アデルの遺言書/アデル最後の病気 / アデルの死
シャミナード神父に宛てた男爵夫人の手紙
教会・国家による公式の承認
アデルは迫り来る死を、平素にかわらぬ決意と素直さと信仰をもって、受け止めていた。
1827年10月下旬、財務を整理し、遺言書を作成した(1)。この遺言書は一枚の法定用紙の表裏二ページにわたって自筆で記入されており、各ページの下には「アドレド・マリ・ド・バッツ・ド・トランケレオン(ADELAIDE-MARIE DE BATZ DE TRENQUELLEON)の署名と、1827年10月27日の日付が記入されていた(2)。
先ず、神へわが身をゆだね、マリアの取り次ぎの祈りを記した後、アデルは四人の修道女を共同相続人として立て、動産と不動産をふくむすべての持ち物を相続した。その四人は「マリ・ロサリ・ルイエ(エンマヌエル)、マリ・フォンボンヌ・ラ・バスチッド(サンバンサン)、マドレーヌ・ビルジニ・マレシャル(セント・フォア)、そして、カタリン・イザベル・モンセ(アンヌ)(MARIE ROSALIE LHUILLIER/EMMANUEL, MARIE FONBONNE LA BSTIDE/SAINT-VINCENT, MADELEINE VIRGINIE MARECHAL/SAINTE-FOY, CATHERINE-ISABELLE MONCET/ANNE)であった。
アデルは、シャルルに預けてある男爵の所有地のうち、自分の持ち分から4、000フランを従姉妹にあたるガジャン(GAJEAN)の四人の女性(伯父フランソアの子供であるカロリン、セリン、アナイス、ユージェニのこと(CAROLINE, CELINE,ANAIS,EUGENIE))に支払うように要求している。この支払は、四人の共同相続人とシャルルのあいだで合意した方法でおこなうこと。もし、合意がおこなわれない場合は、アデルの死後、現在アデルに支払われているのと同じように四半期毎の利息を付けて、半分を一年以内に、他の半分を二年以内に支払うこと、と規定している。
また、もし、母親が自分よりも先に死ぬことがあれば、上記の四人の共同相続人は、その遺産相続から除外される。アデルが受けることになる母親の遺産の額にもよるが、その遺産から、母方の二人の従姉妹すなわちクララ(いまではマダム・ド・ラリ・ラ・ツールとなっているMADAME DE LARRY LA TOUR))とエリザ(マリ・ジョゼフ)に、おのおの5、000フランづつ支払う。残りは、最大限20、000フランまでを自分の妹デジレに与える(このことは、すでに1817年、デジレが結婚するときに、私的な文書で母親と合意を交わしていた)(3)。その他のすべての動産・不動産ならびに母親の死によってアデルにもたらせるであろう権利にかんしては、クララとエリザを共同相続人に指定した。
さらにこの遺言書によると、アデルの死によってシャルルが支払わなければならなくなる金額を除いて、アデルがシャルルと取り交わしていたすべての合意事項と取り決めは、そのまま効力を保持することも定められていた。そして、この遺言書が自分の最も新しい最後の遺言書であるので、それ以前に記されたあらゆる遺言書や誓約書などの類はすべて無効となる、とも明記されていた。
この文書の他に、アデルはフガロールの貧しい人たちにあたえるお金について、シャルルと母親とのあいだで口約束をしていた。この合意にもとづいて、シャルルはアデルから受けた3、400フランにたいして、年間利子170フランを支払うことになっていた。母親は自分が生きている間は、その(母親の)死後の管理に必要な経費を除いて、このお金がフガロールのサン・セシル小教区に所属する貧しい人たちに配られるのを見届けることになっていた(4)。生においても死においても、アデルと母親は貧しい人たちを助けることにかんしては意見を異にすることはなかったのだ。
遺言書の他にも整理して置かなければならない財務の仕事があった。
1825年2月、革命政府によって差し押さえられていた亡命者(エミグレ)の財産を補償する法案が通過した(5)。二年以上にわたる交渉と書類提出ののち、トランケレオンの家族の権利、もっと正確に云うならば、さきに死んだ男爵の諸権利が認められたのである。
男爵の財産のうち、差し押さえられ、売られたもの(什器や12、000の信用状をのぞく)は(6)、約70、000フランと換算された(7)。この内、17、000フランの資本は、男爵の三人の子供のひとりとしてアデルの持ち分となるべきものであった(8)。当然のことながら、政府は補償される市民にたいして、その資本を全額返還することはなかった。国家はそのような資本の流出を許容することができなかったからである。しかし、そのかわりとして、償還さるべき資本にたいして、年間3パーセントの利息を払うことになった。
トナンの財政状態は引続き困窮を極めた。そこでシャミナード神父は、このような利子が国家から支払われるならば、それをトナンの修道院に与えてはどうかとアデルに提案した(9)。同じように、エグイヨンにあるクレアフォンテンの地所から入る収入も、トナンに与えるように提案した。このような収入の中には、鶏とか卵による支払も含まれていた。修道女たちの所持品を監督していたド・ラクサードにたいして、アデルは、もし氏が望むならばこの土地をタバコの栽培に転用してもよいだろうと述べている。そうすることによって収入の増加を計り、共同体の必要性を満たそうとしたのである(10)。
個人の財務を整理するのも大切な仕事であったが、その他に、アデルには修道会の承認を政府に求める仕事も残されていた。
7月、アジャンを訪問してボルドーに帰ったシャミナード神父は、国家の承認を申請しようとしている女子修道会のために、政府は修道会の定款記入用紙を標準化したことを知った。
8月、シャミナード神父は必要な書類を手にいれるため、教務省(MINISTRY OF ECCLESIASTICAL AFFAIRS)に手紙を書いた(11)。フランスの北東部に旅していたシャミナード神父は、帰り道にパリに立ち寄り、教務大臣フレッシヌ司教(BISHOP FRAYSSINOUS)に面会し、長官ド・ラシャペルとも面談した(12)。
11月、シャミナード神父は、女子マリア会が7月に開催した評議会を期して、それまでに着手していた国家承認申請手続きを継続することができるように、アデルに宛てて定款のコピー(13)を送った。また、政府が規定している文書については、その第11条に注意をうながし、この箇条に書かれた清貧の誓願は、一見したところ、誓願(伝統的な荘厳誓願のこと)の本質に相反しているかのように見受けられる、と述べている。つまり、この箇条によれば、それぞれの修道女は現在所持しあるいは将来所持するであろう自分の所持品にたいして所有権を保持し、法律とりわけ1825年5月の法律(女子普通誓願修道会の認可に関する法令)に準拠して行使する譲渡権を保有する。しかし、このような所有物からの収益または収入は、その修道女が住んでいる修道院に入れ、共用の目的に供することを要請する、と云うものであった(15N204)。
この文書が何を意味しているか、また、受諾可能なものであるかについてアデルや司教が当惑を感じるかもしれないと考えたシャミナード神父は、定款を送ったあとに、直ちに二人を安心させるための手紙を送った。それによれば、すでにシャミナード神父はこの法令に関する自分の見解について数名の知識人と相談し、かれらの考え方を聞きただしていた。師が相談した人の中には、パリ駐在の教皇使節(ヌンチオ)ランブルッシーニ(LAMBRUSCHINI)も含まれていた。かれらはいずれも同じ意見をもっており、シャミナード神父は、こうして、自分の見解が良心の自由に反するものでないことを確かめたのであった(16)。
いずれにせよ、政府の要請は絶対的なものであり、この箇条を削除すれば承認を得ることはできない(17)とシャミナード神父は伝え、また、このこととは別に、シャミナード神父のソダリティと新しく設立された二つの修道会にたいして、教皇使節が全面的な承認を与えてくれたことをも併せてアデルに伝えている。教皇使節ランブルッシーニにたいしては、この二つの修道会が政府からの承認を得ることができれば、ただちに聖省の承認をも申請する、と約束している(18)。
アデルと修道女たちは、ただちに必要な準備に取り掛かった。先ず第一に、政府発行の書式をモデルにして作成した修道会の定款を評議員会議事録に転写し、全員がこれに署名した。シャミナード神父が送ってくれた定款のオリジナルにはアデルが総長としてこれに署名し、ルイズ・マリが書記として署名した。アデルは司教に連絡して政府の承認を得る手続きをおこなっていることを報告し、司教の承認を得るためにその定款の写しを送った。11月22日、司教は喜んでこれに承認を与えている。この時の司教にたいするアデルの言葉によれば、この政府の承認は修道会全体のためであると同時にアジャンの修道院のためのものでもあった。アデルはまた、役所の仕事がスムーズに進むようにすでにすべての必要なものごとを取り揃えて政府に送付してある旨シャミナード神父から伝え聞いている、とも述べている。教務大臣も長官も、シャミナード神父をよく知っていたために、かれらはこのケースを非常に親切に取り扱ってくれた(19)。
さて、その間、アデルは、ムーランに宛てて、市長ルガット(LUGAT)を訪問して女子マリア会が国王の承認を得べく手続きを進めていることを報告し、1825年5月24日の法令に基づく必要な書類を取り揃えてもらうように申請してほしいと伝えた。アデル自身も、11月15日付で同様のことを市長に宛てて書面で依頼している(20)。この時に必要としていた書類の中には、この修道院が市内に存在することによって市が得る利点と欠点を明確にした報告書と、承認申請に対する市議会の意見書が含まれていた(21)。
アデルの手紙が市長の事務所に届いたのは11月20日であった。アデルの生命があまり長くはもたないと考えたサンバンサンは、できるだけ速やかにことを運んでくれるように、との嘆願書を記し、アデルの依頼書に添えて送付したのだった(22)。しかし、すでに11月16日、市長ルガットは臨時の市議会を招集する許可を県知事に要請してくれていた。
12月5日、知事からの許可が下り(23)、12月12日には市議会開催の招集が掛けられた。しかしながら市会議員たちは、この修道会が国家政府の承認を得るために必要な書類を要請していたにもかかわらず、それを市議会が与える市の承認を申請しているのだと勘違いしてしまった。その結果、議会は女子マリア会がパリからの承認を得るまではこの問題の審議を棚上げにすることに決定したのであった!(24)。
一方、シスターたちは教務省に提出する正式の依頼書を準備していた。書類にはアデルが署名し、評議員全員が署名した。また、シャミナード神父が述べているように、自分で名前を正確に書くことができる修道女は、全員これに署名した。署名した人はアデルの他に12人いた。アデルは「マリアの娘の会の総長であり創立者」と署名している(25)。
シャミナード神父はアデルにたして、申請書は法定の用紙を用い、誤字がないように注意して書くように警告した。もし、この書類を作成する自信のあるひとがシスターたちの間に居ないのならば、メメン修道士(BROTHER MEMAIN)に依頼するようにと提案した(26)。
市議会の書類を除き、大臣宛ての手紙、ならびに、アデルと司教が署名した修道会の定款が用意され(27N205)、シャミナード神父に送付された。これを受けてシャミナード神父は、12月25日、クリスマスの祝日に、女子マリア会のための国家承認申請書類一式をパリに送付することが出来た(28)。
承認申請の手続きで多忙をきわめている時、もう一つアデルを悩ましていたものがあった。スール・マルタのケースである。スール・マルタはその性格と生活態度から本部の若い修道女たちに悪い影響を与えるのではないかと心配され、一年ほど前、アジャンを出てトナンへ移動させられていた(29)。
しばらくの間はうまく行っているかのように思われた(30)。しかし、この状態は長続きしなかった(31)。創立者の一人であるスール・マルタを、アデルは気の毒に思った(32)。
マルアタは徳行において、誰よりも秀でていなければならないはずなのに、どうしてこのようになってしまったのだろうか。ひょっとして、自分には才能がないということを過失の言い訳にし、無責任な態度をとるようになってしまったのかも知れない(33)、とアデルはサクレ・ケールに述べている。
アデルはこの問題についてどのように対処すべきかをシャミナード神父に相談した(34)。アデルがサクレ・ケールに宛てて書いたおそらく最後の手紙と思われる。この中で(35)アデルは、マルタは修道会を去ろうとしている、と記している(36N77)。
この間、アデルの不安定な健康状態は修道女全員のこころに重くのしかかっていった。アデル自身の幸福にたいする懸念もさることながら、政府の承認が得られる前にアデルが死ぬのではなかろうかとの不安がかの女たちのこころに重くのしかかったのである。もしそのようなことにでもなれば修道会に財務上の問題がおこるかも知れないと考えられた(37N206)。
11月の終わり、アデルはサクレ・ケールに次のように書き送っている。
「苦痛の激しさのあまり、これ以上お手紙を書き続けることはできません。わたしは心の中で皆様方を懐かしみ、皆様方の苦しみにわたしもあやからせていただいております。どうか皆様方が偉大な聖人にお成りになりますように」(38)。
しばらくすると、もはやアデルは聖体拝領のために身を引きずりながら聖堂に行くこともできなくなり、あきらめて寝室で聖体を拝領することになった(39)。周囲の修道女たちは、アデルの冷静な態度と、目に見える信心深さにこころを打たれたが、アデルは、ただ、次のように述べるばかりであった。
「神はすべてをご存じです。神を受け入れるに足るだけのいかなる善良さをも持ち合わせていません」。
また、首から下げている贖宥の付いた十字架に接吻して、「イエス・キリストはわたしのために苦しんで下さいました。わたしが、その十字架に預かるのは当然です」(40)とも述べている。
いまでは、苦痛は途切れることもなく、かなり激しいものとなっていた。しかしアデルは、いつも他のひとたちのことを気にかけていた。自分の寝室で眠ってくれているサンバンサンの目を覚まさないように、夜は物音をたてないように心を配った。そして、今では夜中に交代で寝ずに看病してくれている修道女にたいしては、物音を立てて周囲の人の邪魔にならないように頼んだ。また、共同体の食事の時間になると、付き添ってくれている修道女をできるだけ早く解放して、その修道女に食事をとらせるように配慮した(41)。
日中のアデルは、周囲のことに常に心を配り、修道女とその健康について尋ねたり、仕事場やソダリティ、授業などの共同体の仕事についての報告をさせたりした。
かの女はもの静かで満足した状態であり、唇に笑みをたたえていた(42)。医者の命令にたしても、また、その命令を実行する修道女たちにたいしても、疑念を抱いたり言い訳をすることなく、すなおに従った(43)。
12月の終わり頃にもなると、アデルの苦痛は一段と激しくなった。苦情を述べたり、いらいらした態度を示すことはなかったが、時には苦しみのあまりうめき声を上げたり叫び声を上げることがあった。しかし、そのようなときには、すぐに修道女たちに詫びをいれ、「なんと云う意気地なしでしょう。他の人なら、わたしのような状態にあっても、だまって忍ぶでしょうに」と述べるのであった(44)。
終わりが遠くないことを悟ったアデルは、12月23日、自分から最後の聖体拝領を願い出た。そして、修道女たちには互いに愛し合い一致を保つようにといましめ、今では共同体の長上の役割を果たしているサンバンサンにたいして、「直すことのできないことには、だまってこれを我慢しましょう」(45)と助言した。
クリスマスの日、アデルは自分から終油の秘跡を願い出た。修道女たちは、アデルとの別れに胸が一杯になり、祈りに声をつまらした。アデルは、ひとり、はっきりとした声で祈りに答えていた。そして、娘たちにたいして神のみ旨を甘受するようにと励まし、一致を保つように諭した。体力の減退を感じながらも、修道女たちに最後の言葉を残すことは神のみ旨であると感じ取ったアデルは、サンバンサンに頼んで共同体の全員を集めてもらった。
アデルの小さな部屋に涙ながらに集まった修道女たちを前にしたアデルは、修道女の一致と隣人愛、規則にたいする忠誠心を諭し、神が与えて下さるであろう長上には、それが誰であろうと従順に従うように、と諭した(46)。
もはや、長い祈りを唱えるだけの力がなくなったアデルは、ただ十字架に接吻し、十字を切り、短い祈りを口ずさむだけであった。
クリスマスが終わって二週間のあいだ、アデルは二回ビアティクム(最後の聖体拝領)を受けた。修道女のみならずアデルを知る人びとは、この聖誕節を悲しみの中に過ごした。四つの分院では、敬愛するメール・アデル(CHERE MERE ADELE)のために、絶え間なく祈りが捧げられた。あちこちのソダリティのメンバーもこの祈りに参加した。修道院の労働者たち ー 大工、左官屋、錠前屋 ー も仕事の合間にアデルの容態を聞きにきた。ある人は「もしわたしの血を上げてメールの病気が治るものならば、喜んで差し上げます」とまで云ってくれた(47)。
町の人びとも容態を聞きに来た。ベロックやアメリは頻繁に修道院を訪れた。最期には、ベロックは四六時中アデルの側について看病をしてくれた。自身も病気でアジャンを訪れることができなかった男爵夫人は、来るべき知らせが来るのを待っていた。ラリボー神父は男爵夫人が数多くの殉教者の母親や十字架のもとにたたずむ聖母のように、その知らせを寛大な愛の心で受け止めるだろうと確信していた。ラリボー神父自身、1月7日にはサンバンサンに手紙を書き、修道院の人びとに慰めと、アデル自身には励ましの言葉を送り、依頼されている特別な意向のために祈りを捧げることを約束した。ラリボー神父のこの手紙は、アデルが死んだその日に到着した(48)。
アデルの初聖体の記念日にあたる御公現の祝日には、アデルの最期が近づいていることが明白になった。アデルは、聖ジャンヌ・ド・シャンタルの生涯最後の場面を読んで聞かせてくれるように頼んだ。そして、かの女は言った。
「シャンタルは修道女一人ひとりと話しました。でも、わたしにはその力が残されていません」(49)。
しかしながら、サンバンサンの提案に応えて、修道女一人ひとりがアデルの手を接吻することになった。もっとも、アデルとしては、このような尊敬と栄誉を表明する行動を受けることに、恥じらいを隠すことはできなかった。アデルは各人に愛と友情を示し、神のみ前で決してかの女たちのことを忘れないと約束した。そして、病室係のシスターを抱擁し、「もし神さまがわたくしに慈悲深くあられるならば、信じてください、わたしは決してあなたのことを忘れません。そして、必ずあなたのためにお祈り致します」(50)と叫んでいる。
1月8日、火曜日、病床の側にいた親愛なるディシェレット、ベロックは、シャンタルがしたように、まだ意識のある間に臨終の祈りを捧げてもらうつもりはないかとアデルの意向を伺った。アデルはこれに同意した(51)。
しばらくの間、アデルは恐怖に襲われた。「恐い」とつぶやくアデルに、サンバンサンは、「総長さま、なにも恐れることはありません」と述べて安心させた。アデルは、すぐに、これに応えて、「そうですね。なにごとも神さまのお望みになりますように」(52)と述べている。
教会の長上であるムーラン神父と、新しいチャプレン、セレス神父は、再びアデルに最後の聖体を運んで来た。この儀式は非常に厳かにおこなわれたので、アデルは日曜日と勘違いしたほどである。「なんという素晴らしい日でしょう。今日は主日なのですね」(53)とアデルは云った。
司祭は臨終の祈りを唱えた。アデルは穏やかに喜びをたたえていた。修道女たちは悲しみに包まれ悲嘆に暮れた。修道女たちは、一人づつ、そっと、外に出て、こみ上げる悲しみに泣き崩れるのであった(54)。
祈りが捧げられているあいだ、アデルは意識を失ったかに見えた。それから三時間ばかりしてアデルは意識を取り戻し、ムーラン神父に近寄ってくれるように合図した。そして、もう一度、姉妹たちに一致と友愛と従順と会則への忠誠への諭しを伝えてくれるように頼んだ。
サンバンサンはベッドに近づいて、「苦しいですか。痛みはありますか」と尋ねた。臨終の床にあるアデルは、これにたいして、「身体中が痛みます。でも、それが神さまの思召しです。わたしは、喜んでこのみ旨を受け入れます」と答えている(55)。
姉妹たちは、だれも、アデルの病室から離れようとしなかった。しかし、サンバンサンは、病人の負担にならないように、少人数の人たちに、時間を限って病室に留まることを許した。
アデルは、み心のイエスのご絵とマリアのご絵と十字架をいつも眺めていることができるように、ベッドの足元の方に置いてくれるように頼んだ(56)。
そして、それを眺めているアデルに、サンバンサンは、「総長さま、とても幸福そうですね」と声を掛けると、「わたしの娘よ。当然ではありませんか」と答え、「神さまは、たくさんのお恵みをわたしに下さいました。わたしと一緒に感謝して下さい。そして、わたしに忍従の恵みを下さるように祈って下さい。いまはの際にあって、悪魔はあらゆる方法を使って誘惑するに違いありません。今は、わたしは、身も心も平安に満ちています。これは、最後の聖体拝領のおかげです」と述べている(57)。
その日の夜(1月8日から9日)、スール・カタリンヌとスール・ジュスティンヌが交代でアデルの側についた。苦痛は激しくなり、意識と無意識のあいだをさまよった。あるとき修道女たちは、「まあ、なんとお美しいのでしょう。背がお高いこと。わたしよりも背が高い」と叫んでいるアデルの声を聞いた。それで、かの女たちは「聖母マリアさまをご覧になったのですか」と尋ねると、目を覚ましたように「ええ、マリアさまのご絵をね」と、答えた(58)。
翌朝、最後の苦しみが襲った。約18時間のあいだ、アデルは非常に落ち着いた状態になり、意識があるのかどうかも分からないほどになった。なにも云わなくなり、見たり聞いたりすることもできなくなった状態で、時間が過ぎ去って行った。しかし、意識が戻ると神に話しかけ、首から下げていたロザリオの十字架に何度となく接吻した。ディシェレットは、その頃まだアデルの側についていたが、かの女のロザリオの十字架がなくなっており、アデルの十字架を欲しがっていることをサンバンサンがアデルに言うと、アデルは先ずムーラン神父の許可を願い、そして、十字架をベロックに差しだして云った。
「わたしには、あなたに差し上げることができる物は何もありませんので、これを共同体の名のもとに差し上げます」(59)。
夕方近くに、一人の姉妹がベッドの足元に置いてあった十字架をアデルに渡した。アデルは情熱を込めて、これを接吻した。そして、み心のご絵をとってくれるように頼んだ。アデルはキリストのみ心のご絵を手にすると、熱心に接吻しながら「ああ、わたしのイエスの至聖なるみ心よ」と叫んだ。そして、まるでその行為が不敬な行為であったかのように、もう一度、そのご絵をとってくれるように頼んで、今度は、静かに、そのご絵を接吻した。それは、まるで、以前の激しい行動を償うかのようであった(60)。
アデルの衰弱は極度に達し、意識をとりもどすまでの時間が長くなってきた。そして、意識を回復するたびに、だんだんと衰弱の度合が強くなる様子がうかがえた。共同体の就寝の時間がくると、アデルはもう一度修道女たちに祝福を与えた。修道女たちはこの祝福をアデルの愛情の最後のあかしとして受けとった。
この夜、修道女たちは数人づつ組になって看護にあたった。
1月9日の深夜、10日午前0時をすこしまわった頃、アデルは最期を迎えた。
全身の力を振り絞ってアデルは叫んだ。
「ダビドの子よ、ホザンナ」。
まるで聖体拝領をしているかのように、アデルはしばらくのあいだ舌を延ばし、そして、静かになった(61)。身動き一つせず、表情を引きつらせることもなく、おだやかに、静かな最期を迎えた。時に、午前1時0分、1月10日、木曜日であった(62N207)。享年38才と7カ月であった(63N208)。
修道女たちの泣く声で隣の部屋に寝ていた修道女たちは目を覚ましたが、他の修道女たちは普段通りの時間に起床した。なにも語る必要はなかった。アデルの最期に立ち会った修道女たちの顔を見ただけで、敬愛する総長アデルが死んだことを察っすることができた。修道女たちは急いで病室に駆け込み、涙ながらに慰め合った。
アデルの顔は美しかった。今まで見たこともないほど、この時のアデルは美しかった(61)。その美しさのために、見る人に、まるで、まだ生きているかのような錯覚をあたえたほどである。
アデルの訃報は、その日の朝のうちに町中に知れ渡った。庭園師と一人の近所の人が市役所に出頭して死亡届を出した(65)。
訃報を受けた司教は、修道院に弔詞を送った。それと同時に、会憲の規定に基づいて新しい総長を選出するまでのあいだの暫定措置として、サンバンサンを総長に任命した(66)。
アデルの遺体は聖堂に安置された。木曜日は、最後にアデルの顔を一目見ようと、一日中、弔問客がつめかけた。人びとはロザリオや十字架をアデルの身体に触れた。そして、アデルの思い出を残すような形見の品を求めた。病床でアデルが使っていたベールと帯を小さく切って、求める人びとに分け与えた。アデルの髪は、すでに、修道女の手によって切り取られ、各修道院とアデルの親戚の人びとに送るように手配されていたのだった(67N209)。
修道院に入ってからのアデルは、自分の肖像画を描かせることを決して許そうとしなかった(68N52)。それで、二人の画家(69)を招き、かの女の肖像画を描かせようとした。しかし、この二人が全力を集中したにもかかわらず、アデルの表情が瞬時に変り、肖像画を描き上げることができなかった(70)。アデルをみた大勢の人は、かの女が本当に死んでいるのか、見る目を疑った。かの女は微笑みをたたえ、その顔立ちには、どこからみても平和と満足感がただよっていた(71)。
金曜日の午前、カテドラルの主任司祭が修道院を訪れ、9時にレクイエムの歌ミサをおこない、続いて告別式をおこなうことになった。この時、アデルが死んですでに32時間が経過していた。しかし、本当にかの女が死んでいるのか、人びとは真面目に疑いをもっていた(72)。急きょ呼ばれた司祭は、応接室でサンバンサンと会い、相談の結果、ミサは予定通り決行することになったが、埋葬は翌日に延ばすことに決定した(73N210)。
ミサが終わると、遺体の祝別式をおこなうために、一般の人びとには退場してもらった。そして、愛徳会のシスターたちにアデルの遺体を調べてもらうことにした。かの女たちはアデルに最後の別れをするため、また、以前自分たちのポストラントであったサンバンサンにお悔やみを述べるために、その場に居合わせたのだった。しかし、かの女たちも、アデルが本当に死んでいるのか疑いを持っていたようである。そこで、一人の修道女がアデルの足の裏に軽い切傷を入れた。しかし、血は流れ出てこなかった。こうして、アデルの死は、もはや疑いをえないものとなったのである(74)。
翌日の土曜日、埋葬式が修道院の小さな共同墓地でおこなわれた。アデルの遺体はソダリストによって運ばれたが、かれらの意向によって、遺体はかれらの手で墓穴に下ろされた。アデルは、アウグスチノ会の建物に引っ越してからこの世を去った三人のシスターのそばに葬られた。すなわち、ルイーズ・マリ・ドレンヌ(LOUISE-MARIE DRENNE)、テレーズ・ド・サントギュスタン・デジェ(THERESE DE SAINT-AUGUSTIN DEGERS)、そして、アンニェス・ブデ(AGNES BOUDET)である(75N211)。死にあっても、トナンのメール・テレーズと同じように、自分たちの憧れの的であった修道院の囲壁の中に踏みとどまったのである。
アジャン市は喪に服し、多数の人が修道院へ弔問にきた。
サンバンサンは次のように記している。
「わたしたちの喪失は大きく、それだけに悲しみも大きいものでした・・・。総長さまは喜んでおられますが、わたしたちは総長さまを喪ったことを悲しんでいます。総長さまは凱旋なさいました。でも、わたしたちは、まだ、闘っています」(76)。
翌、日曜日、ソダリストはいつもの通り集会のために修道院に集まった。かの女たちは静かに待っていたが、その日訓話をすることになっていた修道女が部屋に入るや、全員が声を上げて泣いた。
この日、ソダリストたちはアデルについて語り合った。アデルの優しさ、アデルの徳について語り、アデルが自分たちにとってどのような存在であったかを話し合った。そして、教会が定める死者の祈りを捧げたのち、全員静かに帰途についた。普段のとおりの集会をしようとしても無駄なことだった。
まだソダリストになるには年齢が足らない子どもたちの間でも、これと同じようなことが起こった。子どもたちは顔を涙で汚していた。修道院を離れたのちも、普段の日曜日のようにゲームをして遊ぶことさえしなかった(77)。
いまでは総長の役目を担うサンバンサンは、シャミナード神父とゴンザグに、アデルの最後について詳しく書き送った(78)。そして、このニュースをアルボアにも回覧してくれるようにと書き添えた。
サンバンサンはビルフランシュのエミリ・ド・ロダにも手紙を書いた。これを受けたエミリは、自分たちの修道院に訃報を知らせた(79)。
アデルの伝記を書くようにとの依頼が、多数の人たちから寄せられた。そして、二人の候補者が上げられていた。その一人にスール・ルイーズ・マリの名が上げられていた(80N212)。
シャミナード神父は男爵夫人に手紙を書き、夫人と家族におくやみを述べると同時に、アデルの子ども時代についての情報を送ってくれるように依頼した。この手紙にたいする男爵夫人からの返答を受けたとき(82)、シャミナード神父はアジャンの修道院を訪れていた(81)。男爵夫人は次のように記している。
尊敬する神父様。わたしたちの娘の死が、霊的な父親であられる神父さまと、肉体的な母親であるわたくしにとって、大きな悲しみをもたらすもであろうことは、分かっておりました。神父さまにも、わたくしにも、アデルは、いましばらくこの世にとどまって神の仕事に奉仕するべきであった、と思われました。しかし、み主のお考えは別のところにありました。アデルはすでに、あるいは、少なくとも時をまたずして、神のふところに迎えられることと思われすが、そうすれば、かの女は熱心にわたしたちのためにとりなしてくれるでしょう。確かに、この世において、かの女はそのような人でした。 アデルの幼少時代と青年時代の詳しい情報を差し上げることは、わたしにとって、たいへん大きな慰めです。アデルは理性を働かせる以前から、すでに恩寵によって動かされていました。わたしの手記のなかから、人さまのお役に立ちそうなところは、なんなりともお使いください。アデルの家系にかんしましては、ー この種の伝記は真の善徳の必須条件である謙遜の徳を説くべきものですから ー 元フランスの近衛団の武官で、聖ルイの騎士、国王軍では陸軍大佐を勤めたトランケレオン男爵ド・バッツ氏と、ペイロンネンク・サン・シャラマン嬢の娘であったと云うだけで十分であろうかと存じます。 石碑にかんしては、特別な希望はなにもございません。これについては神父さまの適切なご判断に全面的におまかせいたします。神父さまのお考え通りにことをお進めください。 マリアの娘の修道会にかんするニュースや、娘たち一人ひとりに関するニュースは、今後もお知らせ下さいますように。この修道会は、わたしにとっても、また、尊敬する神父さま、あなたさまにとっても、大切なものであることにいささかの変わりもありません。あなたさまが、わたしに、幾度も娘を訪問する特別なお許しをくださいました。そのご親切を、ああ、それも今はなくなってしまいましたが、決して忘れることはできません。 尊敬する神父さま。わたくしは、大いなる尊敬の念をもって、あなたさまの最も卑しく、かつ、従順なるはした女であることを、大いなる光栄といたしております。 ペイロンネンク・ド・トランケレオン
追伸:神父さまのお手紙を息子と嫁にも読ませました。両人とも、神父さまのご厚意をこころから感謝したしております。両人は、わたしからお礼を申し上げてくれるようにと申しておりました。息子は遺言書を読むために、わざわざ出向く必要はないと申しております。聖なる生活を送った姉の遺志は、それがなんであれ、すべてをお受けすると申しております。(アデルが遺言書を預けてあったアジャンの公証人)ショドルディ氏(MONSIEUR CHAUDORDY)に、手続きを進めてくれるよう、書面をもって依頼しておくと述べておりました(83)。 娘にかんする覚え書きは、できるだけ早くお送りいたします。シャミナード神父は、アジャンにいるあいだに、サンバンサンを暫定的な総長として承認した。
総会が開かれたのは1830年のことである。このとき、サンバンサンは、満期まで総長を勤めるように決議された。修道女たちのなかで、アデルに一番近く生活したのは、サンバンサンであった。かの女は短期間コンドムに滞在したのをのぞけば(84)、創立以来、常にアジャンで生活したのであった。
このサンバンサンの協力のもとに、シャミナード神父は、アデルにかんする数多くの思い出と回想を集めた。師はこれを後日アデルの伝記の資料にしようと考えていたのであった。シャミナード神父は、また、同じような考えから、アデルの数多くの友人やソダリストとも連絡をとった(85)。
アデルが死の床にあるあいだに、パリの政府は、それなりに、手続きを進めていた。シャミナード神父はドラシャペル神父にアデルの健康状態が予断をゆるさぬものであり、かの女の死以前に国王からの承認が得られないならば修道会に混乱が起こる可能性のあることを示唆することで、手続きを速めようとした。
ドラシャペル師は、アデルの最後の日、1月9日、ジャクピ司教に手紙を送っている。これによれば、会の定款は教務省によって受理され、法の規定にもとづいて国会の証明を受くべく送付されていた。しかしながら、アジャン市からの文書がなければ、これ以上進まないだろうと述べている。しかも、一般に役所がこの種の手続きを早急に進めることはないのだから、国家の承認を得る前に、アデルが自分の所有地に関して適切に表明した遺言書を書いておくように取り計らってほしい、とも述べていた(86)。
1月の末、まだアジャンに留まっていたシャミナード神父は、市長に長文の手紙を記し、女子マリア会の存在が市にとって有益であり善をもたらすものであるとの市議による審議結果を得るために市会を招集してくれるように依頼した。この手紙に、修道会の定款の写しを同封した。そして、ドラシャペルの手紙から、市の審議の結果が国家の承認に先だって必要であるとのくだりを抜粋した。そしてシャミナード神父は、女子マリア会がアジャンの町で11年にわたっておこなってきた明確な諸事実をも指摘することを忘れなかった。師は述べている。
「この修道会の修道女で、自分自身を人びとのために捧げなかった人が一人でもいたでしょうか。この最も重要な点にかんしては、どうか、正確に、かつ、厳格に調査して下さいますようお願い申し上げます」(87)。
3月、手続きは好結果を生んだ。3月2日付けをもってフレイッシヌ司教事務所(FRAYSSINOUS’ OFFICE)によって作成され国王シャルル10世によって署名された勅令によって、マリアの娘の修道会の定款は、他の二つの修道会の定款とともに(89)、公式に登記されることが認められた。そして、その三つの修道会は、3月23日に発令された国王の法令によって、最終的な承認を受けたのである(89)。
長い間待ちこがれた認可がついに下りたことを知ったサンバンサンは、アデルと喜びを分かち合おうと、かの女の部屋に急いだ。しかし、アデルがすでにその部屋に居ないことを思いだしたサンバンサンは、部屋の入口にたたずみ、涙を流した(90)。
シャミナード神父はランブルッシーニ(LAMBRUSCHINI)に約束していたように、今度は教皇の承認を得るために動きだした。先ず第一に、女子マリア会と男子マリア会の会憲を、過去の経験に照らして再検討することになった。この仕事は、この時から更に10年間、だらだらと続けられることになる。
1830年の革命で国王は退位し、反聖職者主義の政府が成立し、今までおこなわれてきたシャミナード神父のすべての事業が中断され、その大半は破壊されてしまった(91)。マリア会の男女両修道会が教皇からの賞賛の教令を受けることができたのは、1839年4月27日になってのことだった(92)。
この教令は、シャミナード神父が望んでいたような修道会とその会憲を承認する正規の認可ではなかった(93)。ローマはこのような事柄に関しては、非常に慎重な態度をとっていたのである。しかし、一歩前進したことには、間違いなかった。シャミナード神父は、ローマにたいする要請を支援してくれていた一人の司教の次のような言葉を引用して、熱意を込めて述べている。
「これは列福式です。列聖式は、まもなくおこなわれるでしょう」(94)。
教皇賞賛の教令に関して、とりわけシャミナード神父を喜ばせたのは、そして、おそらくアデルをも喜ばせたであろうことは、教皇グレゴリオ16世が次のように述べたことである。
教皇は、この同じ一つの賞賛教令の中で、二つの修道会に同じ賞賛、同じ奨励、同じ激励を与えて下さいました。このことは、わたしたちの二つの修道会にたいして、この二つの修道会が同じ一つの目的にむかって、男女の性別にふさわしい道を、並行して進むようにと教えて下さっているのです。この二つの修道会は、それぞれ独立した修道会でありますが、熱誠と、友愛と、神とそのおん母の栄光を求める努力において、たがいに結び合わされ、競い合うものです(95)。
こうして、アデルの死後11年にして、やっとアデルの創立した修道会が国家と教会によって正式に認められたのであった。生前のアデルは、アソシアシオンと修道会を通じて貧しい人、助けの必要な人、教育を受けていない人、霊的に恵まれない人たちに手を延ばした。だからアデルは死後も、この世におけるかの女自身の延長としての修道会を通して、これらの人びとに助けの手を延ばすことになったのである。
この世におけるアデルをよく知っている人は、かの女が人びとのために生き、聖なる死を遂げたことを知っていた。後年、サンバンサンは次のように述べている。
「アデルがこの世で得たすべての利点は、信仰の目の前で消え失せてしまいました。謙虚に生き、隠れた生活をすることが、かの女の喜びでした。かの女の唯一の野心は、人びとの救霊のために生涯を捧げることでした。アデルは人びとを差別することなく愛しました。もしかの女が選り好みをしたとするならば、それは貧しい人、弱い人たちのためであり、自分自身のことは何時も無視していました。神への愛と、隣人にたいする愛が、文字通りかの女の生命を焼き尽くしたのだと言えるでしょう」(96)。
アデルの生涯、その愛、その生き生きとした人となり、そして、かの女とこの世にたいする神の愛に支えられた揺るぎない信仰は、単に文書の中だけでなく、とりわけかの女が設立した修道会の伝統と、かの女をこの世にもたらした家庭の伝統(97)の中に、生き生きと生き続けるに違いない。
死後200年にして、かの女は、その生前に仲間たちから親しく呼ばれていたように、親愛なるアデル(LA CHERE ADELE)として、人びとの前に立ち現れる。
アデルの列聖調査は1965年に教区レベルで始められ(1946年からおこなわれた公式の調査期間を経て)(98)、1977年に聖座に提出された。1986年、教会は公式にアデルは「神と隣人のために信望愛の敬神徳を英雄的な度合にまで実践し、賢明と正義と克己と剛毅の倫理徳を、他のこれに関連する諸徳とともに実践した」(99N213)ことを、アデルを知る数多くの友人や弟子たちが長年確信していたとおりに、認めたのである。
アデルならばこのことを、ちょうどスール・セラフィンに宛てた手紙に記しているように、技巧を用いないで次のように述べたに違いない。
「なにごとをなすにも信仰の精神をもっておこない・・・普段の生活、平凡な活動ではあっても、非凡な動機付けをもっておこなった」(100)と。