神父から送られてきた手紙のなかで、黙想と糾明の大切さが強調されていた。アデルはこれに自分の主張を付加して次のように書き送っている。
「決して黙想と糾明を怠らないようにしましょう。たとえわたくしたちに与えられた祈りを全部するだけの時間がなかったとしても、この二つだけは、他に優先して実践しようではありませんか。霊的生活に進歩しようとする者にとって、欠かすことのできないものです」(59)。
糾明にかんして、アデルはアガタを激励し、毎日曜日、過去一週間の糾明に時間を割当て、進歩したか後退したか、改善のためには何をなすべきか、進歩のためにはどんな手段をとるべきか、などについて反省するように勧めている。そして自分たちの決意を固めるために、次のような鍛錬を実践することを提案している。
「おしゃべりをしたくなったとき、一度くらいはこれを抑えるように努力しましょう。残念なことに、わたくしたちは、しょっちゅう不必要なこと、なんの役にも立たないことを口にしています」(60)。
やっと17才になったばかりのアデルであったが、まるで経験を積んだ霊的指導者のように、放置するならば罪にいたるかも知れない傾向を、良い方向に向けるように指摘している。
聖女マリア・マグダレナの祝日に書かれたアガタに宛てた手紙の中で、アデルは、罪人の愛と優しさがみ主への燃えるような愛に変わった、と述べ、それまで聖女がこの世にたいしてもっていた際限なき愛が、同じ激しさをもって神に向けられたのだと記している(61)。
神から呼びかけられたこの種の回心を、アデルは次のように説明している。
「わたくしたちは被造物に愛着し過ぎてはいませんか。こころの優しさと感じやすさを神に向けましょう。はやる気持ちを野放しにしてはいませんか。この熱意を義務の遂行に向けましょう。ひとを喜ばせることに気を揉み過ぎてはいませんか。むしろ神を喜ばせることに気を配ろうではありませんか。ひとからの蔑視を気にし過ぎてはいませんか。この気持ちを、お悲しませ申し上げたみ主へのお詫びの気持ちに換えようではありませんか。自分の肉体を愛で楽しんではいませんか。興味の対象を心の美徳に向けようではありませんか」(62)。
7月22日に書かれたこの手紙の中で、アデルは間もなくアガタに会えるだろうと述べ、次のように記している。
「この訪問が良い結果を生むようにこころの準備をいたしましょう。わたしたちが進歩することは絶対に必要なことです。再会の機会を利用して(63N49)この世のものごとから離脱するように、おたがいに励まし合いましょう。これは、わたしたち二人がたがいに挑むチャレンジです」(64)。
このように、アデルは、再会の日を待ちこがれ、この再会から得るべきものを得ようとする期待感に胸をふくらませながらも、その訪問が自分たちをすこしでも神に近づかせるものになるよう、そして、そのためにこそ神はこのようなお恵みを自分たちに下さっているのだということを、アガタを含めて自分自身に思い起こさせている(65)。しかしながら、この訪問は延期され、10月まで実現することはなかった(66)。
さて、その間、アガタは、アデルにも大きな喜びをもたらすであろうような二つの状況の中で歓喜していた(67)。その一つは、アガタの聴罪師であるセレス神父が休暇で田舎へ行くのを中止したことである。アデルがアガタに書いた手紙を見ると、このためにアガタが長期間聖体の秘跡から遠ざかる必要がなくなったことは結構なことだ、と記されている。
もう一つのできごとは、ミクエル神父が再度アジャンで説教をすることになり、アガタはそれを聴きに行くことになった、ということである。「なんと羨ましいことでしょう」と、アデルは率直に自分の気持ちを打ち明けている。「祈りの中に神父様と一致できることは、これ以上大きな幸福はありません。」
アデルは、また、アガタとともに初めてミクエル神父に会ったときのことに触れ、神父の姿に非常な感銘を受けたことを回顧している。
「わたしたちも厳粛な態度を持し、優しく心を引き付けるような敬虔さを身につけなければなりません。こうして初めて、宗教はひとから愛され期待されるものになるのです。これは、わたくしたちの愛する会において、常に追求されねばならないことです」。
9月、コンドムの伯母たちが年次の休暇でトランケレオンに帰ってきた。当然のことながら、小さなエリザもいっしょに帰省したと思われる(68)。このころのアデルは、忙しい毎日を送っていた。帰省した伯母の世話だけでなく、自分に課せられた毎日の仕事に加えて、エリザとクララ、ならびに7才になるデジレの世話をしなければならなかったからである(69)。その上、アガタとジャンヌも会いに来ることになっていたし、ラリボー神父も訪ねてくることになっていた。
聖母マリアの誕生の祝日につづく2ヶ月は、聖母マリアにならって生活をするように努力した。マリアのように謙遜に、マリアのように寛大に、そして、マリアのように忍耐深く、貞潔で、罪の片らさえも遠ざけるようにした。それは決してやさしいことではなかった。しかし、アデルはみ主の恩寵と助けに満腹の信頼をおいていた(70)。
10月になった。でもアガタはいまだにトランケレオンへ来ることができなかった。アガタの来訪を心待にしていたアデルは、「あなたにお会いできる日を一日千秋の思いでお待ち申し上げております」、とアガタに書き送っている。このような気持ちに追われながらも、アデルは、アガタと過ごす日が二人をより神に近づけるものにな李益代うにと思い続けるのだった。
すでにアガタの聴罪師セレス神父は休暇で留守にしていたため、アガタは告白に行くことができなかった。アデルはアガタをなぐさめ、今までの罪の償いとしてこの苦しみを甘受するように勧めている。そして、この期間を有効に利用し、セレス神父が帰ったときには秘跡が受けられるように準備しておきなさい、と述べている(71)。
やっとアガタはトランケレオンにやって来た。そして、約一ヶ月間とどまった。アガタはこの滞在でマダム・パシャンと親しくなった(72)。
アガタが帰ると、すぐそのあとに、ディシェレットがやってきた。アデルの喜びは大きかった(73)。ディシェレットと一緒に小さな旅にもでた。フガロールとラヴァルダックの中間に位置する小さな村ビアンヌ(VIANNE)へ出かけ、そこに住むアデルの伯父フランソワを訪問した。もっと良かったことは、ジャンヌの滞在中に、ラリボー神父がトランケレオンに来てくれたことである(74)。それは11月18日、火曜日の夕刻のことであった。
神父は、その夜、出席者のために黙想を指導し、教会の一員であることの有難さを黙想し、皆と一緒にロザリオを唱えてくれた。翌朝の黙想は、み主に依存することの大切さについてであった。そして、そののち、もう一度みんなでロザリオをとなえた。
三人は、アソシアシオンとそのメンバーについて長時間話し合った(75)。アデルとジャンヌは、今後も、新しいメンバーの募集に尽力することになった(76)が、希望者を受け入れるばあい、その標準を高く保つことに決定した。
ラリボー神父は、とくに衣服にかんする慎みを強調した。それは、大革命以降、弾圧時代の反動で奢侈贅沢と、みだらな風習がフランス全土に蔓延していたからである(77)。後日、アデルは、手紙の中で、しばしばこの点に触れ、また自分自身でも手紙に書いたことを実行するように努力した(78)。
アデルとディシェレットは、ロンピアンにあるラリボー神父の小さな教会に、なにがしかの物品を寄付することを決め、そのために必要な布地と縫い糸をアジャンから送ってくれるようにアガタに依頼している(79)。12月の初旬、ジャンヌは帰省した。当時、ジャンヌは二人目の子どもをみごもっており、すでに妊娠6ヶ月であった(80)。
こうして、この年も終わりに近づいた。アデルは月日の早さを実感した。アデルがクリスマス・イーブに書いた手紙には、その一年のできごとが要約されており、当時のアデルのようすをかいま見ることができる。アデルはアガタに次のように書き送っている(81)。
ですから、わたしの親愛なる友人よ、こうして、また一年が、過ぎ去ろうとしています。この一年をわたしたちはどのように 利用してきたでしょうか。どれほどたくさんの恩寵を頂いたことでしょう!ミッションを頂きました。たくさんの教えを頂きました。会が成長したために、いままで以上にたくさんの祈りにあずかるお恵みを頂きました。そして、そのお恵みを頂きました。でも、それがかえってわたしに悔恨の念を起こさせる原因になったのではないでしょうか。たくさんの良き模範を頂きながら、それにならうことができませんでした。ああ、もしわたしたちにとって今年が人生の最後の年になっていたならば、どれほど多くの申し開きをしなければならなかったことでしょう!なんと大勢のひとたちが人生の終末に気付きもしないで生きていることでしょう。そして、わたしたちも、そのような人たちの様であり得たのです・・・
また、もし、わたしたちが有効に用いることのできなかったこれらの恩寵に加えて、自分の犯した数々の過ちと
、神と神をお喜ばせすることに考えを集中すべき時にこころに抱いた不純な考え、責任をとらねばならないような無益な言葉は云わずもがな、あとで悔やまねばならないような言葉の数々、そして、わたしたちの行いや怠慢を加えるならば、一体、どうなることでしょうか。偉大なる神様、もし、いま、あなたさまの恐るべき裁きのにわに立たねばならないとしたら、どうしてみ前に拝し奉ることができるでしょうか。
時は盗人のようにやって来る、とみ主はわたしたちに教えて下さいました。ですから皆さん、いつも用意していましょう。そして、痛悔と謙遜のこころをもってこの年の終わりを迎えましょう。神は痛悔と謙遜のこころをけっして見捨て給うことはありません。
まぐさ桶に寝ておられる神なる幼子イエスに憐れみを乞いましょう。神はけっしてわたしたちを退け給うことはありませ。こころの清いひとも、罪人も、急いでまぐさ桶の前に馳せ参じましょう。そして、愛すべき「イエス」のみ名を拝みましょう。このみ名は、わたしたちのために、み主がお選びになったものです。
ディシェレットから大みそかとお正月の「規則」をもらって下 さい。あなたさまがマドモアゼル・エリザ(ド・ボンナル)MLLE ELISA DE BONNAL)と文通することに、わたしがこころから同意していることを、ディシェレットの口から聞いていただきたいと存じます。エリザはわたしにとって大きな喜びです。きっと、あなたさまにも大きな喜びとなるでしょう。そして、あなたさまの喜びは、わたしの喜びを倍加してくれます。
さようなら、わたしのもっとも敬愛するアガタさま。崇拝すべ きイエスさまの馬小屋で、あなたを優しく抱擁します。
追伸:アソシアシオンのすべてのメンバーに抱擁を送ります。マドモアゼル・ド・セレスにできる限りのことをして差し上げて下さい。わたしたちの3時の祈りについて、マドモアゼル・ド・セレスに、ご説明下さいましたでしょうか。
この手紙に続いて出された1807年の正月の手紙も、同じく、人生のはかなさをテーマに書かれている。「ひょっとして、今年が最後の年になるかも知れません。最後の年だと思いながら過ごそうではありませんか。もっと熱心に生きるように努力しましょう。そして、毎日を死の準備の延長として、立派に過ごしましょう」(82)。
アデルは死について、このような考えを持っていたが、それによってアデルの生活が無気力になることは決してなかった
1月になると、いつもの慌ただしさとアソシアシオンのメンバーの増加 ー アデルは手紙の中で「今では24名になりました」(83)と述べている ー に加えて、もう一つの仕事で忙殺されることになった。それは、15才になる弟シャルルのパリ行きの準備であった(84)。男爵が先にパリへ行き、(男爵の)母方の伯母にあたるマダム・(ド・マリッド)・ラールマン(MADAME DE MALIDE LALLEMANT)と共に、シャルルの宿舎の準備をしていた。男爵は、この時、パリへの途次(あるいはその帰り道に)アジャンに立ち寄り、ディシェ家を訪問している(86)。後日、男爵はパリへ出かけるたびに、ディシェ家を訪問することになる(87)。
シャルルが勉学を継続するためにパリへ旅だつことは、とりもなおさずデュクルノ氏の旅だちをも意味していた。氏はシャルルに付添い、パリに滞在する(88)。しかし、そのあいだも、氏はアソシアシオンとの関係を維持し、アドバイスをあたえ、メンバーたちを励ましつづけるのである(89)。事実、氏はパリへの途次、アジャンに立ち寄ったが、その際、氏のアドバイスを必要としているメンバーの一人に会ってくれるよう、アガタから依頼を受けた。しかし、残念なことに、そのときはアガタの要求を受け入れることができなかった。アデルは、残念がるアガタを慰めた(90)。
確かに、デュクルノ氏の出発は、アデルにとって悲しみであり、今後氏を思いだす度に、懐かしく思い焦がれることになるのだが、すでにラリボー神父がアソシアシオンの指導者になってくれている今(91)、あまり大きな混乱もなくこの別れを受け入れることができた。
事実、アデルにラリボー神父から霊的指導を仰ぐように勧めたのは、ほかでもないデュクルノ氏であり、氏はラリボー神父のことを「パトリアルカ(長老)」と呼び、その言葉に耳を傾けるべき神の人だ、と云っている(92)。
別れの朝、アデルはデュクルノ氏と最後の朝食をとった(93)。氏がシャルルと共にパリに発ったのは2月のことであり、そこで向こう5年間過ごすことになる(94)。
この同じ月、アデルは、コンドムで説教をしていた宣教師ミグエル神父に再会できるかも知れないという期待で喜びに満たされたが、この望みは実現されることはなかった。
1月、アデルは、アガタとジャンヌに宛てて、ミグエル神父への提案書を送った(95)。この著名な説教師は、コンドムでは、アソシアシオンのメンバーであるコンパニョ(COMPAGNO)姉妹の家に泊まっていた(96)。師はアデルから手紙をもらい、これに返信を送った。アデルはそれを他のメンバーに回覧している。
コンドムに住むアデルの伯母は、ミグエル神父に会い、ミグエル神父がコンドムから次の任地へ赴く途中、トランケレオンに立ち寄るかもしれない、と知らせてきた。男爵夫人は、さっそく神父をシャトーにお迎えすることにした。そして、アデルはこの決定に歓喜した(97)。
アガタに宛てた手紙の中で、アデルはその時のできごとを説明している。
アデルは、母親男爵夫人につきそって、パシャン神父(FATHER PACHAN)とともに(98N50)シャトーの小道のはずれまで出かけ、コンドムからフガロールまで行く街道筋で馬車を待っていた。ミグエル神父はコンドムの主任司祭デステラック神父(FATHER DESTERAC)をともなって旅をしていた(99)。男爵夫人は二人の司祭を呼び止め、トランケレオンで夜を過ごすように招きかけた。しかし残念なことに、二人には先約があり、この招きを受けることができなかった。
「この聖なるお二人をお泊めすることができたなら、どれほど幸福であったことでしょう。そうすれば、ミグエル神父さまにお願いして、霊的な教えを頂くことができたと思います」、とアデルは述べている。
デステラック神父は、なぜコンドムのミッションに来なかったのかと、アデルに問いかけた。アデルはこれにたいし、自分はすでにアジャンのミッションに参加したからだ、と答えている。これにたいしてミグエル神父は、「そうでしたね。確かにアジャンの病院であなたさまとお目に掛かりました。お嬢さまは、もう一人の若いご婦人とご一緒でした」、と述べている。
ミグエル神父がかの女たちを憶えていたことは、アデルにとって大きな喜びであった。それは、神父が自分たちの会のことも忘れていない証拠だ、とアガタに述べている。
パシャン神父が二人の司祭に、「神の愛のために」お泊まり下さい、と述べたところ、「まさに、その神の愛のために、わたしは先に急がねばならないのです」とミグエル神父は答えた。
いつものようにアデルはこのときのできごとを思い返し、そこから実践的な結論を引き出し、この司祭の手本にならって、わたしたちも神の栄光にたいする熱誠を燃やし、力の限り神を愛さねばならない、と決意している。そして、ミグエル神父がアジャンの説教台で祈りを捧げたときと同じように、わたしたちも熱心に祈るように努力しなければならない、とも述べている。この聖なる宣教師は、その後も単にアソシアシオンの誠実なメンバーとして留まるだけでなく、アデルたちの意向に従って、定期的にミサを捧げてくれるのであった(100)。
翌3月、ジャンヌは二男カミユ(CAMILLE)を生んだ。3月5日、木曜日のことであった(101)。アデルはジャンヌにお祝いの手紙を送り、二人の子どもの伯母になったアガタにも祝辞を送った。二番目の子どもは女の子で、将来、アソシアシオンのメンバーになってくれることを夢みていたアガタは、少々、落胆していた。アデルはそのようなアガタを励まして、まだこれからも子どもが生まれるでしょうと慰めている。
結婚というものは「教会に子どもたちを、そして、天国に市民をもたらすためにあるのです。ですからイエス・キリストは結婚を秘跡として定められたのです」。神さまは、一般に、大きな家族を祝福して下さいます。そして、このお恵みを、わたしたちは結婚式のときに祈ります、とアデルは述べている。また、ジャンヌの最初の子どもユージーン(EUGENE)の出産をラリボー神父に知らせたときのことに言及し、神父が「ジャンヌと子どもさんの上に神の祝福がありますように。そして、真の神の下僕の後裔は、ますます繁栄しますように」(102)と感激を込めて述べたことを伝えた。
ちょうどこの頃、アデルは、アソシアシオンの初期のメンバーで、デュクルノ氏の友人であるド゙・ポミエ姉妹(103)から、なん回かにわたって訪問を受けた。ド・ポミエ姉妹は、近所で休暇を過ごしたのであった。アデルはかの女たちの訪問をことのほか喜び、これからも、しばしばトランケレオンにおいでになるようにと誘っている。そして、アガタもいつかかの女たちに会う機会にめぐまれることを希望し、ド・ポミエ姉妹の良き模範が霊的成長に大きな刺激剤となることを望んでいる(104)。
アデルは、また、バレーイュ(VALEILLES)の主任司祭グルニエ神父(GRENIER)とも連絡をとるようになった(105)。この司祭はアソシアシオンの数人のメンバーと知合いであり(106)、自分自身もアソシアシオンに加盟して(107)精力的に会員の輪を広げていった(108)。
やがて、アデルは、大きな喜びの内にラリボー神父を訪問する機会に恵まれた(109)。おそらく、当時アデルの旅行の付添い役であったマダム・パシャンに付き添われて旅をしたのだろう。
4月20日、月曜日、ラリボー神父の任地であるロンピアンへ旅だった。ラリボー神父の赴任以来、すでにロンピアンの小教区は若返っていた(110)。アデルとパシャンは、近所の農家に宿泊した(111)。この旅が先例となって、これから先、毎年ロンピアンを訪問することになる。あるときはアデル一人で、あるときは他のメンバーをともなって旅をした(112)。
この旅は、自己反省と霊的考察のために行う静かな黙想のひとときをアデルにあたえてくれた。アデルは、神のひとラリボー神父に、自分の魂のすべてを示してアドバイスを仰ぎ、新鮮さと勇気を身につけて帰途につくのであった(113)。
この当時アデルが霊的日誌のようなものを記録していたとしても(後年、アデルがそのようなものを書きしるしていたことは確かである)(114)、そのコピーは残されていない。アデルの手紙と黙想の決心、そして、アデルのいとこが残したメモアールに記された一般的なコメントを除いては、18才になろうとするアデルの精神状態や、理想、夢、関心事などについて直接に表現している資料は何も残されていない。しかしながら、アデルの手紙はごく自然に書かれており、そこに記された考えは非常に個性的であるために、この若く非凡なアデルを知るためには極めて有力な手がかりとなる。従って、もしアデルの内面性を知り、かの女の抱負を理解し、心の葛藤を分かち合い、かの女の内的成長ぶりを観察しようと思うならば、ぜひ、かの女の手紙を読むことをお勧めする。
アデルの霊的生活の指針は、5年前にデュクルノ氏に書いてもらった生活の規則を忠実に守ることであった(115)。今では以前ほど確定的な考えではいが、最終的にはカルメル会に入ることを目標としていた(116)。母親とデュクルノ氏に次いで、今ではラリボー神父がアデルの生活に影響力をもち、かの女の霊的成長を助け、アソシアシオンを激励し、その発展を助けている(117)。
アデルは自分の居室に小さな祈祷所を作っていた。それは、いわば、祈りの場所とも云うべきものだった。そして、1807年の春、そこにキリストとマリアの彫版を飾り付けた(118)。アデルはこの静かな場所で、愛するその二枚の彫版画を前に祈りを捧げ、日に二回の念祷をおこない、霊的読書をし、手紙を書いたのである(119)。ときどきかの女は居眠りをすることがあった(120)。アガタとジャンヌがトランケレオンに逗留しているあいだ、アデルとともに祈ったのは、この祈祷所か、さもなければ、シャトーのチャペルであった(121)。
アソシアシオンのリーダーとして、なかば強制されたようなかたちで自分に課せられた他人を指導し励ます仕事を、アデルは真面目に受けとめ、自分が他者に勧めたことはなににせよ自分自身の生活でも実践するようにこころがけた(122)。会の規則を実践するように人びとの注意を喚起するとともに、特別な機会に守るべきことの取り決め、かの女の表現を用いれば、特別な「規則(REGULATIONS)」の実践をも、アデルは会員たちに勧めた。この規則というのは、例えば、以前にも述べたように、召命の照らしを願うときには会員全体に声をかけて毎日聖霊にたいする特別な祈りを捧げる(123)、といったたぐいのものであった。
同じ手紙のなかで、アデルはメンバー全員に、キリストのおん身体(CORPUS CHRSTI)の祝日につづく8日間は、毎日、聖体降福式にあずかるようにすすめ、また、聖ペトロの祝日には、朝夕の念祷の題材を提案している(124)。ペトロの手本にならって、自分の犯した罪に涙を流し痛悔のこころを起こすように、また、パウロにならって、三回、「主よ、あなたはわたしに何をさせようとなさっておられるのですか」と祈るように勧めている。
もう一つの手紙では(125)、離脱について、なにから、どのように、離脱すべきかを黙想するように勧め、み主の恩寵がなければ、どれほど無力なものであるかを黙想するように勧めている。アガタとディシェレットには、堅信の記念日に行うべき特別な「規則」を提案している(126)。
アデルの手紙を走り読みしただけでも、この他にいろいろの規則の事例を見いだすことができる。これらの規則の他に、あるときはその付加として、また、あるときは切り離すことのできないものとして、「チャレンジ」の実践をアガタに勧めている。
すでに1805年の初頭、み主が裁きのにわで守られた沈黙を記念して、ある状況のもとで話したくなることを話さないようにしようと提案したことがあった(127)。その年の夏、アガタにたいして、聖フランシスコ・ド・サールの手本にならってこころが乱れたときは舌を慎む、という、舌と心の取り決めを、自分と一緒に守ってくれるように依頼している(128)。
聖女テレジアの祝日が近づいたとき、アデルは、聖女が体験した魂の無味乾燥な状態を思い起こして、聖女の祝日に謙遜の行為を6回おこなうことを提案している(129)。1806年5月、アデルはアジャンへ旅だつ日をまちながら、ご昇天の祝日のための「規則」を提案している。さらに、「ご昇天の祝日から聖霊降臨の祝日までの10日の間に、意識して罪を犯さないようにしましょう。聖霊が、そのすべての賜をもってわたしたちの心に降って下さるように、良心の潔白を保とうではありませんか」(130)、と述べている。
先に述べたように、「少なくとも一度は、しゃべりたいことを話さないでおく禁欲の行為」をしようと提案してから一週間経ったとき、アデルは、「なんとしてでもわたしたちは、沈黙を守ることによって償いの行為をしたいものです」(131)と述べている。
アデルが出した最初の頃の手紙の一つでは、重い病気を煩っている二人のプロテスタントの信者のため、そして、聖職を離れた二人の司祭のために、聖ヨゼフと聖マリアを思いめぐらしながら、主祷文と天使祝詞をとなえるように提案している(132)。
ときどきアデルは、典礼の暦のある点をとって解説したり(133)、次の日曜日の書簡について述べたり(134)、かの女自身あるいは他のメンバーが週のスローガンとして提案した種々の祈り(ACTES)について、考えを述べている(135)。つまり、アデルは、祝日や(136)聖人をとりあげて、そこから自分たちの行動の模範を得るように提案していたのである。
1805年、聖母被昇天の祝日から間もない頃、アデルは、「マリアの諸徳はわたしたちが模倣すべきものであり、この諸徳は、とりわけ、被昇天と聖誕の二つの祝日にはさまれた期間に学びとらなければならないものです」(137)と語り、マリアの潔白と謙遜、マリアの従順と神への愛、そして、マリアの忍耐の徳について黙想し、そこから実践的な結論を導きだしている。翌年のお告げの祝日にも、同じような考えをもって黙想を行っている(138)。
アデルは、また、聖体拝領を許されたときには感謝の気持ちを手紙に書き、かの女の存在そのものを満たして下さる聖体の愛と不思議について思いをめぐらしている。そして、アガタを含めて自分も、聖体拝領の準備を立派に行い、キリストのお身体に触れることによって、自分たちの舌と目と心が、キリストの姿に変るように祈っている(140)。秘跡の内におられるキリストの現存が、愛するものを捨てることのない神の愛のしるしであると理解して(141)、度重ねていただく聖体拝領が、霊的進歩を助けることになるであろうとの確信を表明している(142)。
聖体拝領の機会に恵まれないときのアデルの失意と苦悩は激しく(143)、拝領できるときは、すでにその以前から、喜びに心を満たされていた。「わたしたちをそれほどまでに愛し、食卓につくわたしたちを見てお喜びになる神。そのように慈悲深い神を見出すために、信頼をもって行こうではありませんか」(144)と述べている。
アデルは、ご聖体の中に、困難なときの平安と慰めを、試練のときの希望を、弱さから這上がろうとするときの力を、見出すのであった(145)。
手紙の中で反映されたこのような考えや意向は、ラリボー神父を訪問した際に吟味され検討された。こうして得られた神父のアドバイスや提案は、かの女の手紙に表われている。また、さらに重要なことには、こうして得られた神父のアドバイスや提案が、かの女の生活に反映されたことである。
アデルがラリボー神父への最初の訪問から帰省したとき、早速、ディシェレットとアガタに手紙を書いて、そのときに受けた恩恵を分かち合っている。その詳細の大半はディシェレットに宛てた手紙にしるされていたが、残念ながらその手紙は今では消失している。しかし、アガタへの手紙を見れば、アデルが霊的生活への新しい刺激を得るとともに、アソシアシオンの仕事にたいする新たな励みを得たことが分かる。
アデルは、また、ラリボー神父から手紙が送られて来ると、それをジャンヌとアガタに見せている(146)。そして、アソシアシオンを成長させるための神父の「提案」を説明している。その提案は、メンバーの各自が一人のメンバーを選んで霊的進歩の励みとする、と云うものであった(147)。その上、ラリボー神父は、毎月の第一金曜日、会員の意向に従ってミサ聖祭を捧げることを約束してくれた(148)。
アソシアシオンは、成長し続けた。5月の末にコンドムを訪問したとき、アデルは新しいメンバーを募集した(149)。ビルヌーブ・ド・マルサンでは、聖にして活発なド・ポミエ姉妹たちが、修道者マダム・ド・サント・アンニェス(MADAME DE SAINTE-AGNES)を募集した。マダム・ド・サント・アンニェスは、アデルと文通を行い、それからのちは、いつも会の発展状況について報告するようになる(150)。アガタの一番年下の妹アデル・ディシェは、今では14才になり、アソシアシオンの会員になっている(151)。
また、アジャンでは、ディシェ家の姉妹たちが18才になるアメリ・ド・リサンを募集した(152)。アデルは以前からアメリの家族を知っていた。亡命以前、男爵夫人が家族を連れてアジャンに泊まっていたとき、幼いアデルは、ド・リサン家の子どもたちと遊んだことがある。従って、アデルはすでにアメリと面識があったのだ。しかし、どちらかと云えば、アデルに年が近いアメリの兄の方をはっきりと憶えていた(153)。
アメリはこの後、アソシアシオンにとって、非常に活発で影響力をもつメンバーの一人となる。また、アデルの生涯において、特別な位置を占めることにもなる。アデルとアメリは、直ちに文通を開始した(154)。
ガロンヌ川の対岸で、ポール・セント・マリから約20キロ川下に下ったところにあるトナン(TONNEINS)では、ラリボー神父が、25才になる優秀な志願者を募集しようとしていた(155)。
7月になると、ラリボー神父は、再びトランケレオンを訪れた。アデルはアガタに手紙を送り、神父がいる間にトランケレオンに居ればよかった、と述べている。そして、「神父さまは、なんと聖なる方でしょう。すべてを神との関係において見ておられます。そして、すべてにおいて神を見いだすことができるように助けて下さいました」と感激を込めてしるしている(156)。
この訪問に際して、ラリボー神父はアデルの服装をより慎み深いものにするように、と主張した。アデルは、いろりろと神父と話し合った結果、神父の主張に同調することになった。
父親がアデルに持ち帰るドレスは非常にスタイリッシュなものであったが、アデルはこれを着るときに、体のラインを出さないように、ショールやスカーフを纏うことにした。そうすることはあまり格好の良いことではなかったが、「わたしの願いは、神さまをお喜ばせ申し上げることです。わたしの心の愛情は、すべてこれを神さまにお捧げします。世間が何と云おうと、云わせておきましょう」(157)。
しかし、アデルは、ラリボー神父が格好の悪さを好むような極論者ではなく、謹慎と質朴を主張しておられるに過ぎないのだ、と説明している。
1807年7月23日の手紙が最後となって、それ以降、一年半におけるアデルの手紙は存在しない。アデルが自分から好んで文通を断ったり、そうする意向があった気配はまったく見られない。この間の手紙は、すべて喪失したのである(158)。