コンドムの合意/ノビシアのボルドーへの移転

シャミナード神父とアデルによるトランケレオン訪問

アデルのトナンおよびボルドーへの訪問

アデルの隔離 / テレーズの死 

コンドムにかんする交渉事でシャミナード神父が奔走しているとき、アデルは病床に臥していた。従って、この難航した交渉に、アデルはほとんど関与していなかった。

もちろん、いつもアデルは報告を受けていた。とりわけベロック夫人やラコステ神父、そして、スール・アンカルナシオンからの報告を受けていた。

1824年6月、まだ交渉は合意にたっしていなかった。しかし、かなりの問題点は解決され、双方とも、善意のうちに行動していることに疑を差し挟むものはいなかった。アンカルナシオンは、いままで住んでいた人たちに、家具や所帯道具の幾分かをピエタに残しておいてもらうようえるように交渉するため、ピエタへ行こうかと考えていたほどである。病院の修道女たちは、施設が売られることを知っていたが、だれが買い取ろうとしているのかは知らされていなかった。だから、聖堂の装飾品から台所の道具にいたるまで、動かせるものはすべて持ち去っていた。

アンカルナシオンは巧みにカステックに働きかけた。この世のものごとにかんしては病院のシスターと同じように貧しい人たちがこの施設を買収することになる。せめて、いま必要でないものだけでも残しておいてくれないだろうか、と神父を通じて提案した(1)。

さて、これと同じ頃、シャミナード神父は、修道院設置の承認と、修道院付き司祭の確保のために、大司教と交渉を進めていた(2)。もし修道院内で毎日のミサが行われないならば、修道院の開設は無理である、とシャミナード神父はカステックスに述べている。男子マリア会の司祭を配置することはできない。また、たとえそれができたとしても、マリア会の司祭は共同体の一員として送られても「一般のチャプレンのように、単独に生活する司祭として送ることはできない。それは、マリア会の修道士はつねに共同体で生活することになっているからだ」(3)、と述べている。

6月の初旬、交渉はほぼまとまった。病院の経営者は概ねシャミナード神父の要求に合意した。物件は、修道者名ではなく、個人名で、ロロットが買い取ることになった。支払の保証人には、父親がなった。修道女は有料の寄宿舎学校を経営するとともに、貧しい人たちの無料の授業もおこなう(4)。また、その他に、ソダリティの仕事と、他の熱誠事業もおこなう、ことになった(5N158)。

モニエが必要な書類を準備した。ロロットはカステックスを代理人として立て、神父に書類に署名するように委託した。しかしその場合、カステックスはすでにロロットの両親が同意している16、000フランから18、000フランを逸脱してはならない、と取り決められた。この建物に教室と仕事場と集会室をつくり、かつ、それに必要な机や書籍や絵画を準備しようとすれば、カステックスが考えている以上に大きなお金が必要になるだろう、とロロットは考えていた(6)。

合意書は、1824年7月11日に締結された。

チャップレンの用意も約束された。シャミナード神父は大司教にたいして、ラグテール神父(LAGUTERE)の任命を具申した(7)。このラグテール神父は、あまり健康に恵まれないが、三回もカルトゥジアン修道士になろうと挑戦した人物である。しかし、いまでは65才になっている。小教区の仕事につくことを余り好んでいなかった。事実、そのような仕事に向いた人物ではなかった(8)。非常に聖なる司祭で、毎日修道女のためにミサを捧げることを望み、すでに小教区との取り決めで二回のミサを捧げることになっていた日曜日にさえも、よろこんで修道女のためにミサを捧げに来てくれた(9)。

5月、モーロン大司教から女子マリア会にかんするもっと詳しい情報を送るようにとの要請をうけたシャミナード神父は、長文の手紙をしたためて(10)、この新しい修道会について次のように説明した。

   マリアの娘たちは、その名が示すように、その身をマリアの特別なご保護のもとに置きます。その会則の大半は聖ベネディク   トの戒律からとられていますが、この世の危険から修道女を守るために、ハッキリとした修正をほどこしてあります。この世との   接触からくる危険は、程度の差こそあれ、修道会にはつきものでありますが、学業を教える修道女たちには、特に大きなものが  あります。そして、マリアの娘の修道会は、どこにいても、この種の仕事に従事することになります。修道女たちは、このような世  俗の中で、自己の成聖を成し遂げる術を養わなければならないのであり、他の人たちにも成聖の道を歩ませるように助け、かれ  らを種々の危険から守らなければならないのです。 この修道女会はマザー・スペリオール(総長・院長)のもとに統括されており  、マザー・スペリオールは三つの主要部門、すなわち、霊生部長、教育部長、労働部長によって補佐されています。 沈黙、潜心  、従順、困難に打ち勝つ心。これらは修道女たちが常に心がけている徳目です。謙遜、慎み、自己滅却、そして、世俗価値の完  全放棄は、修道女たちに明確に勧められた徳目です。修道女たちは、善徳に秀でるための障害になると考えられることは何に  てもあれ、自分自身でこれらを克服するように、こころに誓っています。修道女たちは、厳密な意味での蟄居を守ります。各修道  院は、その事業の一環として恵まれない子女のための無料の授業をおこないます。また、それとは別に、財政的に恵まれた子   女のためにも寄宿学校をも経営する準備があります。この授業では、あらゆる学科と有益な技術を教えます。このような仕事の  本質的な目的は、どちらの場合にも、生徒たちを社会と教会における善徳の種子に育て上げることにあります。マリアの娘の修  道女は、また、週の特定の日に、それぞれのクラス別に、少女たちのソダリティの集会を開きます。この少女たちは、宗教的な   理想に燃えて集会に集まります。

契約が締結されたならば、ドラシャペル氏は娘を再び取り戻すことができる。それだけではない。自分の娘に加えて、かの女と同じように孝愛と配慮と尊敬に満ちた数多くの娘をもつことにもなるのだ。しかも、ドラシャペル夫婦は、新しい共同体の「この世における親」になる(11)。シャミナード神父はこのようなことをカステックス神父を通じてドラシャペル家に伝えた。その間、アデルは、ロロットに誓願宣立の準備をさせ、新しく創設される共同体の院長としての直接の準備をさせた。

7月14日、契約が締結された3日後、アンカルナシオンは終身誓願を宣立した(12)。

アンカルナシオンは、1821年9月に入会して以来、素晴らしい修道女に育ち上がっていた。ノビシアの間も、アンカルナシオンはコンドムやその他の地方のアソシエイツに文通を続けた(13)。病室では看護のかがみであった。注意深く、親切で、まったく苦労をいとわなかった(14)。

アンカルナシオンとカステックスは旧知のなかであった。かだらシャミナード神父は、カステックスとの交渉事の多くをかの女にまかせていた。また、ピエタの改装計画にかんしては、ベロックとアデルの意見をいれながら、アンカルナシオンが自分の考えと調査に基づいて進めていった(15)。ある時点では、シャミナード神父は、かの女をベロックと共に、長期間、コンドムへ行かせたほどであった。そのとき、おそらく二人はアデルの伯母のもとに宿泊したのではないかと思われる。こうして二人は直接自分たちの手で交渉をすすめたることができたし、修繕や改装を監督することができた(16)。修道会に入る前に家事万端を取り仕切っていたアンカルナシオンには、ビジネス・センスが身についていた。このようなかの女の能力とその熱誠があったからこそ、新しい修道院の院長の役目がかの女にあたえられたのである(17)。

しかし、かの女の健康状態は、決して良いものではなかった。入会して1年も経たないうちにひどい風邪をひき、6週間ばかり病床についたことがあった。アンカルナシオンは、非常に繊細な身体をしていた。しかし、かの女の健康を心配するモニエ士にたいしてシャミナード神父が述べているように、自分にとってどのような用心と、どのような療法が必要なのかは、医者よりもかの女の方がよくわきまえていた(18)。

このようなことがあってしばらくした時、かの女の健康は非常に危険な状態に陥った。アデルはド・レクサードに、ベロック医師とラフォールの診断書を送り、テレーズの場合と同様に、もし、ド・ラクサード氏がアンカルナシオンの面倒をみてくださるのなら、かの女をトナンに送りたい、と手紙で打診した。しかし、もしかの女の生命に希望がないのなら、むしろアジャンにとどめておいて、そこで安らかに死なせて上げたい、とも述べている。

アンカルナシオンは、9月に入会してから翌年の3月まで生理がなくなっていた。正常な生理に戻すには、ヒルによる療法や温湯療法が効を奏するかにみえた。しかし、かの女の健康状態は、けっして良くはならなかった(19)。

それから2カ月たった1822年の10月、アデルはエミリに(この頃エミリはすでにアンカルナシオンを知っていた)、ノビスであり友人である人の「ほとんど奇跡的な」治癒について語っている。かの女の上に聖遺物を置いたところ、その夜、かの女の健康は快復し始め、毎日少しづつ良くなって行った。この聖遺物は、トナンで血を吐いたスール・ビジタシオンにも触れさせたことがあるが、そのときのも、聖遺物を置いたその日に出血が止まったのであった(20)。

さて、アンカルナシオンは、このような病気から快復して、もう2年になっている。そして、いまやかの女は、コンドムの修道院長としての職務を引き受けるまでになったのである(21)。

ピエタの交渉が進んでいるあいだに、シャミナード神父は、シスターたちのもう一つの計画をボルドーで進めていた。会を創立した当初から、アデルはこの修道会が修道院をボルドーにおき、シャミナード神父の直接の指導をうけることができればよいと考えていた。しかし、ジャクピ司教はこれに反対し、自分の教区内に留めて置くように主張した。このような状況にあったにもかかわらず、アデルは希望を捨てず、少なくとも若い修道女がもっとシャミナード神父の身近で指導を受けることができるようになることを望んでいたのである(22)。

1824年1月、シャミナード神父はサン・ルミにいたモニエ士に手紙を書き、ボルドーでの用件を種々説明しているが、その中で、マリアの娘たちをボルドーに誘致する計画にも触れている(23)。マドレーヌ聖堂の近所に(24)女子を対象にした素晴らしい寄宿舎学校があり、その学校はシャミナード神父の知人であるグラメニャック家の姉妹(THE GRAMAIGNAC SISTERS)によって運営されていた。

師はこの姉妹たちとは長い付き合いで、革命以前から知っていた(25)。今では、かの女たちは年をとり、仕事から手をひこうとしていた。最初、シャミナード神父は、その土地と学校を双方とも入手しようと考えた(26)。ブラザーたちがこの地で経営する男子校が順調に発展しており(27)、この女子校を手に入れれば、仕事の充実が計れると考えた。

しかし、その頃、イエズス会の司祭の働きかけで、それまでグラメニャックの学校に通っていた生徒や教員を、閉鎖と同時に、聖心のシスターが経営する学校に入れようとする動きが出てきた。シャミナード神父は、この人たちと競合することを避けたかった。それでシャミナードは、教師も寄宿生も、そして、その他かれらに権利のあるものはすべて持て行かせようと考えた。そして、シャミナード師は、ただ、その建物と土地だけを買収して、マリアの娘のノビシアにしようと考えたのであった(28)。

以前、この大司教区は、シャミナード神父から相談を受けた際、シスターたちはすでに承認されたマリア会の一部なのだから歓迎すると言っていた。しかし、1月になっても、一向に状況は解決されなかった(29)。5月、計画は進んだ。それでシャミナード神父は、交渉が完了し次第契約書に署名するためにアデルをボルドーに呼ぼうと考えていた(30)。アデルはエミリに次のように伝えている。

どうやら「修練院はボルドーに設置されることになりそうです・・・。これは、わたしの大いに望むところです。創立者である神父様の直接の監督の元で養成できるからです」(31)。

6月9日、グラメニャックの敷地の権利書を移行する諸手続きが完了した(33)。コンドムへの引越しのためにアジャンを訪問しようと考えていたシャミナード神父は、その時アデルをボルドーに連れて帰り、必要な書類に署名させるとともに、同時にノビスたちをも連れてこようと考えていた。ボルドーに来るのは、ルイーズ・ド・ゴンザグに引き連れられた12人の歌隊修道女のノビスである。労働修道女のノビスはアジャンに留まり、サン・ソボールの指導を受ける。マリ・ジョゼフはトナンを離れてボルドー共同体の院長になる。ボルドーの共同体をたすけるために二人の労働修道女が派遣される。合計、ボルドーのこの新しい共同体を形成する人員は16名になることになった(34)。

7月の初旬、シャミナード神父は、秘書のブラザー・ルイ・ロテア(BROTHER LOUIS ROTHEA)を伴って短期間トナンに留まった後、アジャンを訪問した。おそらくシャミナード神父は、このとき、マリ・ジョゼフを同伴して来たのではないかと思われる。いずれにせよ、マリ・ジョゼフはトナンからアジャンへ来て、そこでルイーズ・ド・ゴンザグの指導のもとに黙想をし、終身誓願宣立の準備をした(35)。シャミナード神父は、アデル、アンカルナシオン、マリ・ジョゼフの協力をてえて、二つの新しい共同体に関する細事を取り決め、その人事を決定した。

7月14日、4人のシスターが終身誓願を宣立した。アンカルナシオン(INCARNATION(36N159))、マリ・ジョゼフ(MARIE-JOSEPH(37N160))、ビジタシオン(VISITATION)、そして、テレーズ・ド・サントギュスタン(THERESE DE SANT-AUGUSTIN)であった。この他に4人が初誓願を立てた。サン・ソボール(SAINT-SAUVEUR)、サン・ジュヌビエーブ・ド・サンピエール(SAINT-GENEVIEVE DE SAINT-PIERRE)(1823年9月に入会したジェヌビエーブ・プレートゥルGENEVIEVE PRETREのことで、トナンに行くことになっていた)、ブリジット(BRIGITTE)(1823年10月に入会したアントアネット・マルシュ・デストゥエANTOINETTE MARCHE-DESTOUETのことで、かの女は未亡人であった。かの女もトナンへ行くことになっていた(40N161))、そして、アンニェス(AGNES)(1823年3月に入会したマリ・ブデMARIE BOUDETのことである)である。

このアンニェスは、ノビスの頃から、どちらかといえば病気がちであったため、シャミナード神父は、かの女の受け入れに難色を示していた(41)。しかし、時と共にかの女の健康は快復し、非常に優秀でかつ強靭な教師に育ち上がった(42)。

翌日、アデルはシャミナード神父とロテアと共に、8人のシスターを伴って、コンドムの新しい共同体を創設するために、出発した。院長に予定されたアンカルナシオンと、寄宿舎学校の校長となるエンマヌエルも、この一行に加わった(43N161)。

八年前にアデルが三人の同伴者を伴って旅したこの道を、アデルは、いま、再び通ろうとしている。まず、ガロンヌ川をポール・セント・マリまで下り、そこからパラビの修道院を通ってフガロールにいたり、トランケレオンへ出る道である。アデルの身体が弱っていたこと、それに、トランケレオンが一行の通り道にあったことの二つの理由から、男爵夫人は一行にトランケレオンで一夜を明かすように招待した。シャミナード神父は、この申し出を受け入れた(44)。

アデルは、生涯の大半を過ごしたシャトーに帰り、どのような感情を抱いたのであろうか。なにも書き残していない。このシャトーこそ、かつてのアソシアシオンの中心地であり、母親からキリスト者としての生活を学びとった場所であり、父親を最後までみとった我が家であったのだ。

あきらかに外から見たシャトーは、昔のままであった。しかし、いろいろのことが変わった。アデルの父親はすでにこの世の人でなくなったし、マダム・パシャンも死亡して今は居ない。デジレも、エリザも、クララも居なくなっている。男爵夫人と若い所帯を構えたシャルルだけが、今と昔をつなぐ鎖の輪になっている。アデルを知っている召使や下僕も、何人かは残っていただろう。母親やシャルルが修道院を訪れたときに云い忘れたような変化に気がつくためには、しばらくの時間を要したに違いない。

翌朝、シャミナード神父は、シャトーの聖堂で、一行のためにミサを捧げた。シャミナード神父がこのようなミサを捧げる許可は、正式に司教から得ていた。「わたしの教区全体において承認する」という表現で与えられていたのである(45)。

トランケレオンを出発した一行は、コンドムに向かった。コンドムでは、ソダリティのアンカルナシオン分会の人びとがピエタの聖堂を飾っておいてくれた。また、以前アデルが世話をしたことのある大勢のアソシエイツたちが集まって、アデルの一行を待ち受けていた(46)。この人たちは、今ではソダリティの女子青年部や婦人部のメンバーになっており、カステックス神父の指導のもとに活躍している。一行を待っていた人たちの中には、コンパンニョ姉妹(47)がおり、カステックス、ラグテール、ドラシャペルの家族、アデルの伯母たち、市と病院の経営陣を代表する人びとが居たと思われる。

シャミナード神父とアデルは、そこに集まった人たちに感謝の言葉を述べ、新しい修道院のための祈りを依頼して、シスターと一緒に修道院に入った。

翌日、シャミナード神父は、大司教の公式の代理として(49)、修道院開設の儀式をおこなった。7月17日のことであった。

はじめて現地に足を踏み込んだシャミナード神父は、修道院の囲壁を明確にするためになすべきこと、また、必要な改造が完了するまでにしておかなければならない一時的な処置などについて、指示をおこなった。それが終わると修道院を祝別し、ミサを捧げ、脇祭壇に聖体を安置した(再建されたこの聖堂では、この頃には、まだ、主祭壇ができあがっていなかった)。これが終わると、修道女たちは、ミーティング・ルームに集まり院長の着座式が行われた。これで、アジャンにいる頃、会則にしたがって正しく選ばれたアンカルナシオンが、公式に修道院長になったのである。このほかに、この時、他の補佐役たちも任命された。この会議の議事録には、シャミナードとアデルならびにロテアが署名している(50)。その後、アデルとアンカルナシオンは馬車にのって支庁と市議会を表敬訪問し、ウルスラ会にも挨拶をした(51)。

一般の人たちのためには、翌日の夕刻、修道院開設の儀式を行った。この儀式には、大勢の人が参加した(52)。シャミナード神父は、この時に人びとが示した暖かい歓迎に、大きな感銘を受けた(53)。

翌7月19日、修道院は公式に蟄居の実施を開始した。

シャミナード神父は大司教に手紙を記し(55)、これらのできごとを詳しく報告している。師はこの手紙の中で、マリアの娘とウルスラ会は、どちらも寄宿舎学校をおこなうが、そのあいだで競合がおこなわれる事のないように配慮することを約束し、もし、互いに競い合うことがあるとするならば、それは健全な意味での刺激と、相互の啓発だけである、と述べている。そして、カディニャン神父(CADIGNAN)を新しい修道院の教会の長上として(56N162)、また、カステックス神父を常任の聴罪司祭として任命してもらいたいと、また、もし、カステックス神父が不在の場合は、カディニャン神父ならびにラグテール神父に聴罪司祭の代役をつとめてもらいたいこと、を要請した。

シャミナード神父は、この手紙に修道院最初の議事録を同封し、また、修道女たちにたいして種々の典礼上の特典を認可してくれたジャクピ司教からの承認書の写しをも同封して、同様の典礼上の特典をあたえてくれるように依頼している(コンドムの小教区のスケジュールに合わせるため、多少の変更が加えられていた)。そして、最後に、自分がオークまで出かけて直接大司教に表敬できないことを詫びる言葉で、この手紙を締めくくっている。

アデルとシャミナード神父はアジャンへ帰った。二人は再びトランケレオンを通過したはずであるが、このとき、シャトーに立ち寄ったかどうかについては何の記録も残されていない。

二人は、長くても一日か二日、アジャンに留まっただけで、次は、マリ・ジョゼフを伴ってトナンに出発した。四年前に、修道院を創設して以来、これがアデルにとって初めての修道院訪問であり、当初派遣された修道女たちに再会する初めての機会でもあった(57)。

アデルはこの修道院に、さきにこの世を去ったスール・テレーズの精神が今でも残っていることを発見し、大きな慰めを感じとった(58)。アデルとシャミナード神父は、ド・ゴンザグが12人のノビスを連れてアジャンから到着するのを待っているあいだに、トナン修道院の公式訪問をなし終えた。

7月25日の午後、一行は船に乗り、ガロンヌ川を下った。この時に船に乗ったのは、アデルとシャミナード神父、ロテア、マリ・ジョゼス、ド・ゴンザグ、12人のノビス、2人の労働修道女、帰りにアデルに同伴するためのスール・カタリンヌであった(59)。マルマンドに着いて夕食をとり、そこでソダリストたちと面会した。この長旅で衰弱し、疲労困ぱいに達していたにもかかわらず、アデルはソダリストたちに講話をおこなっている(60)。

翌日、再び船で川を下り、7月26日の正午頃ボルドーに到着した。アデルは新しく用意された修道院に満足した(61)。この敷地内には、マザラン通り(RUE MAZARIN)とビルデュ通り(VILLEDIEU)に面した南東の角に、バルコニイをもった大きな家があった。そして、その他に、もう二つ、マザラン通りに面して、小さな家が(これは店屋であった)建っていた。この二つの建物の裏には広い庭があり、木が生えていた(62)。

翌日、公式に修道院開設の儀式がおこなわれ、修練院が正式に開始された(63)。院長にはマリ・ジョゼフが着座した(64)。この間も、工事は続けられ、建物の修復工事がおこなわれた(65)。

7月28日、シャミナード神父はアデルをともなって(おそらくマリ・ジョゼフとド・ゴンザグも同伴したと思われる)ダビオ大司教とボルドー市庁を表敬し、ミゼリコルドへ行ってラムルースに会った(66)。一行は、ボルドー市の役人から歓迎をうけた(67)が、それ以上に、ド・ラムルースとその周囲の人びとから大きな歓迎を受けた。

一行はこの他にも、この屋敷を売却したグラメニャック姉妹に会ったり、ボルドーのソダリティのメンバーに会ったり、(革命当時からシャミナード神父に忠実に仕えてきた召使(68))マリ・デュブール(MARIE DUBOURG)にも会ったりした。おそらくシャミナード神父の姉妹リュクレス(LUCRECE)(69)とも会ったと考えられる。

この頃になると、アデルはすっかり疲れはてた。そしてアデルは、ノビスのスール・サン・ジョゼフ・デューレンバッハ(SOEUR SAINT-JOSEPH DURRENBACH)と共に、最初にこの新しい修練院の病室に収容される人になったのだった(70)。シャミナード神父は、アデルが他の修道女やノビスと長い会話をすることを禁止した。もちろん、これは、アデルにとって非常に難しいことであった。しかし、かの女はこれに従った。「15分間の従順は、1時間の崇高な会話よりも実り豊かなものです」とアデルは述べている(71)。

当初、アデルは、新しい修道院が落ち着くまでの数日間をボルドーで過ごし、すこしの休息をとったのち、8月の2・3日にはアジャンに帰ろうと思っていた。しかし、契約の交渉が予期せぬ障害で長引き、いましばらくの間、逗留しなければならなくなった。

共同体は、この新しい環境にすばやく適応し、どの修道女も幸福そうに見えた。誰もが食欲旺盛で、ボルドーの空気は健康的なのだ、とアデルは考えた。しかし、アデルにはシャミナード神父と会う機会はほとんどなかった。師は、沢山の仕事に追われていたからである(72)。

ボルドーで待たされている間、アデルはトナンを訪問した際の感想をサクレ・ケールに手紙で知らせている。このころ、テレーズの後継者とし、院長の重職を果たしていたサクレ・ケールは、若い人にありがちな落胆と憂欝に襲われていた。しかも、かの女は、いままで大きな助けになってくれていたマリ・ジョゼフの援助を、もはや受けることができなくなっていたのだ。

アデルはかの女に、共同体が平静で平和であることを希望し、そうすれば、アガタが受ける重荷も、幾らか軽くなるだろうと述べ、信仰の精神をもって生き抜くように励ました。

「あなたは、わたしたちに任された聖主の浄配たちを育て上げ、完成させることで、イエス・キリストご自身のお仕事の代役をしているのです。イエスご自身、魂をたずねあぐんでおられます。イエスへの愛のために試練と困難を我慢しようではありませんか。それがわたしたち長上の償いの業であり、他のなによりも価値のあることです」(73)。

アデルは、また、トナンに滞在している間に観察したアガタの態度をみて、いくつかのアドバイスを送っている。

サクレ・ケールは共同体の行事の時間をよく守ること、とくに食事の時間に遅れないこと。そして、とくに急いでいるときを除いて、修道女をことのはずみで叱らないこと。叱るのなら、すこし時間をおいた方がよい。両者が落ち着いているときにおこなう矯正のほうが効果がある。ますます大きな信仰をもって生きるように(74)。就寝時間をもっと早くして、遅くとも10時半には床に就くべきだ。休息の規則は、他の規則と同じように大切である。夜遅くまでおきている人は、どんな丈夫な人でも身体をこわす。いったん健康を害すれば、いろいろな例外や緩和措置を必要とし、それが共同体の修道精神に害を及ぼすことになる。よく食べなさい。でなければ健康を害する。大斉は週に一度でよい。しかも、その大斉のときも、少しは食べるようにするべきである。自己の責任を遂行するにおいて、何にもまして正確さを期し、姉妹たちにたいしてもっと大きな愛で接っするようにしなければならない(75)、と述べてる。

8月10日、やっとグラメナニャック姉妹が書類に署名し、アデルと公証人がこれに立ち会い、署名することが出来た。売却価額は18、000フランを少し上回った。アデルは買収価額の全額が支払われるまでは、二人のグラメニャック姉妹に、年四回の割賦で、年金を(紙幣ではなく硬貨で)払うことを契約した。この契約書によれば、年金は10年後に増額されることになっていた。しかし、もしその10年が経過する前または後に、姉妹のどちらかが死ねば、年金も減額される。もし、全額の支払が終わる前に二人とも死亡した場合は、この敷地の権利書は、そのままアデルの手に渡る。グラメニャック姉妹の遺言書では、この屋敷が抵当におかれていたため、アデルはこの建物に少なくとも19、000フランの火災保険をかけることになった(76)。

アデルは、やっとこれでスール・カタリンを伴ってボルドーを出立することができた。トナンにはごく短期間滞在したのみで、アジャンに帰った。ほとんど一ヶ月近くの留守であった(77)。

いつものことながら、引越しの後には、必ずあれこれとフォローアプの仕事をしなければならない。アデルは、自分が面接した35才になるポストラントには召命がないと考えた。それで、この志願者にたいしては、親切に他の場所へ行くように指導しなければならないと指示し、もう一人の志願者キャロリン(CAROLINE)に関しては、もしサクレ・ケールが同意するならば、志願期を開始させてもよいだろう ー しかし、かの女のためにアジャンからベッドを送ることはできない、などと手紙で書き送った。

実際、アジャンには余分なベッドがなかった。修練院が引っ越した今では、二つのベッドをカーテンなしのままで使っている(78)。マルマンドに立ち寄ったとき、ベッドを用意することになっていた(79)年若いポストラントの保護者に、連絡してみたが無駄であった。アジャンにはシーツはあるが、十分な毛布がない(80)、と知らせている。

また、アデルは、長上のための規則書の写しをボルドーに送り、プティ・アンスティテュの写しを送り返してくれるように依頼した。アジャンには、コピーがなくなっていたのだ(81)。

また、アデルは、何人かのノビスの所有物であるシャツと祭服類をいれた箱を、ボルドーに送らなければならないこと、そして、すでにそちらに持って行ったシャツ類のなかにシャミナード神父のものが入っているので、それを取り出すこと。修練者用の服を買うために志願者の一人が持ってきた宝石をボルドーで売却すること。それは、ボルドーで売る方が、アジャンで売るより、高値がつくと思われるからだ、などと書き送っている(82N163)。

このようにして、徐々にアジャンの修道院は普段の生活にもっどっていった。人数は少なくなったが、それでも仕事をこなして行くためには十分だ、とアデルは述べている(83)。しかし、アデル自身は、まだ、健康の問題から、いろいろな制限を課せられていた。8月23日に始まった年次の黙想(84)の終わりに、アデルは自分の健康にかんして、もう一つの命令をシャミナード神父から受け取った。なぜ今更このような命令を受け取らねばならないのだろう。ボルドーにいたときに比べて、少しも悪くなっていないのに、と思われた。しかし、シャミナード神父の命令は絶対的なものであった。講話や訓話をしてはならないこと。修道女との個別の面談をしてはならないこと、が命令されていた。

修道女との個別面談ができないことは、アデルにとって、厳しいことだった。なぜならアデルは、個別面談は上に立つものの一番大切な役目の一つであると考えていたからである。個別面談なくして、どうして修道女たちを理解し、かの女たちの信頼を得ることができるだろうか。

アデルはマリ・ジョゼフに、かの女に代わってシャミナード神父に訴えてほしいと頼み込んだ。もし、すこしでも余裕をくださるならば、話すことを少なくして、聞くことを多くするようにします、というものだった(85)。

アデルが配慮しなければならない世界は、アジャンとトナンをはるかに超えて広がった。今では四つの修道院をもつ修道会の総長である。そして、その内の二つは、かなりの遠方にある。アデルが家にいるときは、身体を使う仕事を少なくしたが、文通の範囲は広がった。かの女の宣教的熱意は、しばしば、このような修道女にたいする手紙の中で吐け口をみいだした。三つの修道院の院長は、いづれもアデルの長年の友人である。トナンの院長はアガタであり、コンドムはロロットであり、ボルドーはいとこのエリザであった。しかし、かの女たちは、いまや、友人以上のものになっている。アソシアシオンができた当初と同じく、今でもかの女たちはアデルの協力者であり、貧しいひと、無知な人、気まぐれな人たちへ自分の愛を伝達してくれる人なのである。

アジャンに居るアデルは、新しく院長の職についたサクレ・ケールを指導した。その指導は、新しい志願者の受け入れから病人の取扱方にまでおよんだ。コンドムには親愛なるアンカルナシオンがいる。かの女はビジネスには長けているが、配下の修道女たちとの人間関係で苦しんでいる。信頼を得ることができないばかりか、愛情を得ることもできないのだ(86)。そして、高度の教育を受けたエンマヌエルの知性に脅威を感じ始めていた(87)。アンカルナシオンと、その配下の修道女たちは、お互いに十字架になりはじめたのだ(88)。アデルは、このような修道女たちを励まし、助けるように努力した。

9月、テレーズが死んでからは「外貌に変化をきたした」(METAMORPHOSED)(89)サンバンサンは、数週間のあいだコンドムに滞在して会計の整理を手伝ったり、修道院や寄宿舎学校の物的な用件の解決に協力した(90)。

アデルは、マリ・ジョゼフと密接な連絡をとり、かの女を通してシャミナード神父に自分の考えや質問を伝えた。シャミナード神父は忙しく、頻繁に手紙を書く暇がなかったからだ(91)。

アデルは、また、修練院長という難しい職にあるルイ・ド・ゴンザグを援助しようとした。ノビスたちが、修道会の精神の「源泉」であるボルドーにいることは、アデルにとって喜ばしいことではあったが(92)、またその反面、自分の手元から居なくなったノビスたちを懐かしくも思った。シャミナード神父から修練院付きの霊的指導者として任命されたカイエ神父が、どうのような指導を若い修道女たちにしているのかを知りたいとも思った。また、ド・ゴンザグに、ノビス一人ひとりについて、その進歩の状況をかい摘んで知らせてくれるように伝えた(93)。そして、各人に宛てて新年の挨拶状を出すことにした(94)。

ゴンザグがノビスをつれて出たあと、アジャンに残ったポストラントの責任は、アデル自身の双肩にかかった(95)。

サクレ・ケール、エンマヌエル、アンカルナシオン、マリ・ジョゼフ、ルイ・ド・ゴンザグ、そして、それに伴って多くの人たちがアジャンを離れた今、アデルは益々孤独を感じるようになった。しかも、病気であることと仕事ができなくなっていることに加えて、極度の疲労感と衰弱が、その苦しみを倍増した。

サンバンサンが暫定的にコンドムに行っている間に、共同体の霊生部長としてアデルが大きな期待をよせていたテレーズ・ド・サントギュスタンが病気になった。いまや、共同体のすべての責任はアデルの肩にのしかかった(96)。「わたしは、まったく独りぽっちになってしまいました」とアデルはサクレ・ケールに打ち明けている(97)。

ムーラン神父が修道院の黙想の説教のためにトナンに出かける前に(98)、せめてしばらくの間でもアジャンに留まっていてくれればよいが、とアデルは思った。サンバンサンが死んでしまったり、永久的に他の修道院に派遣されたりしたならばどうなるだろうと考えるだけで、アデルの心は沈んだ。

「昔からの仲間でここに残っているのは、わたし一人になるかもしれません。時には、わたしも、こころを打ち明ける人が必要です」、と述べながらも、すぐに信仰のこころをもって、「神さまおひとりで、わたしたちには十分なのです」と付け加えている(99)。

アデルの健康は浮き沈みを続けた。そして、その度にかの女の身体に大きな負担がかかり、はっきりとその痕跡を残すようになった。ボルドーから帰った後、シャミナード神父からいろいろの規制を課せられたが、サンバンサンが留守をしているあいだに、少しアデルの健康は良くなった(100)。

9月、アデルが小康を得ているあいだに、こんどは母親が危険な状態に陥った。フィジャックにいた男爵夫人は重い病気にかかり、しばらくの間、アデルにもシャルルにも、母親がどのような状態にあるのか、まったく情報がつかめなかった(101)。

12月になると、いままでアデルに課せられていた規制も、いくらか緩和されることになった(102)。アデルは、ポストラントの世話をしなければならなかったのだ(103)。しかし、アデルが世話をしなければならなかったのは、それだけではなかった。手が焼ける小さなアンジェル(ANGELE)がいたのだった。

このアンジェルは、スール・ブリジット(SOEUR BRIGITTE)の娘であった。ブリジットは未亡人で、1823年の10月に入会し、特別な見習い期間を過ごした(104)。しかし、かの女の入会が受託されると、10才になる娘は、修道院に引き取らざるを得なくなった。

誓願宣立の翌日、トナンに派遣されることになったブリジットが、出発しようとしたところ、娘のアンジェルが母親の腕の中で気を失ってしまった(105)。その当時、ブリジットもアデルも、アンジェルはボルドーへ行って、修練院で生活するだろうと考えていた。しかし、シャミナード神父は、この考えに反対した(106)。

アジャンでのアンジェルは、非常に騒々しく、修道生活に不向きであることは明白であった。あちこち走り回り、隠れんぼをするなど、おとなしくすることができない、とアデルはサクレ・ケールに報告している(107)。かの女は読み書きや算数の授業に出た。また、修道院で勉強もした。しかし、放漫すぎて、あまり信心深くなかった(108)。しかし、有難いことに、かの女はモニエ修道士に連れだってボルドーへ行き、そこで約一年間を過ごすことになった(109)。こうして、修道院には平和が帰ってきた。

しかしながら、ボルドーの修練院という規制のある環境の中で生活するには、アンジェルは余りにも活動的であったため、トナンに送られて、6カ月のあいだ母親と過ごすことになった(110N164)。

1824年の後半、アデルは、もう一つの苦しみを味わはねばならなかった。それは、このやんちゃなアンジェルでもなければ、ますます手間暇をとるようになったポストラントの世話でもなく、四つの共同体にたいする全般的な心配ごとでもなかった。それは、将来をもっとも期待されていた志願者の一人テレーズ・ド・サントギュスタンが、目の前で衰えて行くのを見守らねばならないことだった。

忘れもしない、ユーフラジンとエリザベト・デジェ(EUPHRASINE ET ELISABETH DEGERS)が修道院の門を叩いたのは、アウグスチノ会の建物に引っ越したその日のことであった。23才になるユーフラジンは、スール・テレーズ・ド・サントギュスタンと名乗り、「優秀なポストラント」(111)になったのである。霊的生活の進歩は早く、まだノビスであるころから、エンマヌエルの指導の元に、プティ・アビ(PETIT HABIT)の寄宿舎の担当を任されたほどの人であった(112)。シャミナード神父自身も、この稀にみる有望な志願者と、直接コンタクトをとっていた(113)。

有期誓願者であったテレーズは、修練院でルイ・ド・ゴンザグの助手をして17人のノビスに授業を教えたり、仕事を監督したりした(114)。また、修練長が評議会に出席している間は、修練長の代理をつとめたりなどもした(115)。

1824年7月14日、テレーズは、終身誓願を宣立し、セント・フォアがコンドムの修道院設立のために出発して以来、かの女にかわってアジャン修道院の霊生部長に就任した(117)。その時からアデルはかの女を観察していたが、かの女の霊的な進歩は、目を見張るものがあった(118)。

アジャンの修道女たちにとって、テレーズは素晴らしい霊生部長であった。かの女は霊の働きを見極める素晴らしい能力を養い、他者の霊的状態や必要性を見抜く直感を持っていた(119)。修練院がボルドーに移された今では、アジャンでプレノビスのプログラムをテレーズの指導のもとにおこなってはどうか、という提案がアデルからシャミナード神父に送られている(120)。

サンバンサンがコンドムに行っている間、共同体の物的な配慮をするのはテレーズの役目であった。やがて、かの女は過労気味となり、疲労こんぱいに達した。体重が減りはじめ、顔色が病人のように蒼白になった。そして、わき腹に痛みを感じ始めたのだ(121)。

(1824年)10月になると、テレーズは「ほんとうの病人」のようになり、肉汁か重湯しか食べられなくなった(122)。これは自分の病気に非常によく似ている、とアデルはゴンザグに打ち明けている(123)。テレーズは疲れきっていた。応接室で黙想の人たちに訓話を与えたり、修道女たちと話をしたり、ソダリティの「天使の分会」の人たちに話をしたりで、ほとんど一日中、口を休める暇がなかった(124)。

かの女は、しばしば、熱を出し、夜はぐっしょり汗をかき、脇に痛みをおぼえ、ひどい咳をし、いまではほとんど病床に臥したままになっている。何回か病床で聖体拝領をすることができた。かの女の霊的生活は健全であった(125)。しかし、いままで霊生の仕事に邁進し、授業を監督し、共同体の生活用品を調達してくれていたテレーズがいなくなって、人びとは、いかにも寂しい思いをさせられた(126)。

11月には、ほとんど中断されることなく、8日間、高熱が続いた。「わたしのこころは、本当に悲しみに沈んでいます。かの女のために祈って下さい。そして、ほかの人たちにも祈をお願いして下さい」とアデルは打ち明けている(127)。

やがて、この病気から治りそうもないことが分かってきた。熱は間断なく続き、痛みは激しくなった(128)。「わたしがどれほど悩んでいるか、お分かりいただけるでしょう」、とアデルはゴンザグに記している(129)。そして、アンカルナシオンには、「わたしのこころは悲痛でいっぱいです」と述べている(130)。

テレーズは神との一致のもとに、自分の病気を完全に受け入れていた。こうしてかの女は共同体の手本となり、自分が必要としている「長い忍耐力」を神に祈ってくれるように修道女たちに願った(131)。

12月の初旬、ベロック医師によれば、テレーズの肺は炎症を起こしており、治る希望はなかった。生き延びたとしても、あと数日だろうということだった(132)。「わたしのこころは苦しみで張り割けるばかりです」とアデルは悲しそうにサクレ・ケールに打ち明けている(133)。

テーレーズは苦しんだ。しかし、かの女はすべてを捧げて平安を保っていた。

12月13日、最後の秘跡を拝領した。「かの女はまるで天使のようです。初めから天国に召されていた人のように死を迎えました。ひたすらに神を思い、短い祈りを絶えず口ずさみ、何事が自分に起こっているのかを十分に知りながらも、忍耐と、静けさと、平安をたもち続けました」(134)。

テレーズはアデルに自分の霊生日記を破棄するように願った。しかし、まずアデルが、それに目を通すことにした。きちんと整理された日誌は、正確に書かれており、自分の落度を記録し、糾明と決心が記してあった。このなかのいくらかは、他の人たちに、よい励ましになるだろうとアデルは考えた(135)。「死」という文字が表紙に記されていたのは、この日記である。そして、この「死」の文字は、妹が一年少し前に死んだときに記されたものであった(136)。

テーレーズは自分の時間を有効に用いることができたことを嬉しく思っていた。アデルはそのことを知っていた。しかし、今は、もう時間が残されていなかった(137)。かの女は週に一度か二度、聖体を拝領した(138)。クリスマスの日も聖体を拝領した(139)。

1月14日、終油の秘跡を受けたが、アデル自身は頬がはれて臨席することができなかった ー 「かの女がわたしをとても愛してくれている」から、これは、二人が捧げる犠牲でした、とアデルは述べている(140)。

しかし、アデルはテレーズの最後に立ち会うことができた。1825年1月22日、午前2時のことであった。テレーズは周りの人にアデルを呼んでくれるように頼んだ(141)。テレーズの意識はハッキリとしており、十字架を手にもっていた(142)。ノビスのころお世話になったサクレ・ケールにお礼を伝えてくれるようにアデルに頼んだ。そして、他のすべての修道女にたいしては、次のような最後の言葉を残した。

「皆さんにお伝えください。わたしたちは死ぬ間際になるた、ほとんど何も成し遂げることが出来なかったということが、はっきりわかります。時間は、それほど短いものなのです。自己を捨て、すべてを神のご意思に委せ、神と一致することによって霊的に成長するよう努力するにお伝え下さい」(143)。

今わのきわにあって、「霊生の母」テレーズは、死の床から、数多くのシスターたちに霊的なアドバイスを与えた(144)。

午前4時、最期のゆるしの秘跡を受けて5分後、アデルの腕の中で最期の息を引き取った(145)。28才であった。

その土曜日、かの女の遺体は一日中、聖堂に安置されていた。在俗第三会のメンバーが、順番に、昼夜、遺体の側についた(修道女の間で、遺体の側についていることができる人は、一人もいなかった。それほどたくさんの人が病気だったのである)。

日曜日の朝、ルイ・マリ・ドレンヌ(LOUIS-MARIE DRENNE)の向いにある小さな修道院の墓地に、テレーズは埋葬された。「聖人の死」は、なんと美しいものでしょうか。「わたしも死にたくなります」、とアデルは叫んでいる(146)。

テレーズが修道院にいるあいだ、かの女はいつも周囲の人に慰めとなっていた(147)。「わたしの心は苦悩で打ちひしがれています。親愛な娘のひとり、わたしの補佐役を、失いました」(148)と、アデルはエミリに記している。

テレーズは、死んだ後も奉仕を続けた。遺書をもって8、000フランを修道院に遺し、その財政を助けたのである(149)。