アデルの誕生と両親のこと
フランス大革命の勃発 ルイ16世の処刑
1789年6月17日、アデルは生まれた。そして、その日に洗礼を受けた。「ご聖体の祝日」の前日のことである(1N7)。
洗礼式はフガロ−ルにある小さな教会、サン・シルの聖堂で行われた(2)。後年、アデルはこの二重の誕生日を毎年祝うことになるが、そのたびに、数日前からこころの準備をした(3)。
さて、この日、アデルはアドレイド・マリ・シャルロット・ジャンヌ・ジョセフィ−ヌ(Adelaide-Marie-Charlotte-Jeane-Josepine)と命名された(4)。幼い頃は、アドレイド(Adelaide)の愛称アデル(Adele)の名で呼ばれていたが(5)、大人になってもその名で呼び続けられた。親しい人たちは、いつもアデルまたはシェ−ル・アデル(親愛なるアデル)と呼び、かの女自身も修道名をとるまでは、手紙にアデルとのみ署名している(6N8)。
生家は、軍人を職業とする貴族で、裕福な地主階級であった。その家系は、父方も母方も、数世紀以前にさかのぼる(7)。父親はシャルル・フランソワ・ジョゼフ・マリ・マルタ・ド・バッツ・ド・トランケレオン男爵(Baron Charles-Francois-Joseph-Marie-Marthe de Batz de Trenquelleon)である。
バッツ家は、ガスコ−ニュ地方の名門である(8)。この家系で最初に「男爵」の世襲称号を取得したのは、15世紀後半の某貴人、レイモンドという人物で、ド・バッツ男爵と呼ばれていた。それからおよそ130年。この地の多くの貴族がそうであったように(9)、バッツ家もプロテスタントに改宗した。そして、1690年、父親シャルルの祖先にあたる三人兄弟が、オレンジ公ウイリアムに従軍してフランスを離れた。この兄弟は、三人とも、その年の7月11日、アイルランドのボアンヌでカトリックの勢力と戦い、名誉の戦死を遂げている(10)。
18世紀初頭、男爵の直系にあたる祖先がカトリックに改宗した。そしてちょうどその頃、フランソワ・ド・バッツは、これもプロテスタントから改宗したアンヌ・ド・トランケレオンと結婚した。従って、このフランソワが、バッツ家でトランケレオンを名乗った最初の人物であり、アデルにとっては曾祖父に当たる。ガスコ−ニュ地方特有の建築スタイルをもつシャト−をトランケレオンの地に建設したのは、その息子、すなわち、アデルの父方の祖父シャルルであった(11)。
フランソワとシャルルは、この家系にしばしば登場する名前である。アデルの祖父、父親、弟のいずれもがシャルルを名乗っており、男爵の父方の伯父、すなわち父親シャルルの兄弟も、シャルルであった(12)。
アデルの祖父シャルルは、普通、夏の間はトランケレオンのシャト−で過ごし、冬には約150キロ南方のネラックにある実家の領地で過ごしていた(13)。かれには三人の兄弟があり、そのうちの二人は誉れ高き軍人、もう一人は高位聖職者であった。この司教は、とりわけ貧者にたいする慈善家として世に知られていた。
1750年、アデルの祖父シャルルは結婚した。その妻マリ・カタリン・エリザベット・ド・マリッドは10人の子をあげたが、そのうち4人は夭折している。しかし、そのようなことは当時としては決してめずらしいことではなかった。残された6人の兄弟姉妹のうち、アデルの父親シャルルは最年長者であり、かれは家督を相続した。あとに続く他の兄弟や姉妹も、アデルの大家族を形成する上で、大切な構成要員となっている。
シャルルの弟フランソワは、1759年に生まれた。その姉カタリン・アンヌは1756年に生まれ、妹アンヌ・アンジェリックは1761年に、そして、マリ・フランソワーズ・エリザベットは1764年に生まれた。一番末のアンヌ・シャルロットは、1769年の生まれである(14)。
アデルの母親は、マリ・ユルシュール・クロディーヌ・ジョゼフ・ド・ペイロンネンク・ド・サン・シャマラン(Marie-Ursule-Claudine-Josephe de Peyronnencq de Saint-Chamarand)である(15)。この母親の家系は、父方も母方も、共に13世紀のフランス国王聖ルイ9世の二人の息子にさかのぼる。アラゴンのイザベルと結婚した長男の大胆王フィリップ3世(1245ー1285)の家系と、ブルボン家のベアトリーチェと結婚した第6子のクレルモン伯爵ロベ−ル(1256ー1317)の家系である。
この二つの家系は、過去において、フランス、アラゴン、ルクサンブールを含むヨーロッパの多種多様な王家や貴族と血縁関係を結んできた。そして、この家系の分家一族が、17世紀、ルーエルグ地方に住み着いた。ルーエルグ地方はフランスの南中央部に位置しており、後年のアデルにとっては、ゆかりの深い土地となる。この分家に嫁いできたのがアデルの祖母で、ド・ノカーズ家の出身であった(16)。
二つの家系、すなわち、ペイロンネンク家とド・ノカーズ家は、ちょうど男爵の先祖と同じように、数多くの有名な軍人や聖職者を輩出している(17)。このフランスの著名な二つの家系は、シャルル・ド・バッツ・ド・トランケレオン男爵 (Baron Charles de Batz de Trenquelleon )と、マドモアゼル・ユルシュール・ド・ペイロンネンク・ド・サン・シャマラン(Mademoiselle Ursule de Peyronnencq de Saint-Chamarand)の結婚によって一つに結ばれた。1787年9月27日のことである。
結婚式はモントバンにある司教館のチャペルで挙行された(18N9)。モントバンは、フガロールから東へガロンヌ川を100キロばかりさかのぼった所にある(19)。
二人の契りは、男爵の母方の伯父にあたるモンペリエの司教ド・マリッドを証人として結ばれた。この両家の婚姻が二人に財産をもたらしたのはいうまでもない。男爵は(弟や姉妹に権利のある不動産15万リ−ブルを差し引いた)正味44万リ−ブルに相当する(20N10)19カ所の不動産と、その他の財産を相続した。この財産のおかげで、男爵は年間1万9000リ−ブルの収入を得ていた。妻マリ・ユルシュールは、11万リ−ブル相当の持参金をもって嫁いできた(21)。
新婚夫婦は、二人とも、その先祖の名にふさわしい立派な人物であった(22)。1754年7月25日に生まれた男爵は、15才で見習い兵士として宮廷に仕え、その後急速に昇進している。パリで兵役についていたころの男爵は、母方の親戚に身を寄せ(23)、女王マリ・アントワネットと親交のある人びととつき合っていた(24)。軍人としての容貌を和らげる礼儀正しい上品なマナ−を身に付けたのは、この頃のことである(25)。
シャト−を建設した父親が1779年にこの世を去ると、シャルルは長男として男爵の称号を受け継ぎ、領主の権利を相続した。家長となったシャルルはその責任を真面目に果たし、親身になって弟と四人の妹の面倒をみた。この面倒見の良さが幸いして、後年かれを襲った混乱の時代にも、苦境から救われることになる。
1763年11月16日、マリ・ユルシュールはフランスの東中央部カンタル地方にあるマルセナックの家で三人姉妹の長女として生まれた(26)。幼少のころは両親とともにパリで過ごしている。
父親はグレイ・マスケット銃兵(近衛兵)の武官をつとめる伯爵であり、首都パリの貴族社会においては、妻と共によく知られた存在であった。マリ・ユルシュールがやっと7才になった時、父親は34才でこの世を去っている。
未亡人となった伯爵夫人は、パリを離れて実家のあるフィジャックに移った(27)。この町は、大西洋と地中海沿岸の中央に位置するフランス南部のロット地方にあった。三人の幼い娘たちは、この地で養育された。母親は子供たちに立派な教育を施し、良きキリスト者として育て上げた。この母親は多くの慈善事業を行ったことで知られており、人びとから敬愛された人物である(28)。アデルが毎年母親に連れ添われて訪れたのはこのフィジャックであり、この母方の祖母に会うためであった(29)。
トランケレオンで蜜月をすごした33才の男爵は、24才になる新妻を伴ってパリに居を構えた。当時男爵は、ルイ16世の王室近衛兵(les gardes francaises)として仕えていたからである(30)。二人はパリの貴族階級が居住するサン・オノレにある(31)男爵の母方の屋敷に居住し、召使に仕えられながら身分相応の生活を送っていた。かれらは宮廷で拝謁をたまわり、男爵夫人は国王と王妃に謁見している(32)。
この若い夫婦は、パリの名士や貴族のあいだで人望厚く、いささかの問題もなく人びとに受け入れられていたが、最初の子供の出産の時、それを理由にトランケレオンに帰ることを決意した。しかし、それはあながち子供の出産のためだけではなかった。男爵は、1789年の初頭に行なわれる選挙に参加するため、法律上の居住地に戻っていなければならなかったからである。
ところで、この選挙こそは、フランス大革命の運命を決する一連の諸事件を誘発する発端になったものである(33)。この選挙は経済的に破綻をきたした中央政府の命令によって行われたものであるが、当時としては驚くほどに「民主的」なものであった。すべての納税者に選挙権が与えられていたのである。この納税者たちは所属する小教区を単位として集会をもつことになっていた。大革命以前のフランスにおいては、小教区が宗教ならびに民事の地方行政単位となっていたのだ。
納税者たちは、小教区ごとに選挙人を選び、次にその選挙人がパリにおけるエタ・ジェネロに出席する代議員を選出することになっていた。この代議員の選挙のほかに、投票者はその地方選挙区から寄せられた不平や不満、改善の要望などを記したカイエ(手帳)(cahiers)を準備することになっており、このために催される会談は、三つの身分ごとに別個に行なわれる手はずになっていた(34)。
故郷に帰った男爵は、コンドムとネラックの貴族議会に参加した後、再び国王に仕えるべくパリに帰るが、ここで男爵は国王の武官として、当時ますますつのりつつあった緊急事態に直面することになる(35)。
フランス議会エタ・ジェネロは、5月5日、ヴェルサイユで開催され、議会を牛耳ろうとする王政派のあらゆる企てに抵抗した。事実、王制派の議員からは、真に指導力を発揮することのできる者はあらわれなかった(36)。
1789年6月10日、国王と王制派にたいする威嚇が日々増大する中で、アデルは父親不在のまま誕生した。アデルに洗礼をほどこしたのはフガロ−ルの主任司祭、サン・マルタン神父である。
代母は父方の祖母マリ・カタリン・エリザベト・ド・マリッドで、トランケレオン男爵の未亡人、代父は母方の祖母の兄弟ジャン・バプティスト・ゴッドフロア・ド・ノカーズであった。しかし、かれはその時パリを離れることができず、代役を男爵の伯父シャルルに依頼している(37N11)。
アデルの幼少時には、フランス史上忘れることのできない数多くの大事件が勃発した。そして、その諸事件によって、フランス社会は根底から覆されてしまうことになったのだ。
アデルが5才になるまでに、国王は処刑され、200年間続いたブルボン王朝のアンシアン・レジ−ム(旧体制)は終末を告げる(38)。王族と貴族による封建制度は完全に崩壊し、カトリック教会は地下に追いやられた。そして、新生フランスは苦悩と流血を通して、その混乱の中から誕生するのである。次々に台頭する新政府はその矛先を王制派と貴族に向け、やがてはその矛先を国王と教会に向ける。これに刃向かう王制派は、国の内部と外部の両側面から抵抗し、ヨ−ロッパの諸王朝もこれに荷担した。アデルの幼少時は、このようなヨ−ロッパ史の絵巻物語を背景に送られたのである。
アデルの両親が所属する上流社会では、最初はこれらのできごとを驚きの目で眺めていた。しかし、やがてそれは不信に変わり、さらに恐怖心へと変貌した(39)。
1614年以降、国王ルイ16世によって最初に招集された三部会エタ・ジェネロは、財政問題を解決するためのものであった。しかし、結局これはフランスを瀬戸際に立たせる惨事を招来してしまったのである(40)。この「エタ」(Estates)とはフランス国王の臣下を大別した三つの身分を意味しており、三部会(エタ・ジェネロ)は新しい税制をしくために定期的に召集されていたものである。
第一の身分は約1万人の「高位聖職者」で、一般に国王によって任命された司教、大修院長、修道院次長がこれに該当する。教区司祭を含む約6万人の「下位聖職者」の大半は、むしろ第三身分と見なされていた。また、この他に6万人の修道士や修道女がいたが、かれらは市民権を持たず、社会的にも政治的にも代表権を持っていなかった。それは、かれらが宣誓する「荘厳」誓願が、社会的・政治的な市民権を抹消し、非人格化する性質のものであったからである。
いずれにせよ、これらすべての人を合わせた約13万人の聖職者は、フランスの当時の全人口の約1パ−セントを占めていた(41)。139の司教区の大半は司教によって統括されていたが(41)、この司教たちは同時に貴族でもあり、いつもそうであったとは云えないまでも、一般に、かなり裕福であった。司教の平均年収は、その聖職録と荘園から上がる利益をあわせると、3万リ−ブルから4万リ−ブルにのぼった(43)。(このリ−ブルは、後日、新フランに置き換えられる)(44N10)。
第二の身分は「貴族」である。家族数にして約5万世帯、人数にして約25万人いたと考えられる。当時のフランスでは、貴族の子供もすべて「貴族」と見なされていた。出生による貴族もいたし、買収によって貴族になった者もいた(この代金は国王の財源になっていた)。中には、兵役の報酬として貴族の称号を得た人もいた。
貴族は一般に兵役に服するか、聖職につくか、あるいは法務にたずさわり、実業につくことはなかった。そして、土地に恵まれていながら現金に乏しい貴族が多かった(45)。貴族のある者は、アデルの父親のように進歩的な地方大地主で、「小作人と親密に接し、農民たちのよい相談相手になる」ものがいた。しかし、そのような貴族は少数派であったといえよう(46)。
第三の身分は、商人や交易者からなるブルジョワジー階級と一般庶民によって構成されていた。フランスの人口の大半がこれにあたる。下級聖職者や幾人かの司教もこの階級に含まれていた(47)。
ヨ−ロッパ大陸ではきわめてユニ−クな現象であるが、フランスには数多くの土地所有農民と小作農民が存在した。農民人口の70パ−セントから80パ−セントに当たる成人男子約400万人が土地所有農民であり、その所有する土地は国土の三分の一から二分の一におよんでいた。このような農民による土地所有の傾向は、南部において、より顕著にみられた(48)。
下級聖職者はたいへん貧しく、一般に信徒や修道院長によって任命され、司教から任命されることは稀であった。例えばシャルトルの司教区における943の小教区では、875人の主任司祭が種々の女子修道院や男子修道院の首長から任命されていた(49)。
一般に、下級聖職者、とりわけ小教区の司祭は、民衆とともに生活し、貧を分かち合っていた。そして、かれらの中には、学問さえ身につけていない者が多かった。これらの下級聖職者と、ややもすれば横柄な高位聖職者との間には、不信感と軽べつと敵対意識が渦巻いていた。1789年、多くの下級聖職者が第一身分よりも、むしろ第三身分を選んだのは(50)、きわめて当然の成り行きといえよう。
三部会の代議員を選出するこの二段構えの選挙は、多くの困難をともないながらも終結した。第一身分(聖職者階級)の代議員は308名。その中の約三分の二が主任司祭であった。第二身分の代議員は285名。かれらは貴族であった。第三身分は621名の代議員によって代表されていた。その約半数は法律家であり、小数の聖職者と貴族が混じっていた(51)。かれら代議員はその5月、国王ルイ16世の代議員と集会をもつためにヴェルサイユ宮殿に集まった。
議会に集まった国王政府の大臣は、三つの身分、とりわけ数世紀にわたって無税の特権を享受してきた第三身分から、金銭を巻き上げようと企んでいた。第三身分にはブルジョワ階級の商人や銀行家がおり、かれらは国家の流動資金の大半を手中に収めていたからである。
一方、議会に集まった第三身分の代議員の思惑はまったく別のところにあった。かれらは自分たちの不満を申し立て、独自の方法で改革を進めようと考えていたのである。かくして、かれらは迅速に動き、特権を嫉む裕福な地主階級、第一・第二身分の釈然としない態度を巧みに誘導して、国王政府の裏をかいてしまったのである(52)。
6月17日、アデルが生まれて一週間後、第三身分は国民議会アッサンブレ・ナシオナールを宣言する。その三日後、かれらは有名な「テニスコートの誓い」を行い、国王、貴族ならびに教会の権力に制限を加える新しい憲法が制定されるまでは決して解散しないことを誓い合った。それから五日後、第一身分の聖職者が、そして、またその五日後、第二身分の貴族階級が、国王の許しを得て第三身分に合流し、立憲議会を構成した(53)。この立憲議会の目的は新憲法の草案を作成することであった。
革命はいよいよ勢力を強め、やがてそれは反乱に発展する。有名なバスティーユの攻撃は、アデルが生まれてちょうど35日目に勃発した。この事件そのものはパリの群衆によって引き起こされたもので、さほど重大のものではなかった。しかし、この事件によって民衆の不満が触発され(54N12)、近衛兵は群衆の力を押えることに失敗した。この敗北が、すでに始まりつつあったフランス革命のシンボルになったのである。後にこの事件が起こった1789年7月14日は、近代フランスの建国記念日として祝われることになる。国王が立憲議会の解散を躊躇したのも、おそらくこの事件が大きな要因の一つになっていたと思われる(55)。
一方、男爵は、アデルが生まれたその翌日に昇進の栄誉を受け、8月24日にはサン・ルイ十字架勲章を授賞した。しかし、9月にはトランケレオンに帰った。8月31日、男爵の率いる軍隊が他の軍隊とともに国王によって解散を命じられたからである。この解散の理由は、7月14日、パリ民衆の暴動に決定的な打撃を与えることができなかったことにあった(56)。
その頃、かれの率いる軍隊の下士官や兵士たちの間には、すでに革命思想が蔓延し、過去数回にわたって軍規の乱れが生じていた。もはやこのような軍隊に期待することはできないと悟った国王は、近衛軍を解散したのである。
解散された兵士たちは、ラファイエットの率いる市民による新しい軍隊、ナショナル・ガードに吸収され(57)、下士官は予備軍としてその身柄を保留されることになった(58)。男爵の俸給はしばらくの間続いたが、翌年の12月には三分の二にカットされ、年俸わずか1000リーブルになった(59)。
さて、国民議会では、8月4日、王族や貴族の特権を含むすべての封建的諸特権を廃止する法案を可決した(60)。この法案の可決によって生じた種々の結果は、やがて男爵とその家族にも影響をおよぼし、男爵はこれにたいして行動を起こさざるを得なくなる(61)。
フランス全土はこのような険悪な事態に覆われていたが、トランケレオンでの生活は今まで通りに続けられた。男爵は、いつ起こるとも知れぬ非常事態に備えて領地の管理に精を出し、男爵夫人は娘の養育と召使を含めた家族全員の世話に全力をあげた。
当時、男爵の母親はすでに未亡人になっていたが、まだ58才と若く(かの女は19才で結婚した)(62)、女性家長としてシャトーに起居していた(63)。かの女の他に、その義兄であり男爵の伯父にあたるシャルルも居た。かれは68才で、未婚者であった(64)。アデルの伯母である男爵の二人の妹も同居していた。この二人は、33才になるカタリン・アンヌと25才のマリ・フランソワーズである。この伯母マリ・フランソワーズは、マダム・ド・サン・ジュリアンと呼ばれ、ゆくゆくはアデルにとって、もっとも身近な存在の叔母になる(65)。この叔母はトランケレオンのシャトーで生まれた。従って、他の兄弟たちがすべてネラックで授洗したのに対し、かの女だけはフガロールで洗礼を受けたのだった(66)。
残る二人の姉妹はプルイヤンのドミニコ会修道女であった。プルイヤンはコンドムに近く、フガロールから南へ約30キロばかり離れた所にある。この修道院は、1280年、貴族の子女を寄宿生として受け入れるために創設された。もしこの施設がなければ、この地方の貴族の子女はアルビジョワの人びとと結婚し、当時蔓延していたアルビ派の異端にかぶれてしまう恐れがあったからである(67)。
この修道院は奇妙な建物で、ジェル川を跨いだようにして建てられていた(68)。1569年、モンゴメリーの率いる英国軍によって破壊されたが、後ほど再建された。それから80年後のこと、一人の修道女が力づくで修院長に就任させられたことがあった。この事件は当時の混乱した世相を反映している(69)。
男爵の弟フランソワは、フランスの海軍に所属していた。当時のフランス貴族の若者の多くがそうであったように(70)、かれも1774年にはアメリカに渡った。当時15才であったかれは、フランス海軍の一員として、母国イギリスと戦うアメリカの植民地軍と戦闘を共にしたのである。男爵の叙勲に先駆けること数カ月、弟フランソワは、兄シャルルと同様、サン・ルイ十字架勲章を授与され、いまでは艦長となって自分の船を率いている。後年、フランスと英国が戦った際、おおいに活躍して英国元帥ブライの率いる軍艦「アレクサンダー号」をだ捕した(71)。陸軍に席をおく兄男爵と、いわば、敵対関係に立っていたのである。
このように弟フランソワは革命軍の海軍に所属していたのであるが、王制派に属する兄男爵がラインの陸軍に所属していた(72)ために、この二人が直接戦火を交えることはなかった(73)。しかも、1795年の後半、追放の地ロンドンに身をよせていた兄男爵が、英国軍と共にヨーロッパに進撃して敗北した頃(74)、すでに弟フランソワは結婚し、海軍を退役していた(75)。それのみならず、1793年に結婚したフランソワは(76)、結婚後もトランケレオンに住居を定め、その名声と影響力を発揮して、男爵の領地の安泰を図るために政府に掛け合うことさえいとわなかった。
さて、この間、パリにおいては次々に事件がおこり、王制派や貴族たちの恐怖は増大するばかりであった(77)。シャトーの中央サロンにはフランドル地方で作られた大きなタペストリーがいくつか掛かっており、また、むかしルイ11世の戦いに参加した有名な祖先たちの肖像画が飾られている(78)。男爵が訪問客を受けるときには、このサロンを使用した。訪問客の中には、男爵同様に挫折した軍人や、悩みを抱く地方政治家がおり、困窮した友人たちもいた。あるものは国が良くなるのを待つよりは(80)亡命者(emigres)になって(79N13)祖国フランスから脱出することを決意する人もいた。ときどき男爵はパリにのぼり、母方の親族や信頼のできる友人たちの意見を求めていた(81N14)。
国の政治や経済とは裏腹に、男爵の家庭では愛と平和と思いやりが満ち溢れていた。社会にたいする強い責任感をもっていた男爵は、領地に住む召使や労働者を家族の一員のように取り扱っていた(82)。男爵の領地内にはおおよそ27家族が住んでいたが、その大半はトランケレオンからフガロールに通じる街道沿いに住んでいた。かれらは何世代もの昔からそこに家を建て、小さいながらも自分たちの農地を耕していたのである(83)。このような耕地には、あるものは農作物の半分を領主に収める小作地で「折半小作地(metairies)」と呼ばれるものがあり、その他のものは一定の期間賃貸される「契約小作地(fermes)」と呼ばれるものがあった(84)。
男爵は、結婚をして家をはなれる召使の娘には、原則として、持参金をもたせることにしようと考えていた(85)。しかし残念なことに、革命によって被った被害は男爵のこの望みを踏みにじった。死にさいして、自分が使っていたすべてのリネンを下僕の(87)ブリヴェル(86)に残し与えたほどの男爵である。使用人に出会うと挨拶をし、握手し、会話を交わし、家族のことを尋ねるようにしていた(88)。このように取り扱われていた召使の一人ランヌロング(89)は、男爵の領地が政府によって没収されたとき、その一部を買い入れ、社会情勢が落ち着くのをまってこれを男爵の手に返している(90)。
男爵シャルルは、また、非常に信仰心の厚い人でもあった。このような男爵にとって、フランス革命にともなうかずかずの不幸なできごとが、かえってその生活に深い信仰心を根付かせることになった(91)。シャトーでは中央サロンに隣接する部屋に聖堂をつくり、家族だけではなく召使たちまでも、そこで祈りを捧げ、黙想することができるようにした(92N15)。一方、男爵夫人は、この家庭用聖堂を使用する上で必要とされる種々の許可を教会に申請したり、ミサ聖祭や告白の秘跡をおこなう上で必要とされる許可を得るように手配した(93)。
妻にたいする男爵の態度は、まるで崇拝とも思われる程の尊敬の念が込められていた。実際、夫人のひととなりは、十分それに値するものであった。後年、男爵は遺書の中で妻に触れ、「母親としてはこよなく優しく、真に掛け替えの無い婦人であった」と表現している(94)。
夫人のこのすばらしい人柄は、やがてやって来るであろう数年の間、いかんなく発揮されることになるのだが、新妻である現在においても、掛け替えの無い母親であり、霊的に「堅固な婦人」であった(95)。アデル自身、母親のことを「わたしの聖なる母親」(ma sainte mere)とよんでいる(96)。
男爵夫人は召使たちに特別な配慮を施した。毎夕、かれらを集めて祈りを捧げ、宗教書を読んで聞かせたり、公教要理を教えることもあった。男爵が自分の姉妹たちに宛てた手紙の中で、「わたしの妻に会いに来て下さい。かの女はまるで聖女のような人です」と記している。男爵夫人は、人びとが祝う宗教儀式やお祭りのときなどは、すすんで農民たちと行動を共にするのであった(97)。
中でも際だっていたのは、男爵夫人の貧者や身分の低い人にたいする慈愛心である(98)。1846年、男爵夫人はこの世を去った時、人びとは自分から進んで感謝と愛の気持ちを表すために葬儀に参列した。大勢の参列者の中にはシャトー周辺の地域から来た人たちも居り、フガロールの教会は内も外も参列者でいっぱいになった(99)。葬儀を伝える地方新聞は長文の記事をのせ、男爵夫人が行った数多くの慈善事業をたたえている。そしてその記事は、イエスについて語られたと同じ言葉で結ばれている。「マダム・ド・トランケレオンは善業を行いながら私たちの地を通り過ぎて行った」(100)と。実際、かの女は死の床にあるときさえも、暫くみ主への祈りを停止して、世話の必要な人たちのリストに三人の貧しい人の名を追加したほどである(101)。
若い頃の母親は、自分がおこなう慈善事業をアデルにも教えていた。そのため、アデルは多くのことを母親から学びとったが、とりわけ慈善事業に関しては、母親からすっかりその実践のしかたを受け継ぐことができた。
シャトーの生活は平和のうちに過ぎて行った。フランスの南西部(102)、とくに都心部から離れた田舎では、比較的平穏な社会情勢が保たれていたからである。しかし、パリでは上層階級のあいだに深刻な問題が起こり始めており、じわじわとその余波がトランケレオンにも押し寄せて来た。
国王はパリの群衆と国民衛兵に「守られ」て(103)、ヴェルサイユからパリのチュイルリー宮殿まで護送され、事実上、そこに幽閉されてしまった(104)。もっとも、その頃の国王は、まだ民衆のこころを信じていたようである(105)。一方、1789年11月2日、なんとかして財政を立て直そうとした立憲議会は、反聖職者主義の過激派をなだめようとして、教会財産の没収を決議した(106)。
教育に関しては、9月と12月に可決された法令により、すべて民間支配のもとにおかれることになった(107)。その結果、教会ならびに修道会が経営していたすべての教育施設が閉鎖された。幾世紀ものあいだフランスの教育の主力をなしてきた教会は、ここに来て若者たちへの教育の使命に終止符を打ったのである。政府は学校教育と民間の祭儀や劇場を「共和政体の道具」として利用し、歴史と文化と宗教の三面から、フランスを完全にその過去から切り離そうとしたのである(108)。
翌年の夏、アデルが満一才になったときのことである。「聖職者にかんする民事基本法」が可決され、なすすべをしらぬ国王は、これを承認せざるを得ない状況に追い込められた(109)。この基本法はフランスにおけるカトリック教会のあり方にメスを入れるものであり、教会を市民政府の管轄下に置くものであった。皮肉にも、これは幾世紀ものあいだ燻り続けていたガリカニズムを燃え立たせることになった。なぜなら、かれらはかねてから「フランスにおける教会」ではなく、「フランスの教会」を打ち立てようと考えていたからである。教区の数は134から83に縮小され、いままでコンドム教区に属していたフガロールは、アジャン教区に併合された(110)。
11月(1790)、司牧にあたるすべての聖職者は、この民事基本法に忠誠を誓うように要請された。これにより聖職者の身分は、事実上、民間の役人になった。フランスの教会は二分され(111)、この誓約を行って報酬を政府から受けとる司教・司祭(「立憲派」constitutionalsとか「宣誓者」jurorsとよばれる)と、この宣誓を非合法であり非倫理行為である考えて忌避した聖職者(「忌避派」recalcitrants とか「非宣誓者」non-jurors とよばれる)に分かれた。
忌避派は、これ以降、公に聖職を行使することを禁止された(112)。しかし、事実上この新しい法令に従った者は数少なく、当時10万人いたと考えられる司祭のうち、その半数を割っていた。司教にいたっては、135人(113)の中からごく僅かしかこの法令に従っていない(114)。
フガロールのサン・シル教会の主任司祭は宣誓者であった。またアジャンには、以前ドミニコ会の修道士であった(115)新しい「立憲派」の司教が着座した(116)。事実、それ以降、アジャン教区ではフランスのどの教区よりも宣誓者の比率が多くなっている(117)。
フガロールの教区民にとっても、シャトーの人たちにとっても、他の多くの人たちと同様に、かれらの関心は、いわゆる「立憲派聖職者」が執り行う聖祭にあずかり、秘跡を授かることが今後とも許されるのかどうか、という点に向けられていた。宣誓者は正しいカトリックの司祭なのであろうか。あるいは、 ー 多くの司教が云っているように ー 教会をコントロールしようとする反聖職者主義の非合法的な政府に忠誠を誓うことであり、合法的な教権から逸脱し、教皇に背反する離教者ではないのか。これは、トランケレオンの人たちにとっても切実な問題であった。主任司祭も新しい司教も宣誓者であったからである(118)。
フランスの教会は、その後長年の間、革命が終わった後でさえも、この分裂に苦しむことになる(119)。この混乱期には、忌避派の司教や司祭たちは、反聖職者主義がもっとも鎮静化している時でさえも、聖職をつかさどることが許されていなかった。また、もっとも峻烈をきわめた時期には、文字通り死の恐怖にさらされ、追放に駆り立てられたのである。
しかしながら、宣誓することが事実上離教行為であり、宣誓者は教会に背くことになるとの宣言が教皇ピオ6世によって発布されたのは(120)、やっと1791年4月13日になってからのことである。この公式宣言によって、悪意を持たずに宣誓を行っていた司祭たちの間では、誓約を取り消すものが現れた(121)。
この教皇の宣言にかんする情報が徐々に人びとの間にひろまり始めると、宣誓者が執り行う聖祭をボイコットし、かれらの手から秘跡を受けることを拒否する教区民があらわれ始めた。もちろん、かれらはそうすることによって政府の手先から疑われ、愛国者を自認する教区民や近隣の人びとから非難攻撃されることになった。ある時は、群衆や怒り狂う市民たちの襲撃の犠牲者になるものも現れた(122)。しかし、トランケレオンの聖堂では、非宣誓派の聖職者も、比較的内密に、安心して聖祭を執り行うことができた(123)。
貴族に打撃を与え、聖職者を攻撃し、教育を弾圧した政府は、次にその矛先を男女の修道会に向けた。1791年2月、政府は修道誓願の無効を宣言し、事実上存在しないものと見なすと宣言した。そして、ゆくゆく行われるであろう押収に備えて、すべての修道会に、その建物と領地と財産の台帳を作るように要求した。こうして公表されたすべての財産は、国家(la Nation)の財産と宣言されたのである(124)。
すでに1789年7月の中旬までには、王制派や貴族に加えて、新政府に批判的な立場をとる多くの人たちが、フランスを背に亡命の道を歩んでいた。しかし、そのような人たちも、この混乱は数カ月そこそこでおさまるであろうと簡単に考えていたようである(125)。
1791年6月、ルイ国王は変装して国から脱出しようとした。この逃避行を促した理由の一つは、民事基本法を可決しなかったことへの良心の呵責があったのかも知れない。国王はよわい性格の持ち主であったが、非常に宗教心の厚い人でもあったと云われている(126)。しかしながら、国王はその亡命の途路、群衆にみとがめられて逮捕され、投獄されてしまった(127)。こうして国王は、亡命しようとしたばかりに、民衆の支持を完全に失ったのである(128)。
フランスの国外では、亡命王制派の人びとが、当時のフランス社会を動かしていた革命勢力をくつがえそうとして虎視耽々とその機会を狙っていた。かれらはヨーロッパの諸王朝と手を結んだ。それは、ヨーロパの諸王朝が一つにはフランス国王に同情していたからでもあるが、同時にまたフランスの革命の手が自国に波及して来るのを恐れたからでもあった。
1791年11月、男爵も国王の復権運動に荷担することを決意した(129)。近衛軍団の士官であった男爵は、亡命先で再編成される近衛軍団に(130)自費で参加しようと決意したのである(131)。こうして男爵は、妊娠七ヶ月の妻と家族を故郷に残し、国王の従兄弟プリンス・ド・コンデが組織するラインランドの攻略軍に参加した(132)。
フランスにたいする厚い忠誠心を抱いていた男爵は、代々国王に仕える家系に生まれていたことと、母国の将来を憂慮する気持ちとから、他の人びとが自分の財産と命を賭けて戦っている時に、手をこまぬいて見ていることができなかったのである(133)。こうして2才半になるアデルは、そのいとこの言葉をかりて云うならば、「父親のいない孤児」(134)になった。
それから二ヶ月後、アデルに弟が誕生した。1792年1月26日、聖ポリカルポの祝日のことである(135)。父親は戦いに出て不在であった。この戦いで王政の復興を目指した男爵の軍隊は東からフランスを攻めたが、結局は失敗に終わっている(136N16)。
弟は生まれたその日、フガロールの立憲派司祭ジャン・サン・マルタン神父(JEAN SAINT-MARTIN)によって洗礼をほどこされ(137N17)、シャルル・ポリカルプ(CHARLES-POLYCARPE)と命名された(138)。
パリの事態は急速に進展した。(1792年)4月、立憲議会( CONSTITUENT ASSEMBLY)に続く立法議会(LEGISLATIVE ASSEMBLY)は、すべての地方自治体にたいして亡命者の領地と財産の完ぺきな財産目録を提出することを命じ、これを押収する法案を可決した。これは、亡命者のすべての土地と財産を最終的に国家(LA NATION)のものにするための地固めであった(139)。こうして亡命者は、永久に祖国フランスに帰ることができなくなった(140)。亡命者を親戚にもつ者は、社会的な制裁を受けることになった(141)。それは、かれらが国家存亡のときに母国を捨てた裏切り者と見なされたからである(142)。
男爵の名は、ネラック(NERAC)の役所が作成した亡命者リストの10番目に記載されていた(143)。男爵の名がこのリストに記されていたのは、フガロールがネラックの管轄下におかれていたためであり、また、ネラックに男爵所有の土地があったためでもある。5月19日、検査官は役人とともにシャトーを訪れ、命令どうりに住まいとそのすべての別館を財産目録に記載した。この財産目録はあきらかに形式的なものであり、シャトーの部屋数とその家具が記されたのみで、きわめて大ざっぱなものであった(144)。
立法議会では、反聖職者主義の過激派が、日に日にその勢力を強めつつあった。貴族と聖職者からの報復を恐れ、外国勢力による共謀を恐れたかれらは、それを理由に、さらに強硬な手段をとるようになった(145)。5月、立法議会は、すべての忌避派聖職者を、たとえ公に聖職を執行していなくとも、20人の市民が告発したならば強制的に国外に追放することを決議した(146)。法律が次つぎに過激になるのをみて態度を硬化させた国王は、この法令の裁可を拒絶した。しかし、その反動は峻烈を極めた。6月にはチュイルリー宮殿が襲撃され、国王は全ての権限を剥奪された(147)。そして家族とともにパリの牢獄「テンプル」に投獄されたのである(148)。
一揆、暴動、殺りくがパリ市内に横行した。司祭、貴族、王制派が虐殺された(149)。あるものは投獄され、あるものは国外に追放された(150)。暴力は僻地や地方にも広がった。7月にガロンヌ沿岸のポール・セント・マリに近いクレラック(CLAIRAC)で、ド・ラルティーグ(DE LARTIGUES)神父が熱狂する民衆から拷問を受け、殺りくされた事件は、当時の状況を雄弁に物語っている。
この神父は多数の慈善事業を創始し、人びとを支援してきた人物であった。この町からわずか10キロも隔たぬトランケレオンやフガロールの住民たちにとって、この事件がいかに大きな恐怖と狼狽を与えたかは想像に難くない(151)。
8月、フランス全土の修道者が、男女の区別なく修道院から追放され、財産は押収された。この直接的な影響はトランケレオンにもおよんだ。
修道者の中で、宣誓派には政府からの年金が支給されたが、忌避派は自活の道を選ばなければならなかった。従って、当時のフランスにおける修道者のおおよそ半数の者が政府の要求に屈服したのも無理はない。中にはこれを口実に、よろこんで修道生活を捨てる者もいた。この傾向は特に男子修道者のあいだに強く、多くの人が立憲聖職者の身分を選ぶことになった。女性の場合は、一般的に、修道者としての召命に忠実なものが多かったようである(152)。
たとえばマダム・パシャンの場合、かの女は誓約を拒絶している。しかし、かの女はトランケレオンに身を寄せることができた(153)。プルイヤン(PROUILLAN)にいた二人の男爵の妹も誓約を拒絶した。マドモアゼル・トランケレオンとして知られていたアンヌ・アンジェリック(ANNE-ANGELIQUE, MADEMOISELLE DE TRANQUELLEON)は、当時31才であった。かの女は1784年に修道院に入り、すでにこの頃には修道誓願を宣立していた。マダム・ド・ロルム(MADAM DE LORME)として知られたアンヌ・シャルロット(ANNE-CHARLOTTE)は23才で、修練女にすぎなかった。この二人も、いまは修道院を去らねばならず、二人はコンドムに移り住み、そこでこれから襲い来るであろう混乱の年月を過ごすことになるのだ(154N18)。
二人の住んでいた修道院は押収されて、最初は騎兵隊の兵舎となり、40人の兵士と400頭の馬が収容された。後日この建物はスペインの捕虜収容所となり、その後、大砲の貯蔵庫となった(155N19)。
1792年の9月と11月の二回にわたり、男爵の所属する王制派の軍隊は(156)、オーストリアとプロシアのあとおしを得て、フランスの革命軍と戦火を交えた。しかし、この試みは二回とも失敗に終わった。軍隊は解散させられ(157)、男爵は英国に亡命した。ここでかれは再起の日を待つことになった。革命軍に矛先を向けた男爵は、かくして国家(LA NATION)の敵となったのである。
ロンドンでの男爵は、母方の伯父モンペリエ(MONTPELLIER)の司教ド・マリッド (DE MALIDE)の元に身を寄せた。立憲派の司教に座を奪われたド・マリッド司教は、すでに一年前、ロンドンに亡命していたのである(158)。今では遠い昔のように思われるが、この伯父がマリ・ユルシュール・ド・ペイロンネンクと男爵との結婚式を祝別してくれたのであり、それは僅か5年前のことであった(159)。1812年、ド・マリッド司教は亡命先のロンドンでこの世を去っている(169)。
困惑、恐怖、混乱、嫌疑、暴力、そして何にもまして巷の噂がフランス全土に広がった。脱獄した囚人、失業した労働者、不満を抱く農民。かれらは地方をはいかいし、町では一揆を起こした。政治的な一揆があり、経済的な一揆があり、そして、単なる暴動もあった(161)。貴族や王制派の人びとは身をかくし、ときには何週間も明りを消して、ひっそりと過ごすことがあった(162)。リオンの保守派や絹で儲けた商人たちは、自分たちに不利にはたらく革命に抵抗した。軍隊は二ヶ月のあいだリオンを包囲し、住民は餓死寸前の状態に追い込まれた。そして最終的にリオンの町は占拠され、町は半壊し、市民は虐殺されたのである(163)。
1793年1月21日、国王は、議会で可決された法案に裁決を下すことを拒否したかどで反逆罪にとわれ、処刑された。フランスの貴族階級、ヨーロッパ諸国の王室、数多くの民衆、そしてトランケレオンのシャトーに住む人たちは肝を冷やした。かれらが受けたショックには、計り難いものがある(164)。