アデルの健康の浮き沈み/男子マリア会の公的承認
デュブラナの叙階 / ジャクピ司教辞任を試みる
アデル「創立の歴史」を記し 手紙を焼却する
1824年から25年にかけての冬、アデルの健康はあまり芳しくなかった。共同体が四旬節の準備を始める頃になっても、いっこうに回復に向かう様子はなかった(1)。
シャミナード神父は、この聖なる季節を前にして、男女修道会の各共同体に回章を送り、守るべき四旬節の戒律について説明をおこなった。教会の掟というものは修道会の共同体でこそ最も忠実に守られるべきものであると考えていたシャミナード神父は、各修道者にたいして、四旬節の戒律を忠実に守るように注意を促した。しかしながら、本会の精神としては、もし長上が健康上の問題で疑いをもった場合、健康を優先させることがすすめられている、とも付け加えている(2)。
四旬節中、アデルが大斉を守ることはかたく禁止された。アデルはこれを真の苦行として受けとめた。アデルはゴンザグに手紙を書き、自分たちのどちらが先に自我を脱却できるようになるか、と挑発している。アデルがこのようにゴンザグに挑戦したのは、アデル自身が自我を脱却する必要性を痛切に感じていたからである(3)。
3月、サクレ・ケールが病床に臥した。これはサクレ・ケールにとって、初めてのことであった。この時、アデルは、サクレ・ケールとその共同体に見舞いの手紙をだしているが(4)、その時のアデル自身は、見るも哀れな状態に陥っていたのだった。しかし、アデルはつとめて前向きの姿勢をとり、いままで「内的な苦痛しか」経験したことのなかったサクレ・ケールに、次のような励ましの言葉を送っている。
いまは四旬節の季節です。神さまはあなたが外的な苦しみにも耐えることができるようになることを望んでおられます。「それは、信仰の目からみれば大きなお恵みです・・・しかし、この苦しみが死に至るものでなく、神の栄光のためのものであることを望みます」。
また、アガタが完全に自己に死に、キリストとともに復活することができるようになることを希望したアデルは、次のように付け加えている。
「わたしの親愛なる姉妹。わたしにとってお説教をすることは、いとも容易いことです。でも、血の通ったわたしの心は、あなたがご病気であることを知って悲しみに沈んでいます。しかし、わたくしは神がお与えになったこの十字架をお受けします。この十字架は、わたしの心に残されたすべてのものを捧げ尽くすことを要求しているかに思えます。それは、この十字架によって、わたしが死ぬ前に、<わたしの愛するすべての先輩の姉妹たち>がわたしのもとから取り去られ、<新しく入会してきた姉妹たちのみ>に取りまかれることを意味しているかのように思われるからです。神さまは、わたしが心のすべてを余すことなくお捧げすることお望みになっておられます。神さまがわたしを打たれるのは、その慈悲によるものです。仰せのごとくなりますように」(5)。
しかし、サクレ・ケールの病気は、さほど重いものではなかった。一週間後、少しの後遺症を残しただけで、床を上げることができた(6)。
4月の下旬、アデルも元気を取り戻し、共同体の食事の準備をするサンバンサンの手伝いをすることができるようになった(7)。
アデルはゴンザグに次のように書き送っている。
「わたしは元気になりました。アレルヤ(復活祭)は、わたしに健康を取り戻してくれました・・・。いまやわたしは愛する修道会と神の栄光のためにのみ、体力のすべてを使いはたすことを望んでいます」(8)。
事実、この頃、アデルは「カテキズム」の著作に取り掛かっていた。この本で、アデルは修道誓願全般について述べるとともに、本会の五つの誓願と、沈黙、ならびに修道会の精神についても記述した。
アデルは、また、修道会の設立の「歴史」を執筆し始めた ー 「しかし、それは自己流のもの」でしかなかった(9N65)。
アデルはこのカテキズムを共同体の養成プログラムで使用する前に、シャミナード神父とカイエ神父に検討を依頼し、その承認を得るためにボルドーに送った(10)。
ところで、この数週間のあいだは、数多くの姉妹たちが病気をしていたにもかかわらず、共同体の事業はますます盛んになっていった。アデルはこのソダリティの世話をマリアのみ手に委ねていた。それは、担当者の姉妹たちが病気であるばかりでなく、アデル自身も、しばしば病気にかかっていたからである。
ベロックさえも一ヶ月余り病床についた(11)。「人間的な目でみれば」ソダリティは「見捨てられたかのように」さえ思われた。「しかし、わたしは希望を神とマリアに置きます。(ソダリティは)神とマリアの栄光のためにこそ存在するものであり、もし、お望みになるならば、神さまもマリアさまも人間の力をかりることなく(ソダリティ)を維持することがおできになるからです」と述べている(12)。
事実、数週間の後、アデルは、「ソダリティはうまくいっています。マリアさまが働いておられるのです」(13)と報告することができたのだった。ソダリティは毎週、日曜日に、四回のミーティングを開いていた(14)。また、学校の授業も順調に進み、生徒で満員になった(15)。
5月の初旬、あいかわらずアデルの健康は小康状態を保っていた。もっとも、「用心のために」いまでもロバのミルクを飲み続けていた(16)。5月になると、アデルは、とりわけ修練院において、マリアをたたえる何か特別な戒律を守ることを希望した。そして、ゴンザグには、ノビスたちがマリアへの信心を習得することができるように養成してほしいと要請し、次のように述べている。
「マリアはわたしたちの母親です。わたしたちが<この修道会の目的>を達成することができるように、希望をマリアのみ手に委ねましょう。わたしたちは母親マリアのものです。子供のこころをもってマリアに接しなければなりません。どの母親よりもやさしいマリアに支えられて、全幅の信頼をもってマリアに助けをもとめましょう。マリアにたいする信心は、予め選ばれたものの印です・・・わたしたちの浄配がそれほどまでに愛しておられるおん母、そして、恩寵の分配をお任せになっておられるおん母マリアを愛することなくして、どうしてわたしたちが天国の浄配をお喜ばせ申し上げることができるでしょうか」(17)。
ちょうどこの頃、アデルは、アジャンでも、ボルドーでも、他の修道会の人たちがマリアの娘のことをあまり良く云ってないことを知り、驚かされた。だれがどのような事を云っているのか、はっきりしなかった。
アジャンには少なくとも三つの修道会、すなわち、愛徳会、聖ヨゼフ会、そして、カルメル会があった。また、ボルドーには数多くの男女の修道会があった。しかし、アデルもシャミナード神父も、論争の中に巻き込まれないように身を守った。二人とも静かに口を閉ざして問題の解決を待った(18)。当時のアデルの心を占めていたのは、このようなことよりも、もっと積極的な意味での修道会の発展であった。
(1825年)の6月頃まで、アデルは、毎週、共同体にたいして「修道会の諸徳」について講話をおこなった。アデルは一度の講話で一つの徳目について話し、その翌週、姉妹たちが普段にまさってその徳目を実践するように指導した(19)。
しかし、シャミナード神父はあまりアデルの態度に満足していなかった。もしアデルがいましばらくの間養生してさえいてくれたならば、もっと丈夫になっていただろうと師は考えていたからである。アデルは、何日かは命令通りにおとなしくしているが、しばらく経つとすぐ丈夫になったと思い込み、そしてまた、そのすぐ後で病気にかかってしまう。これは、「乱用である」とシャミナード神父は考えた。そして、次回アジャンを訪問するときには、この問題に関してなんらかの手を打とうと考えていた。
修道会のすべての人たち、また、修道会となんらかの関係にある人たちは、全員アデルの健康にこころを傷めていた。アデルのために捧げられる祈りに不足があるはずはない。。この祈りを裏切るような行動によって、祈りを無に帰すようなことがあってはならない!「医者の処方がなんであれ、それに従う明確な命令をわたしがアデルに与えるチャンスがくるまでは、どうか、アデルの面倒をみていてください」とシャミナード神父はサンバンサンに嘆願している(20)。
アデルは、その努力の大半を、三つの共同体の院長を助けるために費やした。昨年コンドムに修道院を設立して以来、アンカルナシオンはいつも問題となっていた。アデルはこのようなアンカルナシオンにシャミナード神父から手紙を書いてくれるようにと、当時ボルドーに住んでいたマリ・ジョゼフとゴンザグを通して依頼している。アンカルナシオンは非常に助けを必要としており、「長上たちがかの女を見捨てて」何もかもかの女のなすがままに任せているのではないことを分からせてやる必要があったのだ(21)。
狂乱したように書いてきたアンカルナシオンの手紙にたいして、シャミナード神父は、新しい職務についたばかりのかの女を片時も忘れずにいると述べ、「あなたが重荷を負うのを、わたしはできる限り助けて上げたいと考えています」と答えている(22)。
シャミナード神父はこの手紙を、まず、一般的なガイドラインから書きおこし、次のように述べている。
裁定権を行使するときは自信をもって行いなさい。自分がその環境において最善であると考えたならば、決定を下しなさい。そして、一旦決定を下したならば、それについてくよくよし考えないことです。自分の力のおよぶ限り、姉妹たちのあいだに一致と愛徳と協力を育てなさい。しかし、自分を信頼するように姉妹たちに「命じる」ことはできません。また、事実上それが弱さであったとしても、自分の親切心でもって人の信頼を買い取ることはできません。すべての人を喜ばせることは不可能です。また、すべての人の要望をことごとく聞き入れることもできません。人の上に立つアンカルナシオンは信仰の精神をもって行動し、姉妹たちは単純のこころをもって従うべきです(23)。
また、シャミナード神父はこの手紙の中で、具体的な問題についても、かなり詳細な点にまで立ち入っている。
寄宿舎学校の教室に関するアンカルナシオンの計画には賛成である。うまく行くように必要なお金は使うべきだ、とシャミナード神父は勧める。教室は長年残るものだ。もし、労賃を支払うお金がなければ借金すればよい。あなたは自分自身の仕事をしているのではなく、み主の仕事をしているのだ。なにも恐れる必要はない。施設の一部である洗濯場は賃貸すべきであろう。しかし、貸すときは洗濯場以外の目的で貸すべきだ。学校に近い場所でたくさんの洗濯用の廃液(灰汁)が流れ出すことは、寄宿生の親たちにとって余り気持ちの良いことではない(24)。かの女の云うように、洗濯場をラグテール神父またはその後継者の宿舎に改築することは賛成である(25)。夜、庭園師を呼ぶ必要がある場合を考えて、修道院とベルでつないでおくべきだと思う(26)、などと述べている。
もう一つアンカルナシオンのこころを悩ましていた問題がある。それは、自分がはじめから院長に任命される器でなかったのではないか、という問題である。これに対してシャミナード神父は、どんな修道院長もあなた以上に明白に神の意思に従って選ばれた証を持つ人はいないと述べて勇気付けている。しかし、だからと云って、自分の欠点を克服する努力を放棄してもよいと云うわけではない。自分に欠けた素質を修得するように努め、職責の遂行を妨げるような欠点は矯正されなければならない。この点にかんしては、もし、素朴な態度で霊生部長のセント・フォアに意見を求めれば、助けてもらえるだろう、とも述べている。
また、「すべての姉妹にたいしては、善良でやさしい母親であるように。姉妹たちが立派に霊的生活を送り善徳に励むことができるように、常にこころを配りなさい。そして、姉妹たちの健康についても、いつもこころを配りなさい。会則を遵守させようとするときは、常にやさしさと忍耐と愛をもって厳しさを緩和しなさい」(27)とも述べている。
アデルもアンカルナシオンに手紙を書き、もし自分が気の向くままに手紙を書いていたならば、毎日でもあなたに手紙を書いていただろう、と述べている(28)。そして、アンカルナシオンを院長に任命したのは神のみ旨を守ること以外のなにものでもなかったこと、また、神はご自分が望んでおられる場所に、ご自分が望んでおられる人が居るとき、その人のうえに恩寵をお与えになる、と教え諭している(29)。
確かにアンカルナシオンにとって院長の職責は重いものであった。勇気を出して下さい。「この三年間は、あなたにとって、大きな功徳を積む機会になるでしょう」(30)、とアデルは述べている。またアデルは、苦しい局面に立たされたときに軽率な言動をとることがないように言葉と身振りの沈黙を真剣に修得しなさい、とも勧めている。とりわけ人間というものは、気が転倒していると、わずかなことにも腹をたてるものである。こころに平安を保つように努めなければならない。そして、このようなこころの平安は、静かな祈のうちに見出すことができる(31)と述べている。また、落胆するということは、多くの場合、自分のプライドが傷つけられたときに起こるものだ。「み主の働きは、わたくしたちの中においても、静かに進むものです。ちょうど神さまがわたくしたちにたいして忍耐深くあるように、わたしたちも自分自身にたいして心棒強くありましょう」(32)と教えている。
院長の仕事についたばかりのアンカルナシオンは、ある特定の状況や、共同体における人間関係において、どのように対処すれば良いのか、まったく分からないことがあった。これらの問題に関するアデルのアドバイスは、ポイントをついている。
ある修道女が、その云うことや為すことにおいて、誠実さと公正さに欠けていると批判されていた。昔からこの修道女を知っていたアデルは、今度も同じような批判がかの女に向けられたのを知った。しかし、かの女がそのような批判を受ける裏付けになるような事実はどこにも見つからなかった。そこでアデルは次のように諭している。この修道女の言い分によく耳を傾けてあげなさい。そして、常に公正な態度をとるように勧めなさい。。親切心と忍耐力をもってこの修道女の弱点を受け入れ、かの女が過っていたという明白な証拠が出るまでは、かの女を信じてあげなさい、と述べている。
また、ある修道女は小心に陥る傾向があった。アデルは、この修道女がある種の現実的な過ちを犯していることがあるという事実を指摘し、かの女がこのような現実的な過ちを想像上の誇張した過ちと明確に区別することができるように助けて上げなさい、とアンカルナシオンにアドバイスしている。とりわけ、必要なのは恐れよりも信仰と謙遜であって、信仰と謙遜さえあれば、そのような小心を克服することができる、と述べている。
もう一人の修道女は、過度に想像力を働かす癖をもっていた。この修道女にはサポートと信頼が必要であること、しかし、常に会則を遵守させる必要があることをアデルは教えている。
また、過ちを犯した修道女にたいしては、叱責しなければならないが、つねに親切心と信仰のこころをもって行うべきだ、とも教えている(33)。
共同体のメンバーに対する人間関係に関しては次のようなアドバイスを与えている。
修道女たちに雑用や人のいやがる仕事を免除してはなりません。むしろ、信仰をもってその嫌な気持ちを昇華するように指導すべきです。嫉妬心があるときは、たがいに避けて通ることは問題を解決することにはなりません。謙遜と没我の精神をもって妬みの感情をより高尚な気持ちに引き上げるようにすべきです。もし二人の修道女がいがみ合うならば、その二人を引き離すのではなく、むしろ、たがいに忍び合うようにすべきでしょうと述べている(34)。
厳しさのなかにも慈悲深さをもつように、というのがいつもアデルが口にする忠告であった。会則を正確に実行することに厳しくありなさい。たいして問題にもならない小さな過ちにたいしては慈悲深くありなさい。そうすれば、人を成長させ、こころを開かせることができます、と云うのだった。
もしアンカルナシオンが許可するに忍びないことを修道女が求めてきたときには、期待に沿えない残念さを明確に表明しなさい。「いやいや与える許可よりも、気持ち良く断わられたほうが、時としては、より有り難く受け取られるものです」(35)と述べている。
アデルはまた、アンカルナシオンにたいして、常に蟄居を念頭において生活するようにと勧め、いくつかの実践的な提案と警告を与えている(36)。しかしながら、修道院内では今までどおり厳格な沈黙の規則を続けるとしても、必要かつ有益と考えられるときにはエンマヌエルがソダリティの集会に出かけることを禁止してはならない(37)とも述べている。
コンドムのソダリティは、修道女が来たことで、活力を一新した。コンドム周辺にある数多くの小さな町や村の主任司祭が、ソダリティと提携している種々のグループの成長を許容し、かつ、助長したため、ソダリティの事業と活力は目覚しい発展を遂げたのだった。コンドムの修道院は、アジャンやトナンで行っていると同じように、貧しい子女のために無料の学校を開設し、生活に恵まれない婦人たちに宗教を教え、何箇所かで裁縫の仕事場をもオープンした。ピエタは、巡礼地としての昔の評判をいく分かでも取り戻した。
姉妹たちはピエタの聖堂を復元し、新しい本祭壇を設置した。破壊された聖像のかわりに、彫刻した群像を祭壇の上に安置した。数多くの聖画が聖堂のあちこちに飾り付けられた。無原罪の祝日や、コンパッションの聖マリアの祝日などのように大きな祝日には、大勢の群衆が聖堂に来て礼拝するようになった。そのようなときには、エンマヌエルがその持ち前の音楽的才能をふるって儀式に荘厳さを加えた(38)。
エンマヌエルは、アジャンに居たときと同様、ソダリティで働くだけでなく、女子マリア会の最初の女子寄宿舎学校でも校長として働くことになった。はじめはシャミナード神父もアデルも、寄宿舎学校を開設することに躊躇していた。上流社会の子女を、朝から晩まで修道院の同じ敷地にとどめておくことは共同生活の邪魔になるかもしれないと考えられたし、姉妹たちの仕事量が多くなることも明らかであったからだ。しかし、上流社会の子女や中流社会の子女にたいするキリスト教教育の必要性は、貧しい人たちにたいするそれと少しも変わることはなかった。コンドムの住民や聖職者から度重なる要請を受け、かつ、寄宿舎学校を経営する後継者を探していたアデルの伯母からの要請もあって、修道院が開設されて僅か数カ月後に、寄宿舎学校を始めることになったのである(39)。そして、エンマヌエルの経験と優秀な才能のおかげで、この寄宿舎学校は立派に運営されていった(40)。
しかし、アデルは、ボルドーに送るだけの年齢に達していない志願者たち(プレ・ポストラントやプレ・ノビス)をこの学校に送って教育するのは適切でないと考えた。たとえ重荷になるとしても、かの女たちをアジャンにとどめておいた方がよいと考えた(41)。また、それだけでなく、マドモアゼル・ダルディ(MLLE DARDY)のように年齢的には問題はなくとも、過去の生活が必ずしも芳しくない女性を送るのもあまり良くないと考えた。もしかの女を送るとするならば、まず、よく黙想をさせて行動を改めさせてからでなければ、他の生徒たちに悪い影響を与えると考えたからである(42N166)。何はさて置き、学校を経営する唯一の目的は、生徒を立派なキリスト者に育て上げることに他ならない。アデルは、エンマヌエルやアンカルナシオンが、この目的を決して見失うことはないと確信していた(43)。
病気であり、どちらかと云えば余り活動することのなかったアデルではあったが、かの女の宣教師としての熱誠は少しも衰えることはなかった。10月、トナンの修道女たちが誓願更新のための黙想をおこなったが、この時、ムーラン神父が病気であったため、パガ神父(PAGA)が黙想の説教をした(44)。この時、アデルは修道女たちのために五つの誓願が持つそれぞれの意味について考察を施している。キリスト教信仰とその実践を教える誓願についての説明にあたっては、「イエス・キリストを知らしめる熱意で」燃えるように励まし、「聖主を知らしめるためならば何処にでも行こうではありませんか。どんな仕事でも受けいれましょう。この素晴らしい誓願をまっとうするためであるならば、自分たちの健康を犠牲にし、自分たちの望み、嫌なこと、生命そのものをも犠牲に捧げようではありませんか。真の宣教師でありましょう。人びとの救霊のために祈りと償いを行い、自己を放棄しましょう」(45)と述べている。
また、ノビスたちがボルドーで最初の黙想に入ろうとしていた時、アデルはゴンザグに次のように述べている。
「わたしの親愛なる娘よ、あなたに与えられたこの誉れある役目について思いめぐらして下さい。あなたの役目は神の子羊の浄配を教育することであり、いつの日にか神なる牧者の子羊たちを探しに出かける宣教師たちを養成することです。あなたが世話をしておられるこれらの若い人たちが神のみ元に連れて来るであろう全ての人は、いつか、あなたの冠になるでしょう。勇気を持ちましょう。報いは労苦に勝るものです。サマリアの女を探すイエス・キリストにみならって、自分たちを使いはたそうではありませんか。このように素晴らしい仕事のために労苦を惜しむことがありませんように」(46)。
ノビスと修練長にたいするアデルの心遣いは、その手紙によくあらわれている。アデルが親しみをもって呼びかけるゴンザグ。このゴンザグは、サクレ・ケールが死の床にあるスール・テレーズ・ヤナッシュに交代するためにトナンへ赴任したとき、10カ月のあいだアジャンで修練院長をしていた。アジャンでは、アデルの直接の監督下に置かれていたため、アデルの現存とその経験を十分に利用することができた。しかし、いまゴンザグは(32歳になっている)ボルドーにいて、自分の力でやっていかなければならなかった。助けといえば、自分より経験の少ないマリ・ジョゼフ以外には誰もいなかった。
シャミナード神父はこのような状況にあるゴンザグを助けるために、自分の補佐をしていたカイエ神父をノビスの霊的指導者にした。しかし、そのカイエ神父は、男子マリア会の法的承認を得るために1825年の大半をパリで過ごしたのであった(47)。だから当然のことながら、ゴンザグは、必要のある度にアデルのアドバイスと意見に頼ることになったとしても、仕方のないことであろう。もっとも、アデルはこのことを「川へ水を運ぶ」ようなものだ、と述べている(48)。
ゴンザグはアデルの「最初の子供」の一人であった(49)。だから、かの女に手紙を書くことは、アデルにとって喜びであった。アジャンの修道女たちのニュースを知らせ、とりわけ、いずれボルドーへ行くことになるポストラントについてのニュースを知らせた。そのほかに、ソダリティのニュースも知らせた。このソダリティのニュースは、とくに前向きのものが多かった。アンカルナシオンも居なくなり、エンマヌエルも居なくなった。その上、アデル自身の関与も著しく少なくなっていたにもかかわらず、ソダリティは盛況を極めた。ナティビテのような若いシスターが、エンマヌエルにさえ反応を示さなかった少女たちを引き付けることに成功していたのである(50)。
このような手紙の中で、アデルは注意深くボルドーの人たちの様子を聞いている。単に修道女のことに気を遣っていただけではない。グラメニャック家の人たちやマリ・デュブール、その他、アデルがボルドーで会ったことのある人たちについても気を配っていたのであった(51)。
しかし、このような手紙を書くアデルのこころにあった一番大きな気がかりは、なんと云ってもゴンザグその人であった。ゴンザグは、修道会の新しいメンバーを養成するという困難な仕事を任されているときに、長期にわたって霊的な乾燥と試練に見舞われていたのである。
「勇気を持ちなさい!」とアデルは叫んでいる。「わたしの娘よ。み主は、いろいろな道を通じて導いておられるのです。あなたの道は厳しく赤裸々な信仰の道です。だから、み主はあなたに被造物のなかに慰めを見いだすことをお許しにならないのです。慰めはみ主の内にのみ求めることを望んでおられます。わたしの子よ。み主の慰めは人間の慰めよりもはるかに優れています。でも、弱い人間の本性にとって困難なこの道を受け入れるためには、真の意味で寛大でなければなりません。なぜなら、わたしたちは聖なるものごとにおいても自分の満足を捜し求めようとするものだからです。哀れなわたしたちの心は、いつも何かにすがりつこうとしています」(52)。
また、ある時、アデルは次のようにも云っている。
「あなたがたずさわっているのは、高い聖徳の仕事であり、こころの執着から離れ、自己を蔑視することです・・・。わたしたちは他の人たちのために忙しく働かなければならないからという、ただ、そのための理由から、自分自身のことを忘却することは決して許されません。聖人になろうではありませんか。そうすれば多くを成し遂げることができます」(53)。「神は、神ご自身のみがあなたの慰めであることを望んでおられます。神はあなたを<厳しく赤裸々な信仰>の道をもって導こうとしておられます。み主は、すべてを来世のために取っておこうとしておられるのです。前払いなしで・・・。涙のうちに種を撒こうではありませんか。そうすれば、喜びのうちに刈り取ることができます」(54)。
ゴンザグが経験したこの内的試練は、単にかの女を浄化しただけでなはく、ノビスたちが経験する試練にたいする理解とおもいやりをも育て上げてくれた(55)。アデルとしてゴンザグに言い得たことといえば、次のようなことであった。
「あなたは死の道を歩んできました。人間の本性には苦しい道ですが、信仰の目には貴重な道でありました・・・。信仰のみで生きなさい。自分自身を祈りで強め、聖体拝領で強めなさい。内的生活、信仰の生活、神のうちに隠された生活、それがわたしの親愛なるゴンザグが通らなければならない道なのです」(56)。
修練院長の仕事をしていたゴンザグは、召命を見極めるという、苦痛に満ちた決定を下さねばならない場面にしばしば遭遇した。このようなゴンザグにたいして、アデルは次のようにかの女を勇気づけている。
「荘園主である神さまから世話をするように任せられた大切な樹木を育て上げようではありませんか。しかし、その中のいくつかの木を抜かなければならないことがあったとしても、また、萎れて枯れてしまった木があったとしても、驚いてはなりません。それが庭園師の運命なのですから! 満腹の信頼を神さまに置きましょう。植えたり水をやるのはわたしたちです。しかし、成長させるのは神さまだけのおできになることです。わたしたちは祈りを通じて神さまのうちに力を得ます。わたしたちの親愛なる子供たちを助けて下さるように、しばしば神さまにお願いしましょう。子供たちは、わたしたちの言葉よりも、神さまの恩寵によって活かされているのです。わたしたちの言葉は、もし神さまが理解させて下さらなければ、空しい響きをもつばかりです」(57)。
新年の挨拶の手紙を見ると、ゴンザグがシャミナード神父の近くに居ることをアデルが羨ましく思っていたのがよく分かる。ゴンザグはシャミナード神父の膝元にいてその教えやアドバイスを十分に活用することができたのにたいして、アデルはいつも人に与えるばかりで、自分のためには何も取って置くことのできない立場にあった(58)。
アデルはまた、「静かな港」に停泊しているゴンザグを羨ましく思い、波風の立つ荒海にいる人たちのために祈りを捧げてくれるようにと依頼している(59)。アジャンの修道院では問題が絶えない、とアデルは述べる。事実、アデル自身、黙想の指導や病人の世話、祈り、訪問客の応接などに追い回されていたのだ。集会に共同体の全員が集まれることは稀であり、アデル自身も、共同体の休息時間に、ほんの少し顔をだすだけで、直ぐにまた、出かけねばならないことがあった。サンバンサンは、共同生活の意義を以前にもまして自覚しはじめ、隣人にたいする思いやりにもたけてきた。しかし、もし、このサンバンサンのためでなければ、共同体の休息時間は、もっと荒涼としたものであったに違いない。
それでもアデルは次のように明言している。
わたしたちは「修道者の身分が苦行の身分であることを決して忘れてはなりません。この道から反れる人はだれであれ、単なる<修道者のおばけ>であり、<時代の錯誤>であるにすぎません」(60)。
ゴンザグに宛てた手紙の中で、しばしばアデルはトナンやアジャンにいるポストラントについて言及している。その中のあるものはボルドーでのノビシヤのために準備していたが、あるものは労働修道女としてスール・サン・ソボールの手元に置かれることになっていた。
スール・サン・ソボールは、遠くフランスの向こうにあるフランスとスイスの国境に近いドイツ語圏からきていた。この地方から何人かのひとが女子マリア会に入ったが、かの女はその中で最も有望な志願者の一人であったのだ。この地方の人たちが女子マリア会について知ったのは、男子マリア会を通じてである。
アルサス出身の商人ルイ・ロテア(LOUIS ROTHEA)がシャミナード神父に出会ったのは、商用でボルドーに来ていたときのことであった。かれはシャミナード神父とその事業に深い感銘を受け、新しく創立されたマリア会に入会することを決心した。その後すぐに、故郷のアルサスで主任神父をしていた兄弟シャルルが、その後を追ってマリア会に入会した。この二人の関係から、聖職者や信徒たちのあいだにマリア会が知れ渡り、男子も女子も、この修道会にこころを引かれてやって来たのである(61)。
すでに1821年頃から、シャミナード神父はこの地方のいくつかの修道女会から、合併の要請を受けていた(62)。そして、1822年2月にはコルマール(COLMAR)に女子マリア会の修道院を開設するように要請されていた(63)。
当時フランスの教区で働いていたジュラ地方出身のスイス人司祭ジェオルジュ・カイエ神父は(GEORGES CAILLET)、ロテア兄弟の友人であった。かれは1822年の夏(64N167)、ロテア兄弟にならってボルドーにやってきた。そして、この年の7月、カイエ神父はシャミナード神父にともなってアジャンを訪問したのだった(65)。
これと殆ど時を同じくして、シャミナード神父は何人かのスイスの婦人から手紙を受け、女子マリア会に入会したいとの要請を受けた。その中の一人 ー そして、シャミナード神父が受け入れた4人の内の一人 ー に、カイエ神父の姉妹マリがいた。かの女に大変よい印象を受けたシャミナード神父は、サンバンサンに手紙を書き、神はかの女を何年ものあいだ、この修道会のために準備していて下さったように思われる、と記している(66)。当時マリは35才であった。
その年の秋(67N168)、マリは1000キロ近い長旅をして、スイスのカントン(県)ベルンからボルドーへやってきた。かの女は、シャミナード神父が受け入れたもう一人の志願者を連れて来ることになっていた。しかしその人は行く先に希望を持つことができなくなり、マリは一人でボルドーに来たのだった(68)。
ボルドーに着いたマリは、数日間ボルドーのシャミナード神父のもとで過ごしたのち、アジャンに向かった。この時がマリにとって一番つらい時期であった。「わたしは遠いところからやってきました・・・そして、わたしは自分にとって大切なものすべてと決別したのです」(69N169)と述べている。
かの女はアデルから受けた歓迎で、こころが落ち着いた。そして、後日、かの女が召命について疑問を抱いたときに励まし助けてくれたのもアデルであった(70)。
今ではスール・サンソボールとなったマリは、1822年12月9日にノビシアを開始した(71)。農家の出身であったかの女は(72)、どちらかと云えばあまり教育を受けていなかったが、まだノビスである時に、すでにトナンへ送られて、授業の手伝いをさせられたのだった(73)。この時のかの女の仕事ぶりが申し分なかったことから、アデルはかの女に共同体の宗教講話をさせるようにサクレ・ケールに提案したほどである(74)。
マリの母親が死んだのは、かの女がトナンにいたころである。アデルはかの女に弔文を送った。そして、院長にたいしては、「神はこの親愛なる姉妹にたいして大いなる計画を持っておられます。あらゆる物事から心を離し、すべてを神に向けるようにお望みになっておられるのです」と述べている(75)。
1824年7月14日に有期誓願を宣立した修道女のなかに、サン・ソボールがはいっていた。かの女は誓願を宣立すると、ボルドーに旅立ったルイ・ド・ゴンザグの後継者として、労働修道女の修練長の職を担当することになった(76)。アデルがサクレ・ケールに報告しているように、かの女の仕事ぶりは素晴らしかった。非常に母性的で、ノビスの面倒をよくみ、一週間に二度、講話をした(77)。ノビスたちはサン・ソボールに自分たちの過ちを打ち明けるのだった(78)。
サン・ソボールの健康は概して良好であり、食欲もあった。しかし、かの女はアデルの言葉を使うならば、女子マリア会の「共通した病気」に冒されていた。「わたしが何を申し上げているのかお分かりでしょう」とアデルはゴンザグに述べている(79N170)。つまるところ、サン・ソボールも、ときどき放血療法を受けていたのである。
このように遠くスイスの国境地域から来ていた志願者は、かの女だけではなかった。スイスに近いライン川上流の渓谷地帯オーラン(HAUT-RHIN)県の出身であるマリ・ドゥーレンバッハ(MARIE DURRENBACH)(1800年生まれ)とマリ・ウォレ(MARIE WALLER)(1791年生まれ)のほかに、ジェヌビエーブ・プレートル(GENEVIEVE PRETRE)(1790年生まれ)とマリ・ファジェ(MARIE FAGET)(1805年生まれ)がいた。
かの女たちは、いずれも1823年の8月か9月に入会し、その年の12月7日にノビシアを始めた。スール・ジェヌビエーブ・ド・サン・ピエール(SOEUR GENEVIEVE DE SAINT-PIERRE)は、すでに1824年7月14日に初誓願を立てていたし、その他の人たち、すなわちスール・サン・ジョゼフ・ドゥーレンバッハ(この人と一緒にアデルはボルドーで病室を開設したのだった)とスール・ギャブリエル・ウォレ(SOEUR GABRIELLE WALLER)ならびにスール・サン・ローラン・ファジェ(SOEUR SAINT-LAURENT FAGET)は、ちょうどノビシアをしているところだった。またその他にも二人のシュメダー姉妹(SCHMEDER)がオーラン地方から直接ボルドーに来て、1824年10月に入会している(80)。
スール・イグニャス(SOEUR IGNACE)(マリ・テレーズ・シュメダー MARIE-THERESE SCHMEDERのことで、1804年生まれ)とその妹スール・サン・クサビエ(SOEUR SANT-XAVIER)(フランソアーズ・アガタFRANCOISE-AGATHEのことで、1806年生まれ)は、11月27日にノビシアを始めた。この二人の姉妹は非常に裕福な家庭の子女で、二人の財産を売却すれば20、000フランの借金を返済することができるとシャミナード神父は考えた(81)。
マリア会の男子部も女子部も、いまでは発祥の地を超えて広がって行った。そして、将来さらに広がる気配をみせており、とりわけフランスの北東部への進出の可能性が現実的なものになってきた。シャミナード神父は、いまこそ修道会の両支部のために法的な承認を得るときが来たと考えた。いまのままでは、国家の前には法人としての資格がまったくなく、買ったり、売ったり、所有したり、遺産の相続や贈与を受けることもできず、団体として、いかなる商取引をすることもできなかった。修道会のすべての屋敷、家具、金銭は、修道女や修道士の個人の名義になっていたのだ。しかも、法人として教育事業や慈善事業に携わることもできない状態にあったのである。
王政復古があってから数カ月のあいだは、シャミナード神父は教会と国家の関係がアンシアン・レジームの頃と同じ状態に復帰するものと考えており、この二つの修道会が実際に創立される前に、国王と教皇から新しい修道会の承認を得ようと考えていたのであった(82)。しかし、政治的な環境は修道会にとって決して有利な方向には展開しなかった。とりわけ男子修道会にとっては(84)、ナポレオンの統治下よりも厳しい状態になった(83)。
1816年の初頭にジャクピ司教は、自分自身で教皇と国家から承認をとる手続きをとろうとアデルに約束していた。そして、そのためには、先ず修道会を発足させて、しばらく実績を作っておいた方がよいだろうと言っていた(85)。しかし、修道会が設立されたときには、ジャクピ司教は新政府からあまりよく見なされなくなっており(辞任を要求されたほどであった)(86)、承認を得る仕事をシャミナード神父にまかせようと考えるにいたっていた。
さて、シャミナード神父としては、ロッテガロンヌ県の知事と話し合い、このような承認の申請は、新しい共同体が「十分に有益なものであることが明確になった上で」おこなおうべきであろうとの合意にたっしていた(87)。
1819年1月、シャミナード神父はこの二つの新しい修道会を教皇に奏上したのだったが(88)、それは、単に霊的な恩恵を申請することのみが目的であって、公式な承認を申請するものではなかった。当時、シャミナード神父は、エミリとその修道会のためにも、同様の文書を作成しようと考えていたほどである(89)。エミリとしては、合併することによって、より容易にローマの承認を得られるだろうと考え、これを合併の利点の一つとして数えていたほどである(90)。事実、アデルが述べているように、マリアの修道会は、すでに二人の教区長から承認を得ていたのであった。すなわち、一人はボルドーの大司教ダビオであり、もう一人はアジャンの司教ジャクピであった。もっとも、アジャンの司教による承認は、いまだに非公式なものでしかなかった(91)。しかし、エミリのグループが司教からの承認を得ることができたのは、この時から、さらに数年後のことになる(92)。
ところで、「修道会」に関して二つの意見に別れ激しく対立していたパリ政府も、この頃になると、ようやくこの微妙な問題に改善がみられるようになった。社会的に有益だと認められた男子の普通誓願修道会(CONGREGARIONS)は、教育事業や病人の世話のために献身する「慈善的な団体」(CHARITABLE ASSOCIATIONS)として公式に認める、しかし、「修道会(RELIGIOUS CONGREGATIONS)」としては認めない、というものであった(93)。
シャミナード神父は、マリア会が始めた教育事業を円滑に運営して行くために(また、男子修道士が兵役から免除されるために(94))この承認をとっておく必要があると判断し、その手続きの準備にとりかかった。もっとも、シャミナード神父は、このような承認をとる必要がないならばそれに超したことはないとも考えていたようである。シャミナード神父は、国王にたいして、49条に纏めた文書をもって、新しい男子マリア会修道会を説明し、その承認を得るように申請した(95)。
1824年9月、ルイ18世が逝去し、その弟が王位を継承した。この新しい王シャルル10世が王位に上げられる(1825年5月)前に、シャミナード神父はすでに国王にたいする誓願書を送っていた(96)。そして、既にカイエ神父は4月からパリに上り、政府との交渉にあたっていたのだった(97)。だが、交渉を重ねるに従って、シャミナード神父が記した49条は、少しづつ宗教色をなくしていった。こうして、シャミナード神父がマリア会の特異性であり、最も本質的なものであると考えていた点が「追放され」(PURGED)ていった(98)。そして、1825年11月、とうとう19条にまでやせ細った条文が男子マリア会の民法上の定款として承認された(99)。
この定款では、修道生活に関してはなにも言及されておらず、宣教師としての考え方も削除されていた。しかし、同時にそれは、この二つを否定もしていないし、禁止もしていなかった。確かにこの民法上の定款は、グランダンスティテュ(GRAND INSTITUT 一番最初の会憲) から遠くかけ離れたものになっていたが、少なくともこれによってマリア会が一つの私的な組織体として、厳しい政府の監視のもとにありながらも、小学校ならびにその他の教育事業を設立し、かつ、運営していくことができるようになったのである。
女子の修道会は、男子の修道会よりも問題は少なかった。あるいは、少なくとも、そのように見えたと云った方がよいのかも知れない。ナポレオンの没落から1823年までの8年の間に約200の新しい女子修道会がつくられ、法的な資格を持たないまま、教育や慈善事業にたずさわっていたのである(100)。
王が即位すると、新しい一つの法案が通過した(1825年5月24日)。この法案によれば、この年の1月以前に存在していた団体はこの国王の法令による承認を申請することができるというものであった。そして、この年の1月以降に設立された団体は、その趣旨の特殊法令が可決される限りにおいて承認されることになった(101)。そして、このようにして承認された修道会(宗教的団体)によって設立されたいかなる施設もまた、国王の法律による承認を受けなければならないことになった。こうして承認された諸団体は、法人としての資格を持ち、財産を入手したり放棄したりすることができ、遺産や贈与をうけとること、また、その団体名義で所有することができるようになった(102)。
この法案が通過する前に、シャミナード神父は、女子マリア会も男子マリア会と同じように、宗教団体としてではなく、教育と慈善事業に献身する団体として、承認をうけようと考えていた。ジャクピ司教は、すでに1824年8月24日付けで、プティタンスティテュ(PETIT INSTITUT)を公式に承認していたし、シャミナード神父の国王にたいする誓願書を大いなる賞賛をもって支持していた(103)。国王ルイ18世が逝去すると、シャミナード神父は、再び行動を起こし、カイエ神父に男女両修道会のための交渉に当たらせた。
しかしながら、女子修道会にかんする5月の法案が通過したとき、シャミナード神父は考えなおした。シャミナード神父はカイエ神父に新しい法律のテキストを送らせるとともに、この法律に関する賛成と反対の両意見を反映した文書をも集めて送るようにと命じた(104)。
これらの文書に目を通したシャミナード神父は、あまりこの法律に気乗りしなかった。師がカイエ神父に宛てて書いたこの法律にかんする批判は、非常に強くかつ厳しいものであった(105)。
シャミナード神父はカイエ神父に、この法律がどのような意味を持つのかを、教養があり、かつ、賢明なキリスト教徒に意見を聞くように提案した。そして、何人かの知識人をカイエに紹介しているが、その中に、(1822年8月に入会した)スール・ルイズ・マリの兄弟である(106N171)ド・ポルテ氏がいた(MONSIEUR DE PORTETS)。ド・ポルテ氏は、パリ大学の法律の教授であった(107)。
シャミナード神父は、この新しい法律を無視して、いままで通りの計画で進もうか、とも考えた。しかし、実際には、この手続きは未決のままになった(108)。
この年(1825)の夏、「小さなデュブラナ」(109)は、「とうとう司祭に」叙階された。アデルは、「良き司祭になることを望みます」(110)と付け加えている。
デュブラナは、この時、28才であった。アソシエイツと修道院は、かれが16才のときから経済的な援助をおこない、学費をまかなってきた。司祭叙階にあたって、修道院は亡くなった修道女の遺品を利用して衣服を作り、かれに贈った。そのお礼として、デュブラナは、亡くなったシスターたちのために祈りを捧げた(111)。叙階後、かれはアジャンの北方約65キロはなれたカスティリョーネ(CASTILLONNES)の助任司祭に任命された(112)、(113N172)。
ちょうどこの頃、64才になったジャクピ司教は、23年にわたる教区の建て直しの仕事で疲れた、との理由で辞任の願いを教皇庁に提出した(114)。しかし、レオ12世は、かれの辞任を受諾しなかった。そのためジャクピ司教は、このときからさらに15年間、アジャンの教区長を勤めることになるのだが(115)、毎日の仕事は司教代理たちの手に委ねられ、かれらが権力を行使した。このことは、アデルの死後、女子マリア会の姉妹やシャミナード神父のアジャン教区との関係に好ましくない陰を落とすことになった(116)。
36才になったアデルは、まるで死を予感したかのように身の周りの「掃除」を始め、整理を行った。
まず、アデルは「創立の歴史」を書いた。この中で、新しい建物の土台はアソシアシオンであった、と記している(117)。歴史を書く仕事にくわえて、かの女の「もっと大切な」書類の整理にも着手した。この整理作業の一環として、「わたしの幅広い文通」が、ますます場所をとるようになったので、焼却する。もし、神さまがなにか良い目的のためにお望みになるならば、ローモン神父の手元に、もっと意味のある手紙が沢山残されている、とアデルはサクレ・ケールに述べている(118)。
アデルは、まだ、若かった。しかし、身体のスタミナと回復力が低下したのを知っていた。頻繁な病気の繰り返しで、もはや健康体とは言えなくなったアデルは、慢性的に病気がちで、たまに有難い小康状態を得ることがあったに過ぎない。
症状は一定化した。全般的な疲労感、息切れ、度重なる発熱、咳、頭のうっ血と首のはれ、そして、なによりも頑固な症状は、固形食物を呑み下すことができないことだった。摂取できるものは、水とロバのミルクと肉汁にひたした小量のパンだけであった。
8月、アデルの容体は共同体の黙想会を延期しなければならないほど悪くなった(119)。頭のうっ血をともなった高熱に苦しんだ。厳しい食餌療法をおこなっていたアデルは、小量のブイヨンさえもとることができなくなった。
四日して、高熱は去った。しかし、衰弱はひどく、胃の不調は絶え間なくかの女を苦しめた。
ローモン神父はアデルの病状をトナンに知らせた。サクレ・ケールは心配して、もっと詳しい情報を贈るようにとアジャンに手紙を書いた。これにたいしてアデル自身が返事を書いて、次のように述べている。
「わたしが自分でお知らせしましょう。わたしは、かなり元気です。ローモン神父が出発してからは、熱はでませんでした。ただ問題は、わたしはひどく衰弱していると云うことです。もっとも、これは、厳しい食餌療法の後のことですから当然のことと言えましょう。わたしは、ちょっとした病気をしましたが、もうすっかり大丈夫です」(120)。
このように記したアデルではあったが、アンカルナシオンにたいしては、それほど気を遣わずに、もっとハッキリと記している(121)。また、コンドムにいるおばたちにもハッキリと知らせている(122)。
コンドムの伯母に宛てた手紙では、聖アンナの祝日にアンヌ・シャルロットとアンヌ・アンジェリックのために祈りを捧げたこと、また、保護の聖人である聖ドミニコの祝日には、全員のために祈ったこと。そして、この二つの祝日には、聖体を拝領する恵みにあずかったこと。しかし、7月26日から8月4日までは(123N173)ひどい苦しみにあったこと。頭はうっ血し、首は腫れ、大きな苦痛を感じたこと。そして、ハーブの薬湯を少しと、肉汁に浸した小量のパンしか食べることができなかったこと。しかし、今では「すこし衰弱したことを除けば」だいぶ気分がよくなった。黙想をすることができる日を心待に待っている。いままで「他の人びとのために」たくさんの時間を使ってきたので、こんどは自分のために時間がほしい、(124)などと書き記している。
このように云いながらも、すぐにアデルはいま目の前に有る問題に話題を移し、アジャンとトナンの両修道院で、修道女たちが沈黙と黙想の生活にはいろうとしていることを伝え、トナンでは、ローモン神父が説教を行うこと(125)、そして、この黙想は8月1日に始まること、アジャンではモーラン神父が説教するが、この黙想は8月1日であったのを延期して8月5日から始まること(127N174)などを伝えている。そして、サクレ・ケールには次のように記している。
神の奉仕のうちに、そして、わたしたちの聖なる召命の精神のうちに、もう一度わ たしたちのこころを新たにしましょう。ところで、わたしたちの召命の精神とは何なのでしょうか。それは、イエス・キリストの模範にならって天のおん父の繁栄と栄光を求める献身の精神であり、熱誠の精神であり、あらゆる個人的な利益と満足を放棄する精神です。天のおん父のご意思は、わたしたちの食物です。最後に、聖人となるための仕事に取り掛かろうではありませんか。わたしたちはまだ荒削りの材木に過ぎないのですから、神なる彫刻師と、この仕事のために神様がおつかわしになった人たちの手で打たれるハンマーと鑿(のみ)で形作られなければなりません。そうです。それが、わたしたちの目的であり、わたしたちの仕事のすべてなのです(128)。
同じような調子で、アンカルナシオンには次のように述べている。
神様の愛すべきご意思に服従しましょう。おしみなくみ主に犠牲を捧げましょう。そして、そのような犠牲を増やそうではありませんか。わたしたちが自己全体をもって神にお捧げしてきたこの犠牲を更新いたしましょう。もはや、わたしたちは自分のものではありません。いろいろな資格で、わたしたちは神のものとなりました。神はわたしたちの父親であり、愛するお方であり、浄配であり、裁判官であり、神であり、ご主人です!わたしたちは、その本性によって神に属していますが、自由な選択と愛によっても、神に属するものとなりましょう。神さま、どうかわたしたちの全てとなり、すべての中から選ばれたお方であって下さいますように!この世の財宝と楽しみは他の人たちのものです。イエスとその十字架、その聖心、その天国がわたしたちのものでありますように。み主はわたしたちの分け前であり、相続する遺産です・・・ わたしたちは十分に報いられていないと言えるでしょうか(129)。