深まるジャンヌとの友情/アソシアシオンの設立/ディシェレットの結婚
新しい友人をえたアデルは、胸いっぱいに幸福感を抱きしめていた。事実、肉親関係をのぞけば、ジャンヌはアデルが真に心を許すことのできる最初の友人であったのだ。
子ども時代のアデルは、その生活の大半をシャトーで送り、どちらかと云えば世間から隔離された存在であった。亡命中には、子ども同志の付き合いもあった。しかし、当然のことながら、それは長続きするものではなかった。だが、今のアデルは、初めて家族の枠から外にでて、新しい世界に生き始めたのである。
1784年11月18日に生まれ、その翌日に洗礼を受けた(1)ジャンヌは、アデルより四才年上であった。でも、この年の差は、二人の友情にいささかの障害ともならなかったようである。
母親の指導と、アデル自身が亡命生活を通じて得た数々の体験、そして、デュクルノ氏から受けた霊的指導のおかげで、アデルは年齢以上に成熟していた。
アデルとジャンヌをくらべれば、ジャンヌは静かで自制心があり、他人の意見を受けいれる性格の持ち主であった。アデルは、それに反して、活気に富み、興奮しやすく、エネルギッシュな性格の持ち主であった(2)。
しかし、また、二人はいろいろな面で共通点を持ち、お互いに欠けたところを補い合う、よくバランスのとれた仲であった。後ほどわかることであるが、この二人の間で、大きな影響力を持っていたのはアデルであり、強い意思でジャンヌを一つの方向に引っ張っていく役割をはたしたのである(3)。子ども時代も、大人になってからも、そして、一人は結婚して未亡人になり、もう一人は修道女になってからも、その生涯の多くを分かち合い、同じ夢を抱いて過ごした二人であった。
そしてまたこの二人は、アデルの偉大なライフワークの中で、良き協力者となった。そして、最終的には、ジャンヌはアデルの臨終に立ち会い、そこで真の友人としての確証を得ることにもなる(4)。
最初に出会った堅信の日から間もない頃、アデルは再びジャンヌに会う機会に恵まれた。二人が素晴らしく意気投合しあっているのをみた男爵が、ジャンヌを同伴してトランケレオンを訪れるようにディシェ氏を招待したからである。このときジャンヌは、ディシェ氏が帰郷したのちも、しばらくトランケレオンに滞在した。そして、それ以来、ジャンヌはしばしば長期にわたってトランケレオンを訪問するようになる。少なくとも年に一度から二度、結婚して子供ができたのちも、ジャンヌはトランケレオンを訪れ、数週間滞在することになるのだ(5)。
アデルにしても同様であった。かの女もまたディシェ家を訪問するためにしばしばアジャンに足を運んだ。また、母親とフィジャックを訪れるときには、必ずディシェ家に立ち寄った(6)。
ジャンヌが最初にトランケレオンを訪れたときは、時間の大半を体験談で過ごした。二人はお互いの体験を比較しあい、話に尽きることを知らなかった。こうして二人は、どちらも宗教心に篤く、神を大切にし、霊的に精一杯成長しようとしていることを知り、司教館の朝食でえた第一印象が間違ったものではなかったことを、たがいに確認し合ったのである。
アデルはこの新しい友人と家族ぐるみのつき合いをし、シャトーでの生活を共にすることに大きな喜びを見いだしていた。しかし、それ以上に大きな喜びは、アデルがすでに一年前から守っている「生活の規則」を分かち合うことであった。二人は、祈りにおいても、興味においても、そして、リクリエーションにおいても、共通するものを見いだしていた(7)。
性格の適合性、生活背景の相違を超えた趣味の一致、そして、霊的な絆。これら三つの要素の上に二人の友情は深く根を下ろした。そして、その友情は、かの女たち二人のためだけではなく、かの女らを取り巻く周囲の人びとのためにも、立派な実を結ぶことになるのだ。
「神のみがキリスト者の友情の原理であり、不変の絆です。ですから、もしわたくしたちが神において愛し合い、神のために愛し合い、神を見て愛し合うなら、その友情は永遠です」(8)。
ジャンヌの妹アガタに宛てたアデルの最初の手紙に手短く記されたこの言葉は、まさにアデルとジャンヌの友情を雄弁に物語るものといえよう。
この友情は、かの女たちの霊的進歩を助長し、二人で一緒に受けた堅信の秘跡を通して与えられた神のたまものを、より一層忠実に生きるように励ましてくれたのだった(9)。
ジャンヌがトランケレオンを訪問したときは、共に祈り、交代で霊的読書を朗読した。そしてこの二人は、ゆくゆくは司祭の指導のもとに、共に黙想をするようになる。しかし、当分のあいだ二人の生活を指導するのはデュクルノ氏の役目であった。
最初の訪問で初めてデュクルノ氏に出会ったジャンヌは、氏の人柄にこころをうたれ、氏の確信に満ちた宗教心に深い感銘を受けた。こうしてジャンヌも、アデルのように氏の指導を仰ぐようになったのである(10)。
ディシェ家とトランケレオン家の交際は、この二人の友情を超えて、両家の親族全員を包み込むまでに育っていった。事実、後になって、亡命時代からの付き合いであるイギリスの軍人がトランケレオンを訪問した際、5人の娘のうち、どの子がトランケレオンの娘か見分けがつかなかった、と述べているほどである。娘たちは皆、男爵をパパと呼んでいたのである(11)。
アガタはとくに強くこの友情に引かれ、この後、かの女もしばしばトランケレオンを訪問するようになる(12)。両親たちも(13)、シャルルやデュクルノ氏と同じように(14)、アジャンとトランケレオンの間を行き来するようになり、ちょっとした手助けをしたり、使い走りをするようになる(15)。そして、コンドムに住む叔母たちさえもが、この友情に加わるようになるのだ(16)。
この年の夏も終わりに近づいた頃、アデルは黙想を行った。おそらくそれは「規則」に記されている洗礼の約束の更新のためであったと思われる。黙想の終結にあたって、種々の決心をたてたが、それを見ると、自制心を体得しようとする努力のほどがうかがわれる。決して他者、とりわけ司祭に、過度に心を寄せないこと。決して不公平な態度を示さないこと。自分の気持ちにまったく反することがらを依頼されたとしても、喜んでこれに従う、などがその時の決心である(17)。
このときの第一の決心は、当時フガロールで起きていた変動を予期してたてられたのかも知れない。事実、1803年の暮近く、やっとこの小教区にも専属の主任司祭が配属されたのだ。
当時フランスの教会では、コンコルダの調印に引き続いて、抜本的な構造改革が行われた。しかし、司祭不足は深刻であった。1789年、フランス大革命が勃発した当時には、教区司祭と修道司祭を加えると、9万人から10万人の司祭がフランスにいた(18N39)。そのうちの約半数が「宣誓」し(19)、やがてその大半は結婚した。亡命した司祭たちは、多数が亡命先で死亡したり、亡命先の地に定住してしまった。司祭職を離れる者さえいた。革命が終結した1800年当時は、フランスの司祭は僅か8000名であったと推測される。もちろん、その大半は「宣誓派」の司祭であったのは云うまでもない。1809年までには多数の亡命司祭が帰国し、31、000人にまで増加した。しかし、かれらのうち、おそらく30、000人近くは40才を過ぎており、多くは70才から80才代であったと思われる(20)。
革命以前、サン・シルの主任司祭は、ジャン・サン・マルタン師であった。アデルとシャルルに洗礼を授けたのは、この司祭である。かれは1790年の宣誓を行ったため、シャルルに洗礼を授けたころは「宣誓派」の司祭であった。そののちこの司祭は、一切の宗教行為が禁止されていた恐怖時代は別として、混乱した革命のあいだ、常にこの小さな教会で聖職の任に当たっていた。トランケレオン家の人びとが亡命の地から帰国したときも、この司祭は教会に留まっていた。しかし、かれの信徒にたいする影響力は目にみえて衰えていた。
かれは二度宣誓を拒み、二度宣誓を行った(21)。そして、この司祭とメイドとのあいだにただよううさん臭い噂も、憶測の域をこえていた(22N40)。かれの信頼は地に落ち、人びとにたいする影響力は失われた。コンコルダが調印され、教会の再建が進み始めると、この司祭は健康を理由に、自からすすんで辞任した(23)。後日、アデルが、以前聖職に就いており、人びとのつまずきとなっている某司祭のために祈りを依頼しているが、それは、おそらくこの司祭のことであったと思われる(24)。
ジャコピ司教は新しい主任司祭としてピエール・ドゥッセを任命した (PIERRE DOUSSET)。かれは、当時、43才であった。この司祭は、革命以前、司祭修道会のメンバーで、ネラック(NERAC)にあるカレッジの主任司祭をつとめていた。1793年には、教会を分断する宣誓を拒否している。当時フガロールが所属していたコンドム教区の司祭であった(25)この司祭は、ジャコピ司教に召喚され、1803年10月に新しい市民宣誓を行って、主任司祭の職についた。
10年間の司祭不在ののち、フガロールの小さな村でも、やっと男爵とその家族を交えて、充実した典礼儀式をおこなうことができるようになった。とりわけクリスマスには、盛大な祝が繰り広げられた。
しかし、このドゥッセ神父は、当時のフランスの聖職者の多くがそうであったように、かなりジャンセニスト的な傾向をもっており、穏健なデュクルノ氏とは対照的に、厳格な司祭であった。このために、後日、アデルはしばしば苦しむことになる(20)。
しかしながら、シャトーとその住民に対する師の関係は良好であった。かれはしばしばシャトーを訪れ、自分の小教区の大半を占める男爵の家族とその召使たちの安否を問うのであった(27)。
1804年。それは、フランスの国民にとって大きな転換期であった。ナポレオンはフランスを帝国に改め、自らを皇帝として戴冠した。1799年、ナポレオンが第一執政官であったころ、フランス社会は退廃し、無政府状態に置かれていた。街道筋には盗賊や追い剥ぎが横行し、橋は崩れ落ち、通商は停止し、国家の財政は壊滅状態であった。国外からは敵国に脅かされ、国内では市民が分断されていた。有能な指導者は、あるものは追放され、あるものは牢獄につながれていた(28)。
背丈わずか160数センチ、てんかん症に悩まされながらも異常なまでのスタミナと、けたはずれの記憶力を持ち、文官武官の区別なく、自分に仕えるすべての人にカリスマ的指導力を発揮したナポレンは、数週間にしてフランスを掌握し、過去10年間、あるいは、それ以上続いてきた共和政治への風潮を、逆転させてしまった(29)。
国内の秩序はおおむね回復し、社会構造は再建され、宗教の自由は復権し、教会との関係は修復された。パリの中央政権は再確認され、国を取り巻く敵対勢力は湾岸に釘付けにされ、やがて打破されてしまうことになる(30)。
新しい市民憲章の草稿はすでに1790年に着手され、1804年には、ナポレオンによって公布された。こうしてフランスに、初めて、真の意味での「国家」憲法が誕生した。この市民憲章は、それまでフランスの南部を支配していたローマ法に代わるものであり、また、北部を支配していたフランク族習慣法に代わるものであった(31)。やがてナポレオンは、ヨーロッパのほとんど全域に民法典(ナポレオン法典)と徴兵制度をしくことになる(32)。そしてこの徴兵制度は、すべてのフランス人男性にとって、初聖体と16才の誕生日に結び付けられた人生の「通過儀礼」になるのである(33)。
1804年の夏。それはアデルにとって、一つの転換期であった。この夏、ジャンヌはトランケレオンに来ていた。ジャンヌはすっかりシャトーの生活にとけ込み、まるで家族の一員のようになった。二人は一日のほとんどその大半を共に過ごし、デュクルノ氏もこれに加わった。おそらくこの夏、かれらはいっしょに黙想をしていたのであろう。アデルがたてた黙想の決心の最初のものは、ドゥッセ神父を念頭においたものと思われる。「1804年の黙想におけるわたしの決心」と題してアデルは次のように記している。
指導者に素直に従うこと。
想像力を鎮めること。
聖体への望みを、より大きくこころに養うこと。
要求されれば、いかなる犠牲もこばまないこと。
以上の通りである(34)。
デュクルノ氏は、かの女たちとともに革命直後のフランスにおける荒廃した信仰生活について思いめぐらしていた。2年前にコンコルダが締結されて以来、人びとの信仰を目覚めさせ、宗教行事を復活させるために、多大の努力が払われてきたことは事実である。当時のフランスは、まだ、おおやけには非キリスト教的な革命暦を用いていたが、信徒たちは典礼暦にもどり、聖人の祝日を生活の節目とするようになっていた。しかし、国民の多くは、明確に非キリスト教徒であるとも反キリスト教徒であるとも決めかねないまま、宗教無関心の状態におちいっていたのである(35)。
ここ10年以上、カトリック教会は法律によって禁止され、宗教教育も束縛されたままであった。もし、いくらかでも存続していたとするならば、それは家庭の中でひそかに行われていたものだけである。アデルと同世代の若い人びとは、おおやけに行われる宗教行事に参加した記憶はほとんどなく、一般にかれらはキリスト教の基本的な知識さえも備えていなかった。
聖職者のかずは少なく、いたとしても年老いているか病身の人が多かった。また、神学校は無にひとしかった(36)。宗教心を育て、信仰を実行に移そうとする真面目な乙女たちは、人びとから白い目でみられ、ほとんど孤立の状態にあった。それは、以前にも述べたように、トランケレオンにおいてさえ、必ずしもすべての人が、長期間カルメル会で黙想しようとするアデルの希望を快く受けいれたわけではないと云う事実から、容易に理解できることである(37)。
デュクルノ氏は、真摯な気持ちで信仰を生きようとするアデルとジャンヌには、ある種の共同体としてのサポートが必要であると考えたようである。おそらく氏は自分自身にとっても、そのようなサポートの必要性を感じていたのかも知れない。
革命以前は、このようなグループが数多く存在していたことをデュクルノ氏は知っていた。小教区単位の団体や、さらに広い範囲におよぶ団体、ならびに、コレージュ(COLLEGES)や修道女の経営する学校に属するもの、修道会や修道院に所属する団体などがあった。これらはすべて、解散させられたり、嫌がらせや迫害、社会からの冷遇などによって姿を消してしまった。パリやリオン、ボルドーなどの大都会では、このようなグループを復活させようとする気運が高まってきた(38)。しかし、フランス南西部の田舎では、そのような動きは皆無にひとしかった(39)。
そのような理由から、デュクルノ氏は、地方貴族の出身であるアデルと、県庁所在地のブルジョアの出身であるジャンヌの二人にたいして、祈りと霊的サポートを目的としたある種の共同体を三人でつくらないかと提案した。二人はこの誘いを歓迎し、熱意をもって受けいれた(40)。
三人が、グループ結成の約束を交わしたのは、その年の8月のことである。1804年8月4日付けのノートに、ジャンヌは次のように記している。「ジャン・デュクルノとアデルとの三人で結成したアソシアシオンが神に祝福されますように、との意向をもって聖体を拝領をした」(41)。当時、アデルは15才、ジャンヌは19才の後半、デュクルノ氏は40才であった。
この「アソシアシオン」は、やがて年若い女性たちのあいだに広がり、その輪は三人の予想を超えたものになる。実際、これからの数年間にこのアソシアシオンは、アデルの最も重要な課題の一つとなるまでに発展するのだ。しかも最終的には、教会に二つの新しい修道会と、数多くの信徒集団をつくり、アデルの死後も末長く存続することになる。
アソシアシオンは急速に発展し始めた(42)。ジャンヌは家に帰ると、すぐに家族と話し合って、4人姉妹のうち3人までをこのグループに参加させた。テレーズ、ルシール、アガタの三人である。三人は、それぞれ、18才、17才、16才であった(43)。当時、11才であった一番末の妹アデルは、三年後、このグループに参加する(44)。
デュクルノ氏も、故郷に帰り、二人の年若い女性をこのグループに誘った。氏の故郷はボルドーの南、大西洋に面したランド(LANDES)県のビルヌーブ・ド・マルサン(VILLENEUVE-DE-MARSAN)と云う小さな村(人口1600人(45))である。氏が募集した二人のメンバーは、ロザリ(ROSALIE)とアデル・ド・ポミエ(ADELE DE POMIER)であった(46)。この二人は、将来このアソシアシオンにおいて重要な役割を果たすことになる。当時ロザリは19才、アデル・ド・ポミエは20才であった(47)。
こうして、今はまだ名もないこのアソシアシオンであったが、やがて「小さき会」と呼ばれるようになるこの会は、デュクルノ氏とアデル、ディシェ家の四人姉妹とド・ポミエの二人姉妹を創始者として始められたのである(48)。
このグループが結成された目的は、一般的な相互扶助と祈りの分かち合いのほかに、良き死を準備することであった。一見この目的は、年若く元気に満ち溢れた女性を主要メンバーとするグループとしては、いささか病的に思われるかも知れない。しかし、過去10年間、死は決してかの女たちにとって縁遠いものではなかった。フランス国中が死に直面し、町と家族と友人たちのあいだに死はつねに現実のものとして迫っていたのである。しかも、政府はいつ宗教にたいする政策を変えるか予測もつかず、病と疫病は蔓延し、年若くして命を落とす可能性はつねに人びとの身辺から離れることはなかったのである(49)。
しかも、そのような社会情勢とは別に、かの女たちが使っていた「規則書」(50)をひもとくと、強調されているのは死そのものよりも、むしろ、良い死を遂げることができるような生活に力点が置かれていた。後述するように、アデルはアガタへの手紙の中で、まさにこの点について触れており、アデル自身の死に関する見解を明らかにしている。
この小さい「アソシアシオン」の規則書が、デュクルノ氏の手によるものであることは疑う余地がない(51)。8条にわたるこの規則書は、簡潔かつ明確なもので、メンバーのなすべきことが詳細に記されている。だが、この規則を守ることは個人の自由意思によるものであって、それ以外のいかなる義務をも負わせるものでないことが明記されていた(第1条)。なお、この規則書では、アソシアシオンの形態は一切規定されておらず、指導者の役割と上司への報告の義務も規定されていない。
文書(52)の冒頭には、J.M.J.の頭文字が記されている(訳者注:最初のJはイエス、Mはマリア、最後のJはヨゼフの頭文字)。そして、その後に、この規則書を読む者は、先ず、愛と感謝のこころを込めた短い祈りをするように、と注意をうながしている。第2条では、生死の別を問わず、すべての会員はミサ聖祭、聖体拝領、禁欲と施しをとおして、祈りの交わりに参加すると宣言する。
この会の目的は(第3条)良き死をまっとうすることであり、そのために、すべてのメンバーは聖体を拝領し、至聖なる乙女のご保護のもとにその身をおく。金曜日はイエスの死を記念し(第4条)、各人はキリストにおける死と復活を黙想し、キリストの七つの傷を思い起こして天使祝詞を七回唱える。
”MON DIEU”「わが神よ」という表現は、フランス人が口癖のように用いる表現である。第5条では、この言葉に「さあ、神様を愛しましょう」という意味をもたせて、メンバー全員の喚起をうながすかけ声にしよう、と規定されている。
メンバーが増えた場合には、金曜日に都合のつく人たちが集まって、祈りや霊的読書の集会をもつ。しかしそれ以外の日でも、熱意を高め、たがいに励まし合い、読書をし、おのおのが受け取った手紙をまわし読みするためであるならば、随時集会をもつことは推奨さるべきものとされていた(第6/7条)。
第8条では、毎日午後3時に、こころの中で十字架のもとに馳せ参じ、キリストの死を祈念し、キリストにたいする愛を表明する。この祈りは、仕事の手をやすめずに行い、居合わせる人たちに迷惑をかけないよう、こころの中で行う、と規定されている(53)。
この8つの条文のほかに、5つの条項が付け加えられていた。この5ケ条は1807年に付加されたものである(54N41)。その第一の条項、すなわち第9条によると、聖フランシスコ・ド・サールの勧めに従って、月の第一金曜日はミサをもって特別に記念し、死の準備をおこなうことになっていた。
聖フランシスコ・ド・サールは、この小さなアソシアシオンにとって、聖母マリアと聖ヨセフに次ぐ大切な保護の聖人として仰がれていた(55)。そして、もし会員が、月の第一金曜日に聖体拝領ができない場合には、すくなくとも霊的に聖体を拝領するようにと記されている。
第10条では、たがいに助け合い、矯正し合うことによって、生活の中で神の聖旨を見いだしえるように、霊的伴侶としての友人をもつことを勧めている。また、会員各人は、他の女性たちが神を愛し神に仕えることができるように積極的に働きかけること(第11条)、そして、神の現存をつねに思い起こしながら生活するよう、より忠実に心がけること(第12条)を規定している。
また、最後の箇条では、アデルがしばしば述べているように、新しいメンバーを受けいれるときは、徳が高く、適切な人格の持ち主であること、また、とくに服装や態度において控え目であり、他者のこころを惹きつけるような人物であるべきことを規定している(56)。
原則として、アソシアシオンは30才を超えるひとは受けいれないことになっていた(第13条追加条項)。しかしながら、後日、この小さな会に歳かさの婦人たちの部会ができ、男爵夫人自身、そのメンバーになっている(57)。
以上に見てきたように、この会の目的は、第3条で述べられているように、自己の霊的生活を育成することであり、他の年若い女性たちに助けと配慮と司牧の手を差し伸べることにあった、と言うべきである。
ほとんど毎年のように死は訪れる。アソシアシオンが設立されてから3カ月ほど経ったころ、シャトーに三度目の死が訪れた。アデルにとって、死は決して珍しいものではなかった。亡命の道すがら、数多くの怪我人や病人の死に出会った。また、母親とともに訪問した多くの家庭で、死を目の辺りにした。なかでも大伯父シャルルの死は、アデルにとって、大変身近なものであった。死は、大自然が毎年繰り返す儀式なのである。今回は、カタリン・アンヌの番であった。11月6日のことである(58)。
男爵の妹の中で最年長者であったカタリン・アンヌは、この時わずか48才であった。10年間家を守り、財産を管理し、略奪者や政府の手から家族の権利を守り続けたひとである。この重荷がかの女の健康を傷つけたのかも知
れない(59)。
革命以前であるならば、貴族の子女の教育は修道院の学校で行われた。しかし、亡命以降のアデルに教育を授けたのは、デュクルノ氏のほかに、この伯母カタリン・アンヌであった(60)。
愛する伯母の死を前に、アデルがどのような思いをこころに抱いたかは想像に難くない。アガタに宛てた1805年3月6日付けの手紙(61)の中で、アデルは長々と死について語り、教会の最後の秘跡を受けるときのキリスト者の心構えについて記している。その中でアデルは伯母の死について言及し、「伯母の死を看取ることは、恐れであるより、むしろ、慰めでした」と述べている。
カタリン・アンヌのおだやかな態度、さいごの聖体拝領と終油の秘跡にたいする切なる望み。このような状況を目のあたりにしたアデルは、思わず「聖なる生活を送った人の死は、なんと幸福なものか」と叫ばざるを得なかった、と述べている。
この思いは、その後もアデルが典礼行事にさいして記した手紙や、友人やその関係者の死にさいして記した手紙のなかで、幾度か触れられている(62N42)。
1805年の初旬、ジャンヌの生涯を左右する重大な事件が起きた。それはアデルを動揺させ、パニック状態にさえおとしいれるものであった。この年、ジャンヌは20才。両親はかの女を結婚させるべく手配をととのえたのである。ジャンヌ自身は結婚にたいしてそれほど興味を持っていたわけではなかった。しかし、かの女はこの両親の計画を神の聖旨として受け入れた。
両親が選んだ花婿は申し分の無い人物であった。アジャン出身の28才になる男性で、名をエメ・バルテレミ・ベロック(AIME-BARTHELEMY BELLOC)といった。医師を職業とするかれは、才能があり、徳が高く、献身的に医業にたずさわり、とりわけ囚人や施設に収容されている貧しい人たち(POOR HOUSE)の世話をしていた(63)。
結婚の準備はその年の冬に進められ、式は4月23日に挙行された(64)。アデルとアデルの家族が式に招かれたかどうかは明白でない。ただ、その可能性は非常に高い。アデルはその時の忙しさについて語り、アガタの心がそれによって取り乱されたのではないかと心配している(65)。
ジャンヌは結婚して、ジャンヌ・ディシェレット・ディシェからマダム・ベロックになった(66)。これがアデルにどのような思いを与えたか。想像に難くない。
本当にアデルは、この結婚によって友を失ったのであろうか。アソシアシオンも、これによって創立者の一人を失ったのだろうか(67)。
アデルの危惧は無意味に終わった。新郎ベロックはめずらしく無欲な人物で、新妻とその歳下のトランケレオンの友人との間の友情にたいして、十分な配慮を払ってくれた。それまでも、ベロック氏はアデルに会ったことがあったのかも知れない。結婚して間もなく、氏はジャンヌにたいして、今まで通り、シャトーを訪問することを勧めている。事実、結婚後二ヶ月たった6月に、ジャンヌはふたたびアデルを訪問している(68)。
バルテレミ(ベロック氏)はトランケレオンを訪問しているジャンヌに手紙を送り、すべてのひとから愛され尊敬されているアデルとその家族の友情を十分に満喫するように、と述べている。また同じ手紙の中で、氏は、ジャンヌが素晴らしい友人に恵まれたことを嬉しく思うと述べ、この友情が末永く保たれるように祈るとも述べている(69)。また、バルテレミ自身、可能な限りジャンヌと行動をともにして(70)アデルにたいする尊敬の念を深めていった。
バルテレミは、自分の妻がアデルと起居をともにし、共通の興味を分かち合っていることに大きな喜びを見いだしていた。氏はジャンヌとの間に子どもができた後も、ジャンヌが以前と同じようにトランケレオンを訪問することができるように配慮し、子どもたちの世話を自分でみることもあった(71)。
当初アデルが抱いていた危惧はこのようにして急速にぬぐい去られ、むしろジャンヌとの友情を以前にもまして深めることができた。
しかし、ジャンヌの結婚は、アソシアシオンに一つの変化をもたらした。ベロック夫妻はディシェ家に起居していたが、当然のことながら、少しづつジャンヌは忙しくなってきたのだ。すでにそうなるであろうと予想していた妹のアガタは、ジャンヌに代わって、それまでアデルと交わしていた毎週の文通を受け持つようになった(72)。ジャンヌがアデルと交わす私信は今まで通り毎週続けられていたが、アガタがアデルと交わす毎週の文通は、アジャン地方に住むアソシアシオンの他のメンバーとの主なコミュニケーションの手段になっていたのである。
この二つの手紙は、毎週、同時に配達された(73)。疑いもなく、ジャンヌはアデルにとって最も親密かつ大切な友人であったのだ(74)。そして、それはだれの目にも明らかなことであり、アガタもそれをよく理解していた(75)。しかし、アガタも、アデルにとって、ジャンヌに次ぐ大切な友人であった。
アデルのアガタにたいする友情は時とともに強くなり、確かなものとなり、活発なものとなって行った。性格的に気が弱く、内気で、他人に頼りがちであったアガタは、アデルを頼り、アデルの助けと指導を仰ぐようになるのである(76)。
この二人の友情と文通は、二人が修道女になってからも続いた。現在、残存するものだけでも、アガタに宛てたアデルの手紙は384通におよび、他のだれにたいする手紙よりも多い(77)。これらの手紙の中で、89通は1805年2月から1807年7月までのものである。そして、この手紙は、この2年間のアガタとアデルを知るための、最も重要な資料になっている。
アデルの最初の手紙は2月2日付けのものである。この手紙で、アデルはアソシアシオンの他のメンバーに書く手紙のパターンを作り上げている。先ずその冒頭にJ.M.J.T.と記されている。それはイエス、マリア、ヨゼフの頭文字にテレジアの頭文字を付加したもので、アデルのカルメル会への召命の熱望を思い出させるものである(78)。
この頭文字の下に、普通、短い文章や祈りの文句がしるされていた。これは、その週のスローガンである。スローガンは、当時増加しつつあったアソシアシオンの他のメンバーから提案されるものもあったようだが(79)、実際には、そのほとんどがアデルの手によるものであった。新しいメンバーがひとを介してスローガンを伝えて来た場合には、それを優先して自作のものを後回しにすることがあった(80)。しかし、このスローガンがだれの手によるものであれ、アデルはそれを手紙に書き、また、その手紙を受けたひとが、同じように他のひとに書き送ることになっていた。
1809年頃には、だれでもが利用できる標準化された標語のリストが作られた。このリストには52のスローガンが掲げられており、典礼暦にあわせて、待降節から聖霊降臨後最後の主日まで、一年間を網羅するようになっていた(81)。
アガタに宛てたアデルの手紙は、二人の生活のなかで起こる数々のできごとを詳しく物語っている。しかし、これらの手紙ができごとの全貌を物語っているわけではなく、また、そのような叙述が手紙の主要部分をなしているわけでもない。
アデルは友人を大切にし、特にジャンヌとアガタを大切にした。その友情はますます発展し、それが親密なものとなるに従って、手紙の表現も豊かになって行った。アデルのアガタへの最初の手紙は、アガタから送られてきたものへの返事であったが、その中でアデルは、今までジャンヌと交わしてきたと同じような形式で文通を交わすことができるようになった幸せを表明している。それは、文通を通して良きインスピレーションを分かち合い、お互いの霊的進歩を助け合い、神の栄光を求めて記す手紙に神の祝福を祈り合うことができたからである(82)。
アデルは文体に凝るよりも受け取るひとの気持ちを汲んで手紙を書いた。それはアガタに送る手紙が、アガタを経て他のメンバーにも伝えられることになっていたからであり、また、その文通をとおして他のすべてのメンバーの心の内にますます強い神への愛が養なわれ、霊的進歩の憧れが養われることを念願していたからである。
アデルは、また、かの女自身、文通を通してアガタの良き模範と忠告を学びとることを望んでおり、従って、おたがいに忠告し、矯正し合うことを躊躇すべきでないと記している(83)。また、アガタと文通することが大きな喜びであるのは、アガタが自分の最も愛する友人の妹であり、かつ、アソシアシオンのメンバーであるからだ、とも述べている。アデルは、また、いずれ近いうちにアガタに会う機会があるだろうと述べ、この最初の手紙がそちらに着く日は、二人にとって、聖霊を受けた日の記念日に当たることを思い起こさせている。そして、もし会員の中で、幸いにもこの日に聖体を拝領をする恵みに浴するひとがいたならば、ぜひ、祈の中に二人を思い起こしてくれるようにと依頼している(84)。
またアデルは、今後アガタに手紙を書くときは「お嬢さまへ(MADEMOISELLE)」と呼びかける代わりに「親愛なる友へ(DEAR FRIEND)」と呼びかけるようにしたいと述べているが、これこそアデルがアガタにたいして手紙を書くときの気持ちを雄弁に物語っているかに思われる。事実、アガタにたいして「お嬢さまへ」と呼びかけた手紙は、この手紙が最初であり、かつ、最後であった。
これ以降、アデルはアガタを「親愛なる友」と呼んでおり、数カ月後の手紙では「親愛なるアガタへ」と呼びかけている(85)。
友人関係というものは必ずしも順調な時ばかりではない。このことを十分に認識していたアデルは、もし自分たちの友情がその基礎を神に置いているならば、たとえどのようなことが起ろうと一生涯続けることができるだろう、と記している。
当時、アデルは16才であった(86)。かの女は友情につて語り(87)、死全般について語り(88)、とりわけ(89)、祝日と年間の典礼暦を守ることによって得られる数々の救霊の秘義(90)、聖体におけるキリストを拝領する喜び(91)について語っている。また、祝日や記念日におこなう特別な行事(これはジャンヌとも分かち合っていた)(92)や、聖母マリアの諸徳の模範(93)、慎み(94)、生活の種々のできごとの中で示される神の聖旨(95)、自己統御(96)、などについても語っている。
明らかに、その多くはかの女が黙想を通して得た成果であり、読書や説教から得たものであった(97)。アデルが好んで用いた源泉としては、聖書のほかに、「キリストの模倣」、聖スランシスコ・ド・サール、アビラの聖女テレジア、シャンタルの聖ヨハネなどがあげられる。
ジャンヌが結婚すると、アソシアシオンにおけるアデルの位置はますます重要度を増してきた。規則書はアソシアシオンの組織や構造について一切触れていなかったが、当時、会員の中で一番歳下であったにもかかわらず(99)、明らかにその指導者としての重責をアデルは背負い込んでいたのである(98)。
ますます増加する会員にたいして、アデルは毎週手紙を書いた。最初は3人であった会員が、いまでは8人に増えていた。1807年の1月には、24人になり(100)、1808年の年末には60人に増加した(101)。
会員の分布はトランケレオンとアジャンを中心に、フランス西南部のいくつかの県(DEPARTMENT)に波及して行った。田舎に出される手紙は個人宛のものだが、町に送るばあいは、グループ宛てに書かれたものが多かった。
毎年コンドムの叔母を訪問していたアデルであるが、今年の夏は、ジャンヌが来るまえに叔母を訪問した(102)。そして、そこでもアデルは新しい会員を募集した(103)。アジャンではジャンヌとアガタが、ビルヌーブ・ド・マルサンではロザリとアデル・ド・ポミエが新しい会員を募った。そして、その新しい会員が、また新しい会員を増やして行った(104)。
アデルは、これらの会員各人と連絡を保つようにした。ある人とは手紙を通じて直接に連絡を保ち、ある人とは他の会員への手紙を通じて間接的に連絡を保った。またその他にも、一人の会員に手紙を送り、その手紙をまわし読みしてもらうことによって、間接的に接触を保ち続けた会員もいる。アデル自身も、他の会員から送られて来る手紙を他の会員に回送した。とりわけ司祭から送られて来る手紙は回送した。この司祭たちも、やがては、アソシアシオンの会員になる人たちであった(105)。
ジャンヌの結婚の喜びから一週間。いま一つの死がトランケレオンに近づいていた。普通アデルは、自分の書いた手紙が土曜日にアガタの手元に届くように、水曜日に手紙を書くことにしていた。それにたいして、アガタは返事を日曜日に書いていた(106)。しかし病状が悪化したため、アデルはスケジュールを変更して4月30日の火曜日に手紙を書いている。
男爵夫人は、すでにディシェレットから依頼されていたノベナを、木曜日から、もう一度始めてくれるように依頼した。このノベナは男爵夫人の姉妹、ジャンヌ・ギャブリエル(JEANNE-GABRIELLE)のためのものだった。
重い病気にかかっていたジャンヌ・ギャブリエルには、三人の子どもがいた。アデルは、アソシアシオンのメンバー全員に、このノベナへの参加を呼びかけている(107)。
ムレード(MOUREDE)の近郊ベトリコ(BETRICOT)のシャトーに住んでいたジャンヌ・ギャブリエルは、その夏小康状態を保っていた。
ところでそれより少し前の6月の初旬、16才になるアデルは、ジャンヌの訪問を待ちながら自分の召命について考えていた。聖霊降臨の祝日から数日後に記したアガタへの手紙(108)の中で聖霊について言及し、聖霊がわたしたちのこころを照らす霊であることを思い起こさせてから、次のように述べている。
「わたしたちの道、わたしたちの仕事、わたしたちの行動を照らして下さいますように」聖霊に祈りましょう。「まだ若いわたしたちは、いやが上にも聖霊の光を必要としています。聖霊がわたしたちに望んでおられる人生を示して下さいますように。そして、そのために必要な聖寵を下さいますように」。
また、その同じ手紙の中で、忍耐をもち、心を開き、自然的な動機と意向を捨てるようにとも述べ、次のように記している。
「わたしたちが歳をとったとき、なぜこのような人生を歩むようになったのか、このわたしにその道を選ばせたわたしの趣向や傾向、動機などについて考えさせられる時がくるでしょう。ですから、わたしたちは常に聖霊の勧めに耳を傾け、神がその聖旨を示すために用いられる霊的指導に耳を傾けなければなりません」。神の聖意に召されて身を固める日がくるまでは、毎日「聖霊よ、来て下さい。あなたの光でわたしたちを照らして下さい。あなたの聖なる愛の火でわたしたちのこころを焼き尽くして下さい」と祈るように勧めている。
アデルは、自分たちがこのような祈りを、あと数年ものあいだ続けなければならないだろうと感じていた。しかし、もし熱意をもって祈り、忠実に生きるならば、たとえどのくらい長いあいだ祈らなければならないとしても、問題ではないと考えていた(109)。アデルは、ジャンヌを除くすべての会員に、同じ気持ちで祈りを続けるように勧めている。この祈りからジャンヌが除かれたのは、すでにかの女は結婚し、神がかの女とその夫の救霊のために召し給うた道を歩んでいたからである。
この手紙はデュクルノ氏とシャルルによってアガタの手に届けられた。かれらはアジャンへ行き、ディシェ家を訪問した(110)。晩餐の際、デュクルノ氏はアガタの隣に座った。アデルはその手紙の中で、デュクルノ氏のこの好運を羨ましく思うと書いている。デュクルノ氏とシャルルは、共に、この訪問の喜びを胸一杯に満喫していた。とりわけ、アガタの妹で12才になる幼いアデルの魅力にこころを引かれた。シャルルはこの時13才であった。
ちょうどその頃、アガタは告白と聴罪司祭についてこころを悩ましていた。アデルはかの女に支援と勇気付けの言葉を送っている。当時アガタは、定期的にムネ神父(MENET)に告白していたようである。しかし、細かいことは定かではないが、事情を難しくさせるなにごとかが起こったようである。それが、アガタのこころを乱していた(111)。アデルは、苦しむかの女に罪はなく、み主が約束されたように、いつかその悩みが喜びに代わる日が来るであろうと述べている。そして、その日が来るまでは、マリアとイエスにならって、苦しみと屈辱を、信仰と望みの内に分かち合って行きましょうと述べている。
この問題は、次に来るジャンヌの手紙で、さらにアデルのこころを悩ますことになった(112)。それは、この同じ問題によって、アガタだけでなく、その妹テレーズまで悩み始め、ついに新しい聴罪師を探さねばならなくなってしまったからである。アデルは二人に忍耐をもってこの状況を堪え忍ぶようにと伝えている。
この問題は、アガタが勇気をだしてセレス(SERRES)神父を聴罪師として選ぶことによって解決した。アデルはかの女の勇気を讃え、聴罪師をかえることがどれほど難しくても、聴罪師なしで聖体拝領を延ばすよりは遥かに好ましいことであると述べている(113N25)。
この間、嬉しいことがまたくなかったわけではない。7月、アデルは教皇ピオ7世に祝福されたロザリオを手に入れ、友人たちにも分け与えた(114)。8月26日には、伯父フランソワが属するラバルダック(LAVARDAC)の教会で、アデルの従兄弟シャルル・アンリ・マリ・ポリカルプ・ギャブリエル・ド・バッツ・ド・トランケレオン(CHARLES-HENRI-MARIE-POLYCARPE-GABRIEL DE BATZ DE TRENQUELLEON)が洗礼を受けた。このときアデルは洗礼の代母をつとめる栄誉をえた。伯父フランソワには7人の子どもがあり、このとき洗礼を受けたのは、その第5子であった(115)。
それから一ヶ月経った9月28日(116)。14才になろうとする(117)アデルの弟シャルルと、19才になるフランソワの息子が、フガロールにおいてジャコピ司教から堅信の秘跡を受けた。この二人が告白と堅信の秘跡を受ける準備をしているとき、アデルはアソシアシオンの会員に祈りを依頼している。司教がフガロールの教会を訪問したのはこれが初めてであった。司教はトランケレオンにしばらく滞在した。
このときジャンヌもトランケレオンを訪れており、2年前にアデルとともに堅信の秘跡を授けてもらったこの司教と親しく交わる機会をえた。二人はデュクルノ氏を交えて、自分たちの間でつくったアソシアシオンについて説明した。この話を聴いた司教は大変喜び、祝福を与えるとともに、自分自身もこの小さな会の準会員となり、その擁護者になることを検討すると約束した(118)。ジャンヌはトランケレオンから夫に手紙を出し、司教に会ったこと、そして、司教の訪問がかの女とアデルにとって大きな喜びであったことについて語っている(119)。
その年の10月、医師ベロックとディシェ氏がトランケレオンを訪れた(120)。そして、司教がまだトランケレオンに滞在しているあいだに、もう一つの悲劇がやってきた。ジャンヌ・ギャブリエルが危篤におちいったのである。男爵夫人は司教の世話をアデルにまかせ、急いで見舞いに出かけた。
アデルは叔母サン・ジュリアンとともにアジャンを訪れ、アガタに会う計画をしていたが、この突発的なできごとで、アデルは計画を延期しなければならなくなった(121)。ジャンヌもまた、出発の延期を余儀なくされ、この危機のあいだ、アデルとともにトランケレオンに留まることになった(122)。
10月5日、36才のジャンヌ・ギャブリエルは、夫と幼い子どもをあとに遺して、この世を去った。かの女は4人の子どもに恵まれたが、そのうちの一人はすでにこの世を去っており、三人の幼い女の子があとに残されていた(123N43)。妻を喪ったマルキ・ド・カステラス(MARQUIS DE CASTERAS)は(124)、経済的な問題を抱え込んでおり、家庭を留守にしがちであった。そのため子どもたちの世話をすることができず、さりとて家政婦を雇う資力もなかった。そのようなわけで、三人の子どもたちは、ジャンヌ・ギャブリエルの二人の姉妹に養女として預けられることになった。
マリ・ポール(MARIE-PAULE) (マダム・ド・テルム MADAME DE TERMES )は一番年上のマチルダ(MATHILDE)を養女としてパリに連れ帰った(125)。かの女の夫は以前亡命者(エミグレ)であったが、いまでは立派に社会復帰し、ナポレオンの統治下で重要な地位についていた(126)。残された二人の女の子、エリザ(ELISA)とクララ(CLARA)は、男爵夫人が連れて帰った(127)。この二人は、当然のことながら、アデルのいとこである。
エリザ(FRANCOISE-ELISABETH) は7才。男爵夫人は、エリザを男爵の姉妹が経営するコンドムの寄宿学校に送った(128)。学校が休みのときはトランケレオンへ帰るようにしていたが、最終的にはトランケレオンに住み着き、ゆくゆくアデルとともにアソシアシオンの仕事に従事することになる(129N44)。クララは当時わずか3才にすぎず、男爵夫人は自分の手元に置くことにした(130)。こうしてこの二人の孤児は家族の一員となり、アデルのいとこというよりは、妹のような存在になった(131)。
その年の12月になると、またもや告白の問題がもちあがった。それまで2・3ケ月留守にしていたセレス神父が帰るまで、告白と聖体拝領を差し控えていたアガタにたいして、アデルは厳しい言葉でアガタを戒めている。聴罪師以外の神父に告白をするときに抱くある種のいとわしい気持を経験したことのあるアデルは、アガタの気持ちをよく理解することができた。しかし、このいとわしい気持ちは、秘跡から遠ざかるいささかの理由にもならず、そのような気持ちに左右されてはならない、と述べている。しかし、このように述べたのち、アデルは、この問題は本来は聴罪師の領域に属する事柄であり、そのような問題にかんして私見をさしはさんだことにたいして詫びの言葉を入れている(132)。
1805年が終わりに近づくと、アデルは会員にたいして、この一年を省みるようにうながしている。自分たちにとって、この過ぎにし年が人生の最後の年になることも可能であった。だから、これからは、いままで以上に大きな愛をもって神に仕えよう、とすすめている(133)。
過去一年間、アデルとアガタとジャンヌは互いに友情を深め合い、喜びと悲しみをともにした。16才の少女としては驚くべき成長を遂げていたアデルは、明らかにアソシアシオンの霊的指導者であり、オーガナイザーであり
、そして、士気を鼓舞するリーダーとしての地位を固めつつあった。
アデルはディシェ家と連絡をとり、ビルヌボー・ド・マルサンのド・ポミエ家とも連絡をとっていた(134)。そのほか、アジャンのセレーヌ・ド・サンタマンス(SERENE DE SAINT-AMANS)やコンドムに住む友人たちとも連絡をとりあっていた。
私的なものではあったとはいえ、すでに司教の祝福を得ていたこのアソシアシオンは、若い娘たちの輪を超えて、やがては聖職者をも含む組織にまで発展することになる(136)。