結びの言葉 

アデルは、生前、数多くの人に出会い、感動し、また、感動させられた。そのような人びとの中の大半は、今は歴史として残されていない。アソシエイツの何人かは、アデルに先立っている。10人の姉妹たちもアデルに先立った。しかしながら、かの女と同世代の数多くの人びと、そして、かの女よりも年上の人たちでさえも、アデルの短い生涯よりは長生きしている。アデルの直接の親族を除くこのようなアデルより古い世代の人たちの中で、アデルの生涯に大きな影響をもち、また、アデルから影響を受けた人といえば、デュクルノ神父、ラリボー神父、そして、シャミナード神父であった。

デュクルノ神父は、アジャン市にあるノートルダム・デ・ジャコバン教会の主任司祭を23年間勤めた後、1843年に引退し、1845年2月27日に逝去した(1)。ラリボー神父は1833年にトナンの主任司祭に任命され、1836年、その地で生涯を終えている(2)。アデルが帰天したとき、ほとんど67才に成ろうとしていたシャミナード神父は、1845年、激しい論争のなかでカイエ神父にその地位を譲るまでは(3)、二つの修道会の長上として、また、数多くのソダリティの指導者として、精力的に活動を続けた。その晩年を孤独と拒絶のなかで送ったシャミナード神父は(4)、89才ま近かで病に倒れ、1850年1月22日、アデルの死後22年と12日の後、その魂を天に返した。

男爵夫人は娘よりも18年間長生きした。かの女は未亡人と成った後も、シャトーの家長として、また、フガロール小教区の一信者として、キリスト信者の良き生活、愛徳の生活の手本を与え続けたのであった(5)。かの女はアデルを「聖なる娘」と呼び、「かの女が天国にいるのは確実なのだから」(6)かの女に祈りなさい、とシャルルに云うのであった。

男爵夫人は、母親にたいするアデルの最期の手紙を、孫娘に遺した。また、もう一人の孫娘には、アデルの遺髪、爪、ベールの端切れを遺し、「わたしはこれを(聖)遺物と見なしています」(7)と述べている。フガロールの教会に(新しい)聖なる主任司祭が配属された。男爵夫人は、これをアデルの取り次ぎのたまものと見なしている。また、かの女はシャルルと修道会が和解できるように、アデルの取りなしを願っている(8)。

アデルが母親よりも先に死んだため、法律によれば、アデルが相続した遺産の四分の一を男爵夫人が相続することになった。しかしながら、男爵夫人は、その言葉をそのまま引用するならば、「法律が許す遺産の四分の一を自分の利益にすることは、ある種の冒涜と考えられる」としている。そして、1831年の遺言書の中で(10)、「わたしと、わたしの家族の上に神の祝福をあおぐには、善徳の実践と、霊的・物質的な慈善事業の実践をもって神に栄光を帰している修道会を創立した娘の、その善業に協力する以外には、より良い方法はないと思います」(11)と付け加えたのであった。

そのようなわけで男爵夫人は、アデルがその遺言書によって規定した四人の「共同相続人」に、この四分の一の遺産を渡すことにした。こうして男爵夫人は、アデルが親から受けたすべての遺産を修道会に遺すように取り計らったのである。男爵夫人は、これと同じことを1941年に書き換えられた遺言書の中にも記しており、また、自分が死ぬ数カ月前の1846年には、サンバンサンに、その箇所を引用して送っている(12)。

1841年、修道会がアデルの遺産の総額を相続する権利があると主張するサンバンサンとシャルルの間にいさかいが起こったとき、男爵夫人は、手紙と意思の供述書をもって修道女たちをサポートしている(13)。

1846年、男爵夫人は死んだ。それは11月11日、83才の誕生日を前にしてのことであった。かの女は、その実践した慈善事業のゆえに、その最期の日まで人びとから忘れ去られることはなかった。地方新聞「ラ・メモリアル・アジュネ(LA MEMORIAL AGENAIS)」は次のように伝えている。

「マダム・ド・トランケレオンがおこなった慈善事業は大きく、広く行き渡り、数えきれないほどの貧しい人たちに広がった。かの女の施しの広がりを知るものは、その名のために冷や水一杯でさえも施す人は亡びることがないと約束されたお方以外には居ないだろう。ただ、数多くの人が確かに知っていたことは、かの女の施しは休む暇がなかったということであり、かの女はつねに喜びをもって与え、身体を生かすパンを与えながら魂を生かす食べ物をも与えようとしていたことである。すべてのひとに知れ渡っていることで、また、大きな声で宣言することのできることは、マダム・ド・トランケレオンは善行をおこないながらこの世を通り過ぎて行ったということである」(14)。

アデルの弟シャルルは、母親が期待したほどの宗教心を持っていなかった。男爵夫人はこの息子のために祈り、また、息子には、アデルに祈るようにと勧めた。アデルはシャルルを大変愛していたのだから、祈ればかならず神に取りなしてくれるだろうと教えた(15)。

シャルルが病の床に臥しているとき、自分から望んで母親に頼んだアデルのロザリオを手渡しながら、母はこれがシャルルの回心の機会になればよいがと願った(16)。男爵夫人は、その遺書の中で、「修道女であるお姉さんの肖像画」を息子に遺し、アデルの髪の毛で作ったアデルの墓石と墓地の風景画(17)(訳者注:当時のフランスでは、人が死ぬと、遺髪を蝋で固めて墓石と墓地の風景を絵のように作り額に収める風習があった)を遺した。これは、後世までシャトーに保存されることになった(18)。

1861年、シャルルはシャトーで死んだ。享年69才。かれの死後に四人の子供が残された(19)。

デジレは、アデルがその最期の病床で熱っぽく接吻した、あの木のロザリオと十字架を母から受け継いだ。「わたしはこれを聖遺物とみなしています」と母親は1831年の遺言書の中に記している(20)。シャルルが病気のときに母から手渡してもらった、あのロザリオである。

デジレ夫婦は11人の子供をもった。その一人はイエズス会の宣教師となり、一人の娘は1855年に女子マリア会に入っている(21)。スール・マリ・ド・リンマキュレ・コンセプシオン(SOEUR MARIE DE L’IMMACULEE CONCEPTION)のように、この娘は長年修練長を勤め、コンドムの院長をも勤めた。かの女は1891年、アジャンで死んだ(22)。

デジレの孫息子の一人、ド・ミルポア男爵(BARON DE MIREPOIX)は、1919年に死ぬまで、アデルの伝記を書こうとしていたマリア会修道士ルソーに膨大な資料源を提供した(23)。

アデルの父方の三人の伯母は、アデルより長生きした。マリ・フランソアーズ・エリザベト(MARIE-FRANCOISE-ELISABETH)(マダム・ド・サンージュリアンMADAME DE SANT-JULIEN)は、1834年に死亡し、アンヌ・アンジェリック(ANNE ANGELIQUE)は1844年に、そしてアンヌ・シャルロット(ANNE-CHARLOTTE)(マダム・ド・ロルムMADAME DE LORME)は1855年に死んだ(24)。この三人の伯母は、ドミニコ会の修道服を着て埋葬された(25)。

父方の伯父フランソアは1843年に死亡。5人の子供を残した(26)。孫娘の一人、マリ・シャルロット・エミリ(MARIE-CHARLOTTE-EMILIE)は、1866年に女子マリア会に入会した。スール・マリ・デザンジュ(SOEUR MARIE DES ANGES)と名乗ったかの女は、三つの修道院で院長を勤め、サルディニアに修道院を開設し、同地で1908年に帰天した(27)。

アデルの信徒アソシエイツの第一人者であったディシェレットは、アデルの死後もソダリティのために活発に働き続けた。かの女は非常に質素で、いつも黒い服を身にまとい、信徒であるというよりは、まるで修道女であるかのような生き方をした。かの女の息子ポールが、カバルソ(CABALSAUT)の主任司祭になると、かの女もその教会で余生を送った。1865年1月にかの女は死ぬが、その時は、当時の伝統に基づいて女子マリア会の修道服を着せて葬られた(28)。

アメリ・ド・リサンも修道会と密接な関係を取り続けた。アデルが死ぬと、司教(または、司教代理)は、かの女に修道院へ自由に出入りすることを許さなくなった。しかし、修道院の中に自分の部屋をもち、共同体の祈りに参加し、時々は共同体と食事をともにしたり、休息時間を過ごすことがあった(29)。いつ頃かの女が死亡したか、記録は残されていない(かの女が生まれたのは、アデルの一年前であった)。

メラニ・フィガロールは女子マリア会に入ろうとしたが、両親、とりわけ父親から、幾度にもわたって、強力に反対されたのであったが、その反対の力もやがて弱まり、1830年に、聖心修道女会(MADAMES OF THE SACRED HEART)に入ることを条件として許可を下した。しかしながら、この修道会では、かの女自身も、また、修道会の側でも、満足な結果をみることなく、1834年、38才にして、ついに女子マリア会に入ることができた。

スール・クサビエ(SOEUR XAVIER)としてのメラニは、コルシカ島に派遣され、そこで三つの修道院を設立した。1870年11月11日、アジャンで生涯の幕を降ろした。時に74才であった(30)。

アソシアシオン設立当初のもう一人のアソシエイツ、フロランティン・アベイエ(FLORENTINE ABEILHE)は、父親の病気が原因して、修道会の創立に参加することができなかった。1823年、その父親が亡くなると、かの女は修練院に入り、スール・テレーズ・ド・サントギュスタン(SOEUR THERESE DE SANT-AUGUSTIN)と名乗った(31)。かの女はゴンザグを継いで修練長を勤め(32)、1840年、55才でその生涯の幕を閉じるまで、その地位に留まった。「かの女は真に聖なる生活を送り、死後長くかの女の思い出は修道会で尊ばれた」(33)。

アデルの死後司教によって総長の職に任命されたサンバンサンは、1830年に総長として選任された。かの女は総長としての第三期の半ばに魂を天に返した。総じて、28年間総長の職を勤めた。時に1856年9月5日、享年65才であった(34)。

サンバンサンの死後、総長の座を継いだのは、総長補佐を勤めていたマリ・ジョゼフであった。女子マリア会が教皇の認可を得たのは、マリ・ジョゼフが総長の職にあったときのことであった。こうして女子マリア会は、教会法上、男子マリア会の総長から独立した。また、プラディエ(PRADIE)がアデルの伝記を著したのは、マリ・ジョセフが総長の職にあるときのことであった。

マリ・ジョセフが死んだのは1874年6月17日のことで、享年76才、まだ、元気に総長職を勤めている間であった(35)。

アデルより一才年上であったドシテ(DOSITHEE)は、1871年、アジャンで死んだ(36)。かの女は54年間修道生活を送った。

他の修道会におけるアデルの親しい仲間たちは、もっと年若くしてこの世を去っている。コンドムに留まったエンマヌエルは、1837年10月18日に48才で死亡した。

アデルの死後2年、1830年の革命が勃発すると、シャミナード神父はボルドーの修練院を閉鎖するにこしたことはないと判断し、ゴンザグはアジャンに帰った。テレーズ・ド・サントギュスタン・アベイエが修練長の職を継ぐと、ゴンザグはコンドムの院長として赴任(1833年)した。コンドムに着くや、かの女は修道女たちの年次の黙想の説教をしている(37)。三年間の院長の任期を勤め上げたかの女は、ふたたびアジャンに帰った。1839年、健康状態を憂慮されながらも、新しく修練院を開設する計画がなされていたアルボアの近隣、エイシ(ACEY)、に派遣され、その数カ月後、1839年9月25日、その地で死亡した。享年44才であった(38)。それから僅か二日して、アンカルナシオンがコンドムで息を引き取った。1839年9月27日、51歳の誕生日から僅か数日後のことでった。

「親愛なるアガタ」の書き出しでアデルがそれほど沢山の手紙を書いたサクレ・ケールは、1848年8月5日、コンドムで生涯の幕を閉じた。時に、59才を少し下回っていた。