死に瀕するスール・マリ・ジョゼフ / 新共同体開設の提案

在俗第三会(THIRD ORDER SECULAR)と

修道第三会(THIRD ORDER REGULAR)

アデルの健康回復のための祈り / 十人目の死 スール・トゥリニテ

アデルの最期の黙想 ローモン神父の死 

12月初旬、アデルは手紙でアルボア修道院の様子を知り、また、その数日後、修道女たち自身からも手紙を受けて、感謝の気持ちであふれていた。アデルはこの喜びを急いでサクレ・ケールに知らせている(1)。

派遣された修道女たちは無事アルボアに到着した。いろいろの出来事が起こった長旅であたが、その苦労もバルデネ神父や教会と政府の役人、ならびに町の人びとからの暖かい歓迎で十分に報われた(2)。かの女たちの「臨時の母親」(4)になってくれたマダム・ウッシエール(MADAME OUSSIERES)(3N190)は、準備万端を整えてくれた。そして、かの女たちが到着した日には、全員を自宅に呼び、夕食に招いてくれた。そして、その席でバルデネ神父と小教区の主任司祭を紹介してくれた(5)。

11月18日、土曜日、主任司祭は修道女たちに招待状を出し、日曜日のごミサに出席して歓迎式に参加するようにと呼びかけた。しかし、三週間の長旅をした修道女たちにとっては、一日もはやく修道院に落ち着き、囲壁の生活を始めることが先決であった。この修道女たちの望みを知った主任司祭は、自分から修道院に来てごミサを捧げ、聖櫃内に聖体を安置してくれた(6)。

夕食に招待された修道女は、食事の後、新しい修道院に移り住むことになった。聖堂はマダム・ウッシエールによって美しく飾られていた。必要な家具と台所用品が備えられており、あたたかい思いやりに魅了された。しかしながら、建物の改築工事はまだ終わっていなかった。この工事はしばらくの間続き、労働者が去って正式に修道院の囲壁の生活ができるようになるまでには、今しばらく時間が必要であった。

その翌日、子供の入学を希望する親たちが修道院を取りかこんだ。バルデネ神父や町役場のひとたちが、そのように約束していたからである(7)。

最初の一週間が過ぎると、なんにんかの人が修道院に「貸しておいた」家具や道具を取り戻しに来たため、到着当初シスターたちがこころにいだいた感激も、じょじょに薄れていった。やがて修道院の中は、聖堂を残して、まる裸になってしまった。豊富に備蓄されていた食品も一日のうちになくなり、肉屋やパン屋や食糧雑貨店を自力で探し回らねばならなくなった。幸いなことに、バルデネ神父とウッシエール夫人が修道女たちを助け、いろいろな商店を紹介してくれた。

このときマリ・ジョゼフが家政と台所の管理技術について短期間のあいだ集中講義を受けたというエピソードがあるが、この話は40年経ったのちにも冗談話として語り伝えられたものである(8)。

12月4日、授業は開始された。大勢の生徒がやってきた。有料の授業が2クラスと、無料の授業が2クラスできた(9)。そして、五つ目のクラスが開かれたのは、それから間もなくのことであった(10)。

寄宿舎は改築作業が終わってから開かれることになり、マリ・ジョゼフがこれを担当することになった(11)。ところが、12月5日、学校が始まったその翌日、それまでもあまり健康に恵まれていなかったマリ・ジョゼフが、この日、高熱と激しい頭痛に見舞われたのである。そして、その翌日、医者はかの女に悪性チブスの診断を下した。

シスターたちは、授業が始まり、多忙を極めていたため、マリ・ジョゼフの看病に十分な時間をあてる余裕がなかった。そのうえ、修道女たちのトランクはいまだに到着せず、夜具も不足していた。幸いなことに、その町にあった病院の修道女がこのニュースを聞きつけ、夜具を貸してくれたばかりでなく、病人の世話に修道院まで駆けつけてくれた。そして、看病のために交代で修道院に来てくれたのである(12)。12月12日ともなると、マリ・ジョゼフは瀕死の状態に陥り、最期の秘跡を拝領することになった(13)。

一人の修道女は、浅はかにも(14)、次のような簡単な手紙をアデルに送った。

「この手紙があなたさまのお手元に届く頃には、わたしたちは孤児になっているでしょう」(15)。このように述べた姉妹は、さらに、新しい修道院長を派遣してくれるようにとも付け加えた(16)。

それまで静かな待降節を送っていたアデルは、このニュースを聞いて悲しみのどん底に突き落とされてしまった。アデルはアンカルナシオンに自分のこころを打ち明け(17N1919)ているが、そこにはアデルの明確な決意がにじみでている。

「このカリスをわたしから取り去って下さい。しかし、わたしの意のままではなく、あなたのご意思のとおりになりますように」。「わたしの親愛なる娘よ。なんという恐ろしい衝撃がわたしたちに襲いかかったことでしょう。わたしは、ちょうど今しがた、アルボアから手紙を受け取りました。メール・マリ・ジョゼフが、救い主に望まれて生け贄になったのです!(18N59)・・・お願いです。祈って下さい。そして、姉妹たちに聖母マリアの連祷と聖ヨゼフにたいする祈りのノベナをしてくれるように頼んで下さい。わたしたちは、なすすべを知りません!この親愛なる共同体は、カルワリオの丘の上に建てられたのです。信仰の目からみれば、それは将来の吉兆です」と叫び声を上げている(19)。

アルボアでは、医者から匙を投げられたマリ・ジョゼフは、死んだと思われた。提灯に火をともして、何回となくかの女の目の前で振ってみたが何の反応もなかった。姉妹たちは祈り、断食し、苦行をした。だが、突然、予期せぬ生命のしるしがあらわれた。そして、回復の微妙な兆候を見せはじめたのである。

少しづつかの女は回復し、やがて危険を脱するまでにいたった。こうしてかの女には長い療養の生活が始まった(20)。そして、その月の終わり頃には、アデルはサクレ・ケールにマリ・ジョゼフの回復のニュースを伝えることができるほどになっていた(21)。

こうして、アルボアは落ち着きを取り戻した。改築は完了し、寄宿舎は開始された(22)。グレイに近いところにあった男子マリア会の共同体から、ララン神父がたびたび修道院を訪問してくれた(23)。やがて、シャミナード神父の要請によって、ド・シャモン司教(BISHOP DE CHAMON)が、その土地の主任司祭をこの修道院の教区の長上として任命してくれることになった(24N192)。

いとこが病にふせている数週間はアデルにとって苦しい時期であった。しかしそれでも、アデルは忙しく仕事をこなしていった。無原罪の祝日を準備するソダリティの黙想会では、パガ神父(FATHER PAGA)が毎日講話をし、大きな成功のうちに終わった。アデルはこの黙想会の結果が長く続くことを望んだ(25)。

アジャンの修道院は、自分たちが生きていくだけでも苦しい状態であったが、その上に、シャミナード神父が養子にした少女を受け入れることになった(26)。ボルドーの修練院はほとんど収入らしいものがなかったため、修練院をまかなうために、アジャンの共同体が借金をした。こうして、アジャンの負担はますます大きくなった(27)。

「避難所」に住んでいるブラザーの一人が重い病気にかかった。しかし、この共同体はシスターの共同体よりも貧しく、薪にさえも事欠く状態であった。そこでアデルは何がしかのスープと薪を送って上げた(28)。

幾人かのポストラントが入ってきたが(29)、去って行くものもいた(30)。(トナンから来ていた)もう一人のスール・アンジェリックは再入会を希望した(31)。

クリスマスの日、修道院は最初の着衣式の十周年を祝った(32)。スール・クロチルダ(デルペーッシュDELPECH)(33N193)が、「マリアの一番年上の子」である聖ヨハネの祝日に誓願を宣立した(34)。

シャミナード神父とアデルは、更に三つの新しい修道院の開設を計画した。コンドムの西南約70キロにあるエール(AIRE)のマドモアゼル・ボーラック(MLLE BEAULAC)は学校を経営していた。かの女は、自分が死んだ後もこの学校を安定させるために、引き取ってくれる修道会を探していた。この情報は、シャミナード神父を通して入ってきた。エールの神学校内部に、すでにソダリティができており(35)、いままでもシャミナード神父は、そこの人たちと連絡をとっていたからでる。

シャミナード神父は、ボーラックと(36)その土地の主任司祭に(37)手紙を出した。その中で、師は、エールでの仕事を始めるために、修道女を一人か二人であるならば派遣することができるであろうと伝え、その派遣された修道女の指導のもとで、マドモアゼル・ボーラックはエールで「修練期」を始めればよいと伝えた。そして、かの女の他にも興味を示す友人や教師がいるならば、その人たちも一緒に共同体をつくるように、また、後日入会を希望する人が出てくれば、養成のためにボルドーかアジャンへ送るように、とも述べている。

この同じ手紙の中で、シャミナード神父は、修道院開設前に考えておかなければならないその他のいくつかの問題点を提示した(38)。おそらくこれらの点について満足な答えが出なかったのだろう。このプロジェクトは、そのまま立消えになった。

アジャンの南、約30キロ離れたところにあるレクトゥール(LECTOURE)では、ベロックが始めたソダリティが既に存在していた(39)。ブラザーはアジャンの学校で目を見張るような成功をおさめたため、あちこちからブラザーの派遣の要請がシャミナード神父の手元に送られてきた。レクトゥールもその一つであった(40)。その後しばらくして、シスター派遣の要請もあった(41)。しかし、この時も交渉が満足な結論をもたらさなかったのであろう。ブラザーもシスターも派遣されることなく終わってしまった(42)。

第三のプロジェクトは、より現実的なもののように思われた。最初は、このプロジェクトは、長い間のアデルの夢をかなえてくれるものであるかとさえ思われたほどである(43)。

修道会の創立当初から、女子マリア会に蟄居を義務付けることはこの修道院が設置される町の状況や、働きかけようとしている人たちの状況から考えて、その活動が制約されるであろうことは分かっていた(44)。そのようなわけで、アデルは創立当時から修道院の囲壁を超えて、とりわけかの女がアソシアシオンでのエネルギーの大半を注ぎ込んだ田舎の地方に住む人たちの間に、使徒活動を拡充して行く方法を探求していたのだった。

囲壁に入ることのできない人、また、入る意思のない人で、アソシアシオンに加盟している人たちが集まって作った在俗第三会は、アデルのこの夢の一部分を実現してくれるものであった(45)。この第三会の「シスター」たちは、有期誓願を宣立し、正式の「オベディアンス」(従順による辞令書)を受け、使徒活動を行った。かの女たちがおこなう使徒活動は、事実上、女子マリア会修道女の活動の延長であった。長上の職にはこの在俗第三会員の一人が立ち、三部門の部長も設けていた(46)。アメリ、ベロック、メラニ・フィガロール(MELANIE FIGAROL)、そして、入会以前のロロットなどは、この第三会の代表的なメンバーのひとりである。トナンで第三会が作られると、アジャンでも同様の発展がみられ、その第一回の集会には、アデルとシャミナード神父が出席している(47)。

1821年、アデルはトナンのメール・テレーズに宛てて次のように書き送っている。

「第三会は、もし、立派に指導して行くならば、非常に大きな仕事をする会となるでしょう。ラルベール(LARBERE)とマドモアゼル・モミュス(MLLE MOMUS)は、第三会に加入しないのでしょうか。この小さな種子が大きな木に成長し、田舎の地方までその枝を延ばしてくれるようになることを心から望んでおります。この会は、修道会の仕事を小さな村でおこなうことを目的としたものです」(48)。

トナンではスール・ドシテ(DOEUR DOSITHEE)がこの第三会を担当していた。そのためアデルは、しばしばこれに関してかの女に手紙を書いている(49)。例えば、メンバーに質の高い養成をほどこす必要性を説いている手紙のなかで、アデルは次のように述べている。

「かの女たちはわたしたちが蟄居のために手が届かないでいる外の仕事をするために召された人たちです。かの女たちは、真の意味でこの修道会の娘であり、この会を通じてわたしたちは多くの魂をイエス・キリストとマリアに引き寄せることができるのです・・・」(50)。

アデルは、また、シャミナード神父はこの修道会の選ばれた部門のために大きな計画をもっている、とドシテに述べ(50)、神もまた、この選ばれた群のために大きな計画をもっておられる、と付け加えている(52)。

当然のことながら、この在俗第三会もいろいろな問題を抱えていた。脱落するメンバーがおり(53)、担当のシスターたちに迷惑をかけるものもいた(54)。

この第三会に一番直接的にかかわっていたのはドシテの他に、エンマヌエル、セント・フォア、そして、アデル自身であった。

在俗第三会(THIRD ORDER SECULAR)は有用であり、かつ、効果的であったが、長期のプロジェクトのために必要とする安定性に欠けていた。また、メンバーが自分の仕事や家庭の仕事をもっていたために、地方に点在する小さな共同体の必要性を十分に満たすだけの力がなかった。そこでシャミナード神父もアデルも、修道会のもう一つの枝でありながら囲壁に左右されない修道第三会(THIRD ORDER REGULAR)を創設する機会をねらっていた。

1822年、スール・アンジェリックが会を去ると、このような第三会の問題が浮上した(55)。シャミナード神父は、このような発展があることを長年のあいだ待っていたが、時間がなくてできなかった、と述べている。

「時が来れば、どのようにしてこのような組織をつくればよいかを検討しましょう。ちゃんとしたものにしようと思えば、考えている以上に難しいものなのかも知れません。」(56)、と師はアデルに書いている。

時は1825年1月に来たかに思われた。弁護士の娘で二人姉妹であったマドモアゼル・シルエール(MLLES SILHERES)(57)がリーダーとなって、信徒の小さな婦人のグループをオーク教区(AUCH)のモンフォール(MONTFORT)に形成していたが、このグループが、マリア会と特別な関係を結びたいとシャミナード神父に依頼してきたのである。

師はこの要請に合意したが、一つの条件をつけた。それは、このグループが修道第三会(THIRD ORDER REGULAR)の共同体を形成し、女子マリア会の統治の下におかれ、女子マリア会の修道女に従属することをその条件とするというものであった(58)。

シルエール姉妹はこの提案に合意した。そして、修道会の精神を学ぶため、数日間、コンドムの修道院を訪問することになった。アデルはアンカルナシオンに手紙を書き、この人たちをポストラント同様に取り扱い、囲壁のなかに入れるようにと指令した。しかし、かの女たちに会憲を読ませる許可は、まだ与えなかった(59)。シャミナード神父もアデルの意見に同意した。しかし、その後、かの女たちはシャミナード神父に手紙で連絡してこなかったために、シャミナード神父は、女たちの誠意に多少の疑問を感じた(60)。

コンドムに数日間滞在しただけでは、二人の姉妹が修道会の精神を十分に汲み取れるはずはなかった(61)。しかし、あきらかに、この体験で、かの女たちは深い印象を受けたようである。一年たって、かの女たちは、ボルドーのノビシアにおくられることになった。二人はボルトーへ行く途中、コンドムとアジャンとトナンの修道院に立ち寄った。かの女たちは誓願を宣立してからモンフォールに戻り、そこに修道第三会の最初の共同体を作ることになった。アデルはドシテに次のように伝えている。

「総長神父さまは、かの女たちが旅行の途中で立ち寄ったときは、修道院に入れて上げるようにと云っておられます。この人たちはボルドーへ行って修道会の精神を学びとり、その後、モンフォールで新しい共同体を創ることになっています。かの女たちには何人かの志願者があります。わたしたちとしては、会則が規定しているように、二・三年のあいだ、一人の院長を送って上げれば、それでよいのです」(62)。

12月中旬、アデルがアルボアからの最初のニュースを手にした頃、二人の姉妹はコンドムで数日を過ごした後、アジャンの修道院を訪れていた(63)。アデルはかの女たちの印象を、次のように述べている。

「かの女たちの精神状態は非常に良好で、養成を受ける意欲をもっています。姉の方にはスール・アッソンプシオン(SOEUR ASSOMPTION)と云う名をつけ、(アデルと同い年の)妹の方にはスール・テレーズ・ド・ジェジュ(SOEUR THERESE DE JESUS)と云う名を付けました」(64)。

姉のアッソンプシオンは強い性格をもっており、かなりの才能と正しい判断力を身につけていた。妹は姉ほど恵まれていなかったが人好きのする性格で、明るく人付き合いの良い人柄であった。しかし、かの女は小心に陥りやすく、とりわけ活発な想像力によって内的な誘惑にかかりやすい傾向をもっていた。

この二人は、モンフォールでの共同体の創設資金として、4万フランの基金を受ける約束をもらっていた。二人は、自分たちが創立者としてモンフォールに帰るか、あるいは、修道会の長上が決定する他の人を送ることに同意していた(65)。

アジャンに四日間滞在した後(66)、シルエール姉妹は四・五日の滞在を目的にトナンに旅を続けたが、その際、ボルドーに行くことになっていたコンドムとアジャンのポストラントを同伴することになった(67)。12月21日、木曜日の朝早く、一行は蒸気船に乗ってボルドーのノビシアをさしてガロンヌ川を下って行った(68)。

二人がボルドーにいるあいだに(二人は二年間ボルドーに滞在した)、モンフォールの計画はうやむやに終わってしまった(69N194)。モンフォールのために約束されていた基金をレクトゥールに回そうと考えた人もいたようだが、アデルはその正当性について疑問を差し挟んでいる(70)。

結果的には、どちらの共同体も具体化されることなく終わり(71)、最終的に第三会ができたのは1836年になってのことであった。アデルは、ついにその夢の実現をみることができなかったのである(72N195)。

アデルの慢性的な虚弱体質、自分の責任下におかれた5つの修道院にたいする心遣い、アジャンにおけるポストラントと在俗第三会の世話、修道会全体に覆い被さって来る経済的な負担、三つの場所での修道院開設の交渉と計画、そして、一番最近起こったマリ・ジョゼフの瀕死の病気(73) ー これらすべてが災いして、アデルの健康は再び悪化した。

(1827年)1月、アデルは再び病床についた。今回は、かなり危険な状態に陥った。このことがあって2カ月としばらくのあいだは、手紙も書けなくなった(74)。

1月29日、シャミナード神父は五つの修道院にたいして公式の「命令書(ORDINANCE)」を出し、「マリア会の創立者であり総長であるスール・マリ」(75)の健康回復のために祈りを捧げるように伝達した。アデルの健康が回復するまでは、毎日、聖ヨゼフの連祷を唱え、信徒たちにも連祷を歌う修道女に参加するように呼びかけられた(第1、4条)。最初の九日間はノベナとして荘厳におこない、これには第三会の会員やソダリスト、ならびに共同体の友人たちをも呼びかけることになった(第2条)。このノベナの間、毎日、聖体降福式(ベネディクション)をおこなう許可を司教(または、その代理)に申請する(第3条)。このノベナのあいだに、修道女と信徒は、総聖体拝領をおこなう(第5条)。修道女は日曜日の聖体拝領と金曜日の大斉をアデルの回復のために捧げる(第6条)、と決められた。

アジャンでは、ソダリストとアデルの友人たちは、かの女の回復のために約8キロの道のりを歩いてノートルダム・ボナコントゥル(NOTRE DAME DE BON-ENCONTRE)へ巡礼した(76)。男爵夫人は、自分自身もあまり健康でなかったが(77)、ハンガリーのド・ホッヘンロー王子(PRINCE DE HOHENLOHE)(78N196)に手紙を書いて、祈りを依頼した(79)。かれの治癒能力は、ヨーロッパ中に知れ渡っていたのである。

アデルは、これらすべての人による厚意と祈りにたいして大きな感謝の気持ちを持つとともに、自分になにが起ころうと、すべてを甘受する心構えを作り上げた。ホッヘンローは、病人にたいして、祈ってくれている人たちと、ある特定の時に、心を合わせるように勧めるのが常であった(80)。アデルは、人びとからそのように薦められたとき、次のように答えている。

「わたしの子どもたちよ。ただ、天国におられるわたしたちの浄配のご意思が成りますように」(81)。

いまではアジャンの修道院の仕事の大半を抱えていたサンバンサンは、この時からアデルの看病のために、アデルの部屋で夜を過ごすことになった(82)。サンバンサンは、エミリ・デ・ロダに手紙を書き、ビルフランシュのシスターたちにアデルの回復を祈ってくれるように依頼した。(1827年)2月の手紙では、病人の詳細な症状が記されている。

「総長は病床に就いたままで、内臓の不調に悩まされていますが、医者は治す術を知りません」。

アデルはこのような症状に、長い間悩まされ続けてきた。すでに、かれこれ一年くらいのあいだ、アデルは小量の肉汁とミルク以外には何も食べることができなくなっていたのだ。いつも熱があり、他の部屋に行くのも難しいほどに衰弱していた。アデルは自分でエミリに手紙を書きたいと思ったが、不可能だ、と伝えている。

アデルがすでに何ヵ月もエミリに手紙を書いていなかったことが明白であったので、サンバンサンは修道会の他のニュースも知らせた。しかし、なににもましてサンバンサンはアデルの気持ちをかの女に伝え、マリア会へのエミリの心遣いにたいするアデルの感謝の気持ちを伝えた(83)。

この厳しい病気のあいだ、アデルは看病してくれるシスターや医者の命令に、模範的な従順の態度を示している。しかし、今までに、神のためにもっと奉仕することができなかった自分を責め、祈りのあいだにあれほど心を散らしたことを悔やんだ。聖体を拝領するためには、真夜中から激しい喉の渇きと闘い(84N197)、朝になると一人のシスターに支えられながら、歌隊席まで身体を引きずるようにして出かけて行った(85)。

死が間近に迫っていることを知ったアデルは、修道会の経済的な問題を整理しておこうと考えた。共同体はいまだに政府の公式な承認を得ていなかった(このことにかんしては、手続きさえも始めていなかった)。実際的には、修道院のすべての家具や財産は共用されていたが、法的に、また、公式には、それら家財はすべて共同体の個人の所有物になっていたのである。

2月16日、アデルは法的な書類を作成した(86)。この文書において、アデルはシスター各人が経済的に平等であることを認めている。シスターたちは、ある人は祈りによってアジャンの修道院とその財産を助け、ある人は家具その他の動産を提供することによって経済的に援助してきたからである。

マダム・ヤナッシュと8人のシスターの名前が列挙され、その人たちによる寄付が全額で47、100フランであったと記された。また、この文書によれば、修道院がこの屋敷を入手した1823年に、その代金(6、000フラン)をギャメル氏(MONSIEUR GAMEL)から借りたままになっていることを認めている。また、その他いろいろな人からの負債を総合すると、8、600フランになった。もちろんこの文書では、すべてのシスターは俗名で記載されていた。修道者としては法的に認められていなかったからである。アデルはこの文書に「マリ・ド・バッツ・ド・トランケレオン」と署名している。

4月、アデルは無理をしながらも、やっと手紙を書くことができた。そして、親愛なるゴンザグに、復活祭の「アレルヤ、アレルヤ」を書き送った。

   わたしのもっとも親愛なる娘よ。わたしは自分自身で自分の容態をお知らせいたします。そして、あなたと、わたしたちの希望であるあなたの親愛なる羊の群にたいして、真の霊的復活、今後の信仰の生活、聖なるアレルヤを、お祈り申し上げます。ご復活節の毎日がわたしたちを心の底から新たにしてくれますように! 熱さえなければ、わたしの身体の調子は少しよくなったといえます。でも、苦痛は少しも和らいではいません。胃はまったく何も受けつけないのです。 ー また熱がでるのではないかと心配で ー ですから、わたしはまだ何もできません。わたしは、自分の性格からすれば、うんざりするような無気力な状態にあります。でも、もしこれを立派に利用することができれば、おおいに霊的生活に役立つことでしょう。 ああ、わたしの親愛な娘よ。もし、わたしたちが苦しみの価値を知ってさえいたならば、少しでもそれを見逃すことのないように最大の注意を払うことでしょう。苦しみは実物の十字架の遺物よりも、もっと貴いものです。この十字架の奥深い意義を知ることができた人は、なんと幸福なことでしょうか(88)!

アデルの手紙は短いものだった(「常識的でなければなりません」)。しかし、その手紙に、かの女はシャミナード神父、カイエ神父、ノビスたち、そして、修道者たちにもよろしくと付け加えている。そして、二人の志願者についてその人たちの名をあげて様子を聞き、また、シャミナード神父に手紙を書いてくれるように依頼してほしいとも述べている。「神父さまからの手紙は、わたしにとって、大きな喜び」だったのだ(89)。

二週間して、またもう一通の手紙(90)をゴンザグに宛てて出した。この手紙で、自分がまだ脆弱であることを知らせている。胃は食物を受けつけず、ひどく大きな苦痛になっていた。それで、手紙を書くこともできず、これで終わると述べている。

このような状態にありながらも、アデルは避難所にいるブラザーたちの健康について心配していた。この手紙によれば、避難所は町を通り抜けた向こう側にあるのだが、修道女たちは修道院から食事を運び込んでいる。昼食には、何にてもあれシスターが食べるものを運んでいるが、夕食には、はたして十分なものを差し上げているのだろうか ー ある時は全く食事がなく、煮たプルーンしかないことがある。卵が一つか二つあればどうだろうか?サラダはどうだろうか?とアデルは心配している。そしてゴンザグに、なにを持って行ったらよいかをシャミナード神父と相談してほしい、ブラザーたちはまったく何も不平を云わないのだから、と述べ、「働いている人は食べなければなりません」と言葉をくくっている。

5月にアンカルナシオンは手紙を受け取った。そして、この手紙でアンカルナシオンは、母親が病気であることを知った(91)。コンドムは経済的な援助を依頼してきたが、アジャンも大変苦しい状態にあった。トナンでの訴訟は負け、クレアフォンテンの事件を片付けるために費用がかさんだ。アジャンでは2、000フランの借金をしなければならなかった。

「あァ、神さま。聖なる清貧よ、万歳!どうかお恵みをお与え下さい。そうすれば、わたしたちは、それで十分です」とアデルは叫んでいる。

ゴンザグに宛てた長文の手紙では(92)、いろいろな人事の問題を修練院長に知らせている。数人の優秀な志願者が到着することになっていること。このひとたちとボルドーにいるノビスたちには、真の清貧の精神を教えてほしいこと。あまりにも「わたしのものとか、あなたのもの」という問題が飛び交い過ぎている。しかし、ノビスたちの個人のリネン類だけは共同体のものと区別しておくように。また、他のノビスのものとも混同しないように。それは、もし会を去らなければならなくなった人には、持たせて帰さなければならないからだ、と述べている。

アデルは、また、この手紙で、最近アジャンの町を襲った大災害のニュースを知らせている。ガロンヌ川が50年来の大洪水を起こしたのである。アウグスチノ会の建物では、聖堂、一階の歌隊席、倉庫と貯蔵庫、教室と庭のすべてが泥水で覆われてしまった。ご聖体は二階に移された。水はかなりのスピードで浸水し、多くの人たちが膨大な被害を被った。

アデルはそれとなく自分の健康について触れ、「相変わらず、わたしの身体の調子はよくありません。食べることができないので、もとのように体力を回復することができないのです。いつも胃の不調に苦しんでいます」(93)と書き添えている。

数日後、「わたしは相変わらずです」(94)と述べ、スール・トゥリニテの死を知らせ、規則に決められた通りの祈りを共同体が捧げるように述べている。定められた祈りというのは、死者のための聖務日課、総聖体拝領、それに詩編130を唱えることであった。「死者、とりわけ、み主がわたしどもに姉妹として与えて下さった方々の死にたいしては、忠実に祈りを捧げましょう」、とゴンザグに伝えている。

スール・トゥリニテというのは、マリ・プレブスト(MARIE PREBOUSTEAU)のことで、1823年、トナンで入会した姉妹である(95)。明らかにかの女は裕福な家庭の出であったようだ。かの女の衣装道具は素晴らしいものであったとアデルは述べている(96)。

トゥリニテの健康は良くなかった(97)。それで、アデルは、あまり多くをかの女に要求してはならない、とドシテに伝えていた(98)。トゥリニテに関して述べているサクレ・ケール宛の手紙のなかで、アデルは、病気が修道生活の規律の破壊につながり得るものであることを指摘し、また、修道会の事業を無能なものにする可能性のあることを思い起こさせている。そしてアデルは、聖フランシスコの仕事をぶち壊すために病気の志願者を修道会に送り込もうとたくらんだ悪魔の集会のおとぎ話を引用している(99)。

アデルはトゥリニテを受け入れる前にド・ラクサード氏に相談し、かの女の健康状態が良好であるかどうか、ノビシアに受け入れることは賢明か、などと氏の意見をただしたのだった(100)。

ド・ラクサードは、この点にかんして、あまり楽観的な答えを出さなかった(101)。しかし、それにもかかわらず、トゥリニテは1824年の初旬、アジャンでポストラントとして受け入れられたのである。かの女の健康はその後もすぐれず(102)、共同体の重荷になってきた(103)。アデルは、これ以上かの女を修道会にとどめておくことはできないと考えた(104)。しかし、トゥリニテがシャミナード神父に手紙を書くようになって(105)、かの女はノビシアのためにボルドーへ行くことを許されたのである(1824年11月のことであった)(106N198)。

病気はトゥリニテに重くのしかかり、かの女の若い身体は(23才であった)よじれて変形した。アデルは、たくさんの聖人たちが他人の目に魅力的に映らないようにと、あえて自分の身体を変形させたことを話してかの女を慰め、また、かの女の霊的な落度にかんしては、もっとはっきり見えたとしても驚くことはない、光が強ければ強いほど沢山のほこりが見えるものなのだから、と励ましている(107)。

1826年9月にかの女は有期誓願を宣立し、その後トナンの修道院に派遣された。かの女が死んだのは、このトナンの修道院であった。享年25才。1827年5月25日。それは修道会が創立されてちょうど11年目で、10人めの死者であった。トナンで死んだ人を数えるならば、かの女は3人目の死であった。

6月、アデルは身体の調子が少し良くなっていると報告し、「おだやかな食餌療法が良い結果を生みました。いまではミルクに浸したパンを食べることができます。病気になってからというもの、パンはどうしてもわたしの体に合いませんでした。また、パンとお付き合いできるようになって喜んでいます」(108)と述べている。

また、ゴンザグにたいしては冗談混じりに、「食事の度ごとにミルクをいただいております。三食をあわせて、全部で、約15分しかかかりません。こうして、少なくとも、わたしは、時間をかせいでいます」(109)と記している。

この頃、アンカルナシオンも少し身体の調子を崩していた。アデルはかの女を気にかけ、また、他のシスターたちのことも心配していた。そして、アンカルナシオンにたいしては、他の修道女たちにあまり仕事を押し付けないように、また、祈りと心霊修業のために十分な時間を与えるように、と忠告している。アルボアのシスターたちは働き過ぎて、ある人は病気になった、と付け加えている(110)。

7月、シャミナード神父は定例の修道院訪問に出かけた。アジャンに来たとき、政府による修道会の承認を得るために必要な書類をアデルとともに整えた。このような申請を出すには、今がちょうどいい時期だと思われたからである。

17日、アデルは評議会を招集した。評議会は、この申請書の提出に全員一致で賛成した(111)。次の段階は、他の四つの修道院に諮問し、誓願宣立者全員の意見を聴取することであった(112N199)。

すべての準備が整うと、アジャンの修道院を本部とするための認可を申請することになった。しかし、後日、1825年の法令に基づいて、現存するすべての修道院が認可の申請を出さねばならないことになる(そして、それ以降、修道院が新設されれば、その新しい修道院があらためて認可を申請しなければならないことになった)。

このときの評議会の議事録をみると、総長の監督下において会則の新しい

抄本を作り、認可を得るためにアジャンの司教に提出することになった。この議事録にはすべての誓願宣立者14名、ならびにアデルが署名した(アデルは文字が書けないスール・カタリンのために署名している)。

この同じ日、シャミナード神父はモアサック(MOISSAC)のブラザーたちを訪問するべく出発した(113)。そして、7月17日に帰り、再びその翌日、モンフォール、オーク、コンドムに向かって旅立った。コンドムには7月24日に到着した(114)。アデルはシャミナード神父について次のように述べている。

「神父様はますます聖なる方になられました(115)。神の栄光のために熱誠で燃えておられます。師の真の子どもになろうではありませんか。もう一人のエリシャのように、師の精神を二倍に高めて下さるように嘆願しましょう」(116)。

シャミナード神父はさらに新しい修道院を開設することができそうな場所を調査していた。「すべてにおいて、また、すべてのために神の聖なるご意思がおこなわれますように。こころを安らかに保ち、み主が役たたずの召使たちにお望みになるであろういけにえを、いつでもお捧げすることができるように準備していようではありませんか」(117)、とアデルは付け加えている。

アデルは、シャミナード神父がアジャンに滞在しているあいだ、最期となるであろう会話を神父と交わしている。医者のひとりは、治癒のため、あるいは少なくともかの女の症状を軽減するため、最後の手段として温泉に行くことを勧めた。シャミナード神父は、蟄居を守る修道女は修道院内で利用できる治療法以外のものを求めるべきではないと考えた。しかし、師はこの点にかんしてアデルと直接話し合う勇気がなく、アデル自身の決定に委せている。アデルはこの点にかんしてシャミナード神父と同じ意見をもっており、この勧めを断わることになった(118)。

シャミナード神父はボルドーに帰るとき、二人の修練女を連れて帰った。アデルはゴンザグに、あと二人の志願者がすぐ後に従うだろうと述べ、それから何ヵ月かすれば、さらに二人の志願者がノビシアに送られることになると報告している。かの女たちがノビシアに居るあいだに良く教え込んでほしい。もし皆さんが真面目に教授の誓願を受け取っているならば、とくに宗教について教えてほしい。かの女らに与えらる教育は堅実なものでなければならず、ただ霊感による着想や訓戒的な教えだけでは足りない。現在アジャンにいる一人のポストラントは非常に徳が高いが、信仰については何も知らない。かの女もやがて勉学を完了するためにボルドーに送られることになる(119)、とも述べている。

8月にアジャンでおこなわれた年次の黙想では、ムーラン神父が説教した。しかし、その前に解決しておかなければならないいくつかの問題があった。

長年のあいだ、アジャンの第三会のメンバーは修道女たちと一緒に年次の黙想をしていた。しかしながら、これたいしてムーラン神父と「すべての姉妹」(120)が反対していたのである。第三会員を担当していたアデルは、第三会員を擁護し、共同体は第三会員にたいして黙想に来てもよいという約束を守るべきだという立場をとっていた。

しかし、この年、アデルは、この自分の意見に疑問を抱いた。評議会は、黙想の終結日に、スール・イザベルが誓願を更新する許可を与えないとの決定を下したのである(121)。アデルは、もしかの女が誓願を更新しなければ第三会員につまずきを与えることになると考えた。いまではアジャンに帰っているセント・フォア(122)や、サンバンサンが主張するように、第三会員の黙想会への参加を全面的に禁止すべきなのであろうか。それとも、最終日を除いて他の日の黙想には参加させることにするのか。修道女たちは(二階が非常に暑かったので)階下で黙想をしていたが、誓願更新は二階の歌隊席でおこなうことにするべきか(123)。アデルはいろいろと考えた。

この問題にどのような結論がだされたのかは別として、この黙想会は成功のうちに終わった。シスターたちは「平安と満足のうちに」(124)こころを一新して黙想会からかえって来た。アデルにとって、これは最後の黙想であり、かの女はそのことをよくわきまえていた。かの女の手記(125)を見ると、病気で弱っていたにもかかわらず、真面目にこの黙想に取り組んでいたことがよくわかる。かの女の手記は、決意の表明文で始められている。

   この黙想で得ようと考えていることは、自己の完徳に励み、イエス・キリストにおける姉妹たちの世話をおこない、修道会とその事業のために働くため、残された時間を、すべて神のより大いなる栄光のためにお捧げすることができるよう、完全に自己を忘れ去ることだ。第二に、この黙想で得ようとしていることは、永遠の世界に入る準備をすることである。外部から見る限り、これは身近に迫っている。

アデルはこの手記で、黙想のそれぞれの講話と訓話の主題について簡単な要約をおこなった後、自分の考えと決心を付け加えている。個人の生活と長上としての生活を反省するときのアデルは、その落度にたいして、非常に厳しい態度をとっている。

この黙想会は、黙想を立派に行うための条件についての講話で始まった。アデルは、特に、内的・外的の沈黙について糾明している。黙想を成功させるためには、この二つの沈黙を守る必要がある。自分自身に必要なことがらについて取り越し苦労をすることは、これらの沈黙を破ることになる。また、他の修道女の健康にたいする過度な心配も、この沈黙を破ることだ。他の修道女たちを心配して心に抱く動揺は、真の愛徳ではない、と反省している。

初日は「会則にたいする忠誠」について黙想した。沈黙の規則の実践において自分はあまり正確でない、とアデルは反省している。これは、一つには、他人から憐れんでもらいたい、大切にしてもらいたいという気持ちから、自分の病気について語ろうとする欲望を満足させているのであり、また、特に食堂で自分に話しかけてくる姉妹の望みを満足させようとすることに起因している。一般的な潜心の精神に貢献し、食事のあいだの読書に注意深く耳を傾けることができるように、よりよく沈黙を守ることによって姉妹たちに奉仕することを決心とする。食事にかんしては、なににてもあれ、与えらたものに満足し、必要なときには、自分が必要としていることを素直に謙遜のこころをもって告げ知らせる、と記している。

二日目の主題は清貧であった。アデルは、清貧の誓願にたして、真の愛を抱いていると考えていた。しかし、自分の義務にたいして十分な注意を払うことを怠っていることがある。それは、一つには怠惰からであり、また、他の姉妹たちを喜ばせようとする望みに起因するものである。共同体全体が、もっと完全に清貧を守ることができるように努力することを決心する、としている。

三日目は、従順であった。たとえどれほど素晴らしい成果をあげようと、もし従順がなければ、その善行には神の祝福がないことをアデルは十分に心得ていた。自分にとって、従順とは、毎日の生活の中で起きる相反する事柄において自己の意思を否定することであり、素朴さと信仰のこころをもって自分の健康に対処することである、と記している。

四日目の朝の講話は教育の誓願についてであった。ここでアデルがとった決心をみると、それが病人の手によるものであるとは考えられないものであった。授業の教え方を検討するために、また、教授法を改善するために、黙想が終わればただちに評議会を開く。毎週、二つ目の講話を貧しい人たちのためにおこない、この大切な使徒事業をよりよいものにするように努力する。アジャン以外のソダリティのグループとの文通にたいして、より忠実であること、としている。

午後の訓話は時間の無駄についておこなわれ、五日目は労働についてであった。これにより、アデルは自分の仕事における動機付けについて反省している。

アデルが仕事をするときは、大切な義務よりも、自分がしたいと思う仕事を優先することがある。自分自身にあたえられた責任と義務の遂行にたいして、より完全に自己を与えるように、とアデルは決心した。

黙想の六日目の反省と決心は蟄居の誓願、とくに、その精神についてであった。内的な「囲壁」というものがあって、それはこの世的な心配ごとや処世術から人を守るものであるが、この他に、より外的で、物的な囲壁による離脱がある。共同体が蟄居の誓願に忠実であるように、そして、控え目と慎みの規則に忠実であり得るように計画をねることを決心している。

このノートの最後にアデルが記した決心は次のようなものであった。

「謙遜を修得すること。毎週、その一つの観点を取り上げて、いままでのように単なる自然的な動機からではなく、信仰の精神をもってそれに努力すること」。

8月15日に黙想は終わった。マリアの被昇天の祝日であった。これはアデルの第二の洗礼名マリが示すように、かの女の保護の祝日であった。共同体では、この二重の祝いを祝った(126)。ソダリストはこの機会に、修道院の図書館にたくさんの書籍を寄贈してくれた(アデルはこの図書を、ボルドーの修練院とも分かち合っている)。

また、この日には、21才になるアジャン出身のアンヌ・シャルメル(ANNE CHARMEL)が入会した。アデルの祝日でもあったので、かの女には自分の名前に「少し付け加えて」、スール・セント・マリと命名した(128)。

シャルメルは明るい正確の持ち主であったが、少し軽率なところがあった。しかも、霊的な事柄にかんしては、ほとんど何も学んでいなかった。しかしかの女は善意の持ち主で、自分を改善する意欲に燃えており、新しい生活のスタイルに合わせようとしていた(129)。

スール・セント・マリならびに、メール(歌隊修道女MERES)になろうとしているポストラントとアッシスタント(ASSISTANTES)になろうとしているポストラントたちは、ボルドーに送られるまではアデルの直接の監督下におかれた(130)。スール・コンパニュ(SOEURS COMPAGNES)になろうとしているポストラントは、サンバンサンの監督下におかれた。当時、サン・ソボールがアルボアに赴任していたからである(131)。

アデルは、スール・コンパニュの志願者がメールの志願者よりも急速に増加していることに心配し、どこの修道会でもメールに比較してスール・コンパニュが少数であるのが普通なのだが、とゴンザグに伝えている。もし、志願者が素質をもっているのなら、コンパニュではなく、メールになるように勧めてはどうかと提案している(132)。

シャミナード神父がいろいろの仕事をやりくりしている間に、メールを希望していた一人の志願者の問題がうやむやになってしまった。29才になるメザン(MEZIN)出身のフランソアーズ・カンプナン(FRANCOISE CAMPUNANT)である。メザンはネラックの南約16キロのところにある小さな町である。

7月、シャミナード神父がコンドムにいるとき、かの女は神父に会いにコンドムに来た(133)。そののち、ポストラントになるための準備として、トナンで黙想をおこなった。シャミナード神父はかの女に二週間のうちに手紙を書くように伝え、すぐにボルドーでノビシアを始めることができるようになるだろうと伝えてあった。

ところが一月たっても、かの女はいまだトナンで黙想をしており、アデルの言葉をかりて云うならば、「牢獄に閉じ込められた」状態だった。せめてカイエ神父がかの女を黙想の家から共同体へ移る許可を与えることができないものでしょうか、とアデルは問いかけている(134)。

9月、いまではスール・サン・ルイ(SOEUR SAINT-LOUIS)となったフランソアーズは、やっとトナンでサクレ・ケールの指導のもとに志願期を開始することができた(136N201)。

共同体の黙想を始める前から黙想のあいだ中、アデルのこころに重くのしかかっていたのはローモン神父の病状であった。すでにこの前の8月から、ローモン神父の健康状態は思わしくなく、回復の見込みはまったくなかった。アデルの表現をかりるならば、ローモン神父は「天国のために熟していた」のである。しかし、師は姉妹たちの祈りを必要としていた。身体の病気 ー 肺の炎症と肝臓の機能低下で瀕死の状態であった(137) ー の他に、小心症でいたく苦しんでいたのだ(138)。師はときどき一時的な精神錯乱状態に陥ることがあり、そのあいだに、司祭職を行使している錯覚に陥ることがあった。

アデルは、大きなものが失われていくのを目の辺りにして、深くこころを傷めていた。ラリボー神父は、自分自身、一度も健康であったことはなかったが、死に行く友を見舞うために、ロンピアンからやってきた(139)。

9月4日、ローモン神父が二日前から苦しみはじめ、そのひどい苦しみの中でも姉妹たちに大きな模範となってくれている、とアデルはゴンザグに伝えている(140)。翌日、サクレ・ケールに出したアデルの報告をみると、その日の朝9時30分にローモン神父は息を引き取った。師は非常に苦しんだ。しかし、いつも「聖人のようだった」。

スール・カタリン、スール・ジェヌビエーブ、そして、マダム・ヤナッシュが交代で、夜通し、看病に当たってきた。それは、師が、「自分の家族である」シスターにいつも付き添っていてもらいたいと云っていたからである。臨終の床にはムーラン神父がいた。師はローモン神父が共同体に最後の祝福を与えるとき、その腕を支えてやった。

「わたしたちは神父さまのお陰で、たくさんのお恵みを被りました。わたしたちは恩人を喪い、真の友人を喪ったのです」とアデルは述懐している(141)。享年69才であった。

ローモン神父の訃報はアデルからゴンザグに伝えられ、ゴンザグからシャミナード神父に伝えられた。師はこのときフランス北東部の共同体へ、第二回目の訪問をしている最中だった。この旅行でシャミナード神父は、アルボアの共同体での年次の黙想会で説教をしている(142N202)。

アジャンの修道院が聴罪司祭でありチャップレンであるローモン神父を喪った今、司教が「神のみこころにそった」人を、後任者として派遣してくれるように祈りましょう、とアデルは述べている(143N203)。

ローモン神父が遺した書類の中に、たくさんの霊的な記述が残されていた。アデルはその中のいくつかをサルレ・ケールに送っている。師は、自分の衣服と本を神学校に遺して行った。そして、所持していたお金は自分の家族と慈善事業に、司祭服と聖具は修道院に遺して行った。「神父さまには、どれほどお礼を申し上げなければならないことでしょうか。わたしたちのためにこれほどまでにして下さり、また、しようと思って下さったのですから」とアデルはサクレ・ケールに述べている(144)。アデルもサクレ・ケールも、ローモン神父とは長年の付き合いであったのだ。

ローモン神父の病気と死で、ムーラン神父の仕事は三倍に膨れ上がった(145)。それでもムーラン神父はトナンの黙想を指導しようと考えていた。「神父さまは、ほんとうにこの修道会の精神をもっておられます」とアデルは記している。

コンドムの年次黙想では、ふたたびコリノ神父が説教をしてくれた(146)。二年前にコリノ神父がコンドムの黙想を指導したときは、大きな成果を上げることができた(147)。その黙想が素晴らしかったために、被造物よりも創造主のメッセージにこころを高めなさい、とアデルが修道女に忠告しなければならないほどであった。修道女たちが人間よりも、その人が伝える神聖なみ言葉についてもっと語りたがるようになることを望む、とアデルは修道女たちに諭したのだった。

「指導神父のことはお忘れなさい。でも、指導神父が仰ったことを忘れてはなりません。神父さまを神の道具として尊敬し、それ以上のものを神父のなかに見てはなりません」とアデルは述べている(148)。

アデル自身、もっと神を中心に注意力を払おうと努力していた。9月の中旬、医者から絶対安静を命じられた。起床は午前11時とされ、その後はアームチェアーで過ごすことになった。動き回ってはいけないと医者から言われた。アデルはほとんど食物を撮ることができなかったので、残された僅かばかりのエネルギーを使い切ってしまわないようにする必要があったのだ。

しばらくのあいだ、アデルの体調は良くなったように見受けられた。しかし、自分がしたいと思っていることをすべて捧げねばならないということは、なんという犠牲であろうか(149)!数日後、かの女はゴンザグに次のように打ち明けている。

「からだの調子はあまり良くありません。からだを引きずっていくだけの力もありません。でも、わたしの魂は身体以上に苦しんでいます。わたしのこの役立たずの中から霊的な善を引き出すことができますようにお祈り下さい」(150)。

9月も終わりに近づいた頃、アデルはもう一通の手紙をゴンザグに書き、「わたしの健康状態は、以前とほぼ同じです。何事にたいしても、集中することがひどく難しく感じられるようになりました」と述べ(151)、サクレ・ケールには次のように記している。

   身体の調子は一向に良くなりません。からだを引きずっていくだけの力えもありません。いつも具合いが悪く、ほとんど食べることができません ー だから、それで、また、苦しむのです。祈りが味気なくなりました。何事をするにも、ただ気力あるのみです。ああ、わたしは真剣に準備する暇もなく、永遠の旅路につこうとしているのです。(死の)準備は、病気になるまで延ばしておくべきではないのです。わたしに今残されていることは、仕事にたいする興味だけです。仕事ができることは、わたしにとって大きな喜びです。ああ、わたしの頭にはつまらないことしか残っていません。祈りの時間にさえも、わたしの体にあった食べ物は何なのだろう、などと考えます。安楽をさがしもとめ、何事においても自己を克服することなく、すべてにおいて自己中心的になってしまいました。みなさん、どうか、もっと、わたしのためにお祈り下さい(152)。

自己中心の役立たずだと自分に言い切っていたアデルではあるが、それでも実際は、各修道院での修道会の問題について配慮していた。

9月下旬、アジャンの共同体では、すでにパラビスの婦人、ローモン神父、クレアフォンテンの他に、シャミナード神父から依頼された人を匿っていたが、その上に更にもう一人を受け入れようとしていた。アデルはゴンザグに次のように伝えている。

その人、マダム・モアラ(MADAME MOIRA)はアジャンの出身で、30才になる。神を求める素晴らしいキリスト者であった。しかし、かの女は強度の身体障害を持っていたため、どの修道会にもはいることができなかった。7月、かの女はシャミナード神父に自分の将来について語り、師はかの女を共同体に受け入れることを同意したのである。

かの女は普通誓願を宣立し、修道服は着衣しないことになった。修道会の伝統にもとづく「オブレート(修道会に一生を捧げた人)」となったのである(153)。

アデルはまた、ブラザーの共同体が(ボルドーか、アジャンか、どこかその他の共同体が)プロテスタントの両親を持つ二人の男の子を受け入れてくれないだろうか、と問い合わせている。この子供たちはカトリックになりたがっていた。この子供たちについては、シャミナード神父がアジャンに来たとき、「避難所」の共同体の院長をしていたブラザー・メメン(BROTHER MEMAIN)を通じて話しておいたのだった(154)。

ブラザ−・メメンが、ブラザーたちの大切な用事でボルドーに使いに出した小さなポストランについても、アデルは心配している。この子が出てからすでに一週間たっているが、何処にいるのか、なんの音沙汰もなく、母親が狂乱していたのである(155)。

たしかにアデルはいろいろと他人のことを気にかけていた。しかし、自分の健康状態を忘れてしまうことはできなかった。かの女は、いまでは自分の健康がこれ以上快方に向かうものでないことを知っていただけではなく、むしろ、悪くなっていることを悟っていたのであった。栄養をとることができないかの女には、それ以外の道は残されていなかったと言えよう(156)。

「わたしの身体は良くなっていません。わたしは、よろよろとして生きています・・・身体よりも無気力になっているわたしの魂のためにお祈り下さい。何事にかんしても、わたしはひどく無関心になりました。それなのに、死後の世界は近づきつつあるのです」(157)。