年次の黙想 / 21年8月シャミナード神父の訪問
創立者の一員ロロットの入会
物資の不足 / 入会・退会の規則
諸徳の体系 / メラニと沈黙/SOEUR DU PETIT HABIT
1821年7月、アデルは、新しい住居に移転してから最初の年次黙想と誓願の更新を準備していた。かの女が指摘しているとおり、今年で誓願宣立四周年記念を迎えるのであった(1)。
アデルは黙想のスケジュールと、共同体の祈りや食事や償いにかんする指導方針をスール・テレーズに送った(2)。
この黙想中は、外部との仕事や訪問客の応接は、すべて停止しなければならない。修道女は、共同体でおこなう行事以外の時間には、自由に読書をしたり、祈祷や念祷、労働に従事することができた。
トナンでの告白は、この黙想の週間中、ラリボー神父が聴いてくれることになった。また、ラリボー神父は、教会の長上として公式に誓願の更新を受けいれることになった(3)。
アデルはトナンの修道女各員に、個別に挨拶文を送り、この黙想から実り豊かなお恵みを得ることができるように祈ると述べ、長上としてのテレーズには、自分が望んでいるような黙想ができないかもしれない、と、予め注意しておくことも忘れなかった。長上であるかの女は、もはや自分のものではなく、姉妹たちのものであり、姉妹たちの必要性を満たすための者となったのだ。シャミナード神父のように、沢山の心配事を抱えていながらも「つねに神との一致の内に過ごす」ことができるように努力しなさい、と勧めている(4)。
アデルも、シャミナード神父も、ロロット(5)とメラニ(6)が、7月22日に開始されるアジャンの黙想会に参加することを希望した(7N140)。
シャミナード神父は、この7月の末、シスターたちの黙想が終わった頃にアジャンを訪問し、いろいろの用事を済ませようとスケジュールをたてていた(8)。アデルは、シャミナード神父が自分たちの誓願の更新を受けてくれることを期待していたので、この計画には少々落胆した。そこで、シャミナード神父は、アデルを喜ばせるために折衷案を出した。それによると、ラリボー神父(9)(と、当然のことムーラン神父も、と考えられるが(10N142))が、黙想の終結にあたって公式に誓願の更新を受けるが、シャミナード神父が訪問した際は、形式よりも内心の熱意を大にして第二の更新を各修道院でおこなうことにするというものであった(11)。
シャミナード神父は、自分の訪問を前にして、アデルと二つの共同体に、あらかじめいろいろな準備をしておくように希望した。その準備の仕事の一つとしてシャミナード神父が修道女に要請したのは、三部門の記録書を要約したレポートを作成しておくことであった。そして、このレポートでは、各修道院の人事、風紀、霊性、財政、ならびに、物的な諸用件を網羅することになっていた(12)。同様のレポートを、ソダリティも作成することになった。
先にアジャンに来ていたモニエ修道士は、このレポートの作成を助けるために、シスターたちが必要事項を記入さえすればよいような書式を作成してくれた(この用紙は、後日使用するための参考として保管された)。
このように準備することで、シャミナード神父は、その要約の中に、アデルの配下にあるすべての人の長所と短所、功績と落度を見ることができた。すなわち、単にシスターの実状を知るだけではなく、修道院と常日頃関係のある人びと、すなわち教室や仕事場、ソダリティの女子青年部と婦人部、ならびにアジャンが関係している他のソダリティのグループに関与するすべての人びとのことを知ることができたのである。
アデルは、このレポートにかの女自身の見解を付け加え、勧告をも付加した(13)。
修道女が新居に移って二ヶ月過ぎたその年の11月、男子マリア会の修道士が空き家になった「避難所」に移り住んだ。シャミナード神父はこの男子マリア会修道士にかんしても同じようなレポートを準備しておくように、とアデルを通してモニエ士に依頼している(14)。ところで、アンスティテユ(修道会)の男子部であるこの小さな共同体は、多様化したソダリティの各種の業務を指導していた。それは、1820年以来、男性が公に団体を組織することをアジャン市の議会が許すようになっていたからである(15)。
この共同体の4人の修道士(そのうちの一人はいつも病気がちであった)は、230人の生徒をもつ学校を立派に運営していた(16)。アジャン市の男子校の評判は遠くまで聞こえ、いまでは各地からブラザーの派遣を要請してきていた(17)。
ルイス・ロテア修道士(18)に伴われたシャミナード神父は、先ずトナンに短期間立ち寄った。このとき、一行はおそらくド・ラコサード氏の家に宿泊したと考えられる(19)。シャミナード神父は、一日を修道院で過ごし、その後ド・ラコサード氏と、氏が提案していた少女のための寄宿舎学校について意見を交換しあった(20N142)。その後、シャミナード神父は、8月1日、トナンから新しい志願者スール・アデレイド(21)(SOEUR ADELAIDE)を伴ってアジャンへ出発した(この志願者は、まもなく重度の肺病の症候を示したため、家に帰った(22))。
アジャンについたシャミナード神父は多忙を極め、到着後三日たっても、アデルと個人的に話し合う時間がもてなかった(23)。アジャンに滞在した2週間のあいだに、シャミナード神父が共同体に講話したのはわずか6回にすぎなかった。しかも、この講話は、夕食後に行われたものである。師は、長時間を修道女や修道士の志願者との面談に費やした(24)。しかし、師は女子修道院の評議会に出席し、評議員達が行動に際して十分な信仰を動機としていないことを叱責している(25)。
シャミナード神父は、8月15日のトナンでの誓願更新に立ち会うはずになっていたが、アジャン訪問が長引いたため、間に合わなかった。シャミナード神父がトナンに着くのは18日土曜日の夕刻になるだろう、とアデルはテレーズに手紙で知らせている。そして、その翌日の日曜日の朝は共同体での誓願の更新を、夕刻にはソダリティの入会式をおこなうことになった。ラリボー神父との会談は月曜日に予定された。アデルは、また、テレーズに助言して、修道女の個人面談の時間をとるためには、コンフェランスに長い時間をあてないで、ミサのあいだに説教をしてもらうように依頼するのがよいだろう、と助言している。
アデルが述べているように、シャミナード神父は、あまり修道女たちのために時間をとることができなかった。しかし、「もし、神父さまが他の人たちと話し合うことにって、より大きな善をなそうとお考えであるならば、わたしたちはそれで満足しようではありませんか」とアデルは述べている(26)。
この三週間のアジャン訪問のあいだにシャミナード神父がしなければならないことが沢山あった。その一つは、ロロットの修道院入会を助けることであった。これは長年こころに抱いていながら実現することのできなかったことである。アデルとシャミナード神父が、ロロットに家を出て修道院の友人と合流するように勧め始めてから、すでに久しい年月が過ぎていた(27)。事実、アデルもシャミナード神父も、ロロットを創立者のメンバーの一員として数えていたのだ。1814年以降、かの女は「スール・マリ・ド・ランカルナシオン(SOEUR MARIE DE L’INCARNATION)」と署名し、シャミナード神父もかの女の名前を創立者メンバーの中に加えていた(28)。
1818年10月、ロロットの弟に結婚相手が見つかったかに思われた。弟が結婚すれば、かの女がロロットに代わって家事万端をとりしることができる。このときアデルは次のように記している。
「しがらみを解き外し、世俗を捨て、黙想のできる場所に逃げてきなさい・・・長いあいだ周囲の人たちのために尽くしてきたのですから、いまこそあなた自身の生活を送るときが来たのです」(29)。実際、ロロットは、長年のあいだ家族のすべての世話をしてきたのだった(30)。
このことがあって数カ月後の聖誕節には、あらゆる障害を乗り越えて星に従った三人の博士にみならいなさい、とアデルはロロットに勧めている(31)。
1819年の7月、ロロットは黙想に来ることができた(32)。しかし、黙想が終わると、そのまま修道院に留まらずに帰宅した。それから数カ月後、母親が病気でたおれた。またもや修道会入りは延期された(33)。その翌年、1820年、ついに弟が結婚した。シャミナード神父は、かの女に、いまこそ修道院に入るチャンスだ、とさとした。スール・デザンジュにしても両親からの執ような反対にあい、修道院入りを延期せざるを得なかったが、両親はそのような反対から何を得たのだろうか、とシャミナード神父はロロットに言い聞かせている(34)。しかし、一番強力にロロットを家にとどめておこうとしていた叔母は、もし、修道院に入るならば相続権を断ち切る、と、かの女を脅した(35)。1821年の夏、この叔母も死んだ(36)。かの女が死んだいまでは、ロロットを世間にとどめておく理由はなくなった。ロロットは33才になっていた。
シャミナード神父は、かの女にカステックスに相談するようにすすめた。カステックスは、ロロットが苦しんでいるあいだ、つねにかの女を助けてくれていた。それは、かれがコンドムのソダリティで苦しんでいるときに、いつもロロットが力になってくれたからである(37)。カステックスはロロットが修道院に出発できるように準備をしてくれた。いまや、両親から与えられたすべての条件を満たした。両親は、これ以上ロロットが「親愛なる修道院」へ行くことを阻止するいかなる理由も持たなかった(38)。実際、両親は、ある日、娘とのあつれきに腹を立てて次のように怒鳴りつけている。
「もし、どうしても行きたいのなら、さっさと消え失せてしまえばよいでしょう。でも、正式の許可は絶対に出しませんからね」(39)。
しかし、シャミナード神父とアデルは、こんどのチャンスを逃さなかった。8月、シャミナード神父がアジャンに来ているあいだに、二人は法律家であるモニエ士と相談して一策を練った。ちょうどその頃、ロロットは、いままでもそうしていたように、健康のために湯治に出かけていた(40)。今年はガロンヌ川の水源近くにあるピレネ山のバニェール・ド・ルション(BAGNERES-DE-LUCHON)へ行っていた。これはスペイン国境からわずか10キロ足らずの所にある。
8月27日、アデルは湯治場にいるロロットに手紙を書いた(41)。「9月4日の夕刻、乗り心地のよい馬車と、女子青年部の愉快なソダリスト(オフィサーの一人であった(42))がオーシュに行きます。どうぞご自由にお使い下さい」(43)。このように書き記した手紙と共に、モニエ士が作ってくれた旅行計画も添えて送った。
この計画では、少々経費はかかるが、乗合馬車を使わずにレンタルの馬車を利用することになっていた(44N143)。そうすることで、途中で止まったり、乗合馬車の停留所にあるホテルやレストランで人から見とがめられることを避けることができたからである。ロロットはお弁当を持参し、食事のために途中で下車する必要のないように気を配った。
また、このことに関しては、ロロットは誰にも知らせず、同じ温泉で湯治していたアデルのおばの耳にも入れないことにした(45)。このおばにたいしては、アデルが手紙を書いてロロットの行動について説明することにしたが、ロロットが出発してから二時間以内に、このことが絶対他人に漏れないように取り計らった(46)。
ロロットは二人の友人を伴って(47N144)、湯治場からオーシュまでたどり着いた。折からこの二人の友人は親戚の招待でディナーに出かけることになったので(48N145)、ロロットはホテルに残ることにした。そしてかの女は、自分の召使にひまを出し、単身でソダリストが待っている約束の場所に出かけた(49)。
二人は、その夜、オーシュを出発し、アジャンまでの80キロの道のりを急いだ。翌日、9月5日、ロロットは修道院に到着し、アデルに迎え入れられた(50)。このようにして、アデルは、その希望通り、アウグスチノ会の建物へ引っ越した一周年記念を、ロロットと共に過ごすことができたのだった(51N146)。
一週間の後、アデルはテレーズに手紙を書き、スール・ド・ランカルナシオンは元気に過ごしており、その召命に力強く生きている、と伝えている。しかし、ロロットの両親は、この娘の逃避行にたいして非常に心情を害し、母親にいたっては、食事を拒否し、喀血し、憂慮すべき容態に陥ったほどである(52)。
スール・ド・ランカルナシオンは修道院に書籍を持参してきた。そこでアデルは、すでに修道院にある書籍と重複したものをトナンに送り、そこに小さな図書室を作ることにした(53)。
ランカルナシオンが劇的な入会をして二カ月。シャミナード神父は、ロロットの召命はもう十分に試されたと考えて、かの女を修練院に受け入れた(54)。着衣式は1821年11月21日、聖母マリアの奉献の祝日であった。
ランカルナシオンは、長年の友であり、有能な修練院長であるスール・サクレケールの指導のもとに、修練期を送った。エミリへの手紙の中で、アデルは、10月には6人のノビスがおり、そのうちの三人は歌隊修道女、残りの三人は労働修道女になる、と述べている(55)。
この6人の中には(56N147)、テレーズ・デ・サントギュスタン(THERESE DE SAINT-AUGUSTIN)(57)、マリ・ジョセフ・フェリシテ(MARIE-JOSEPH FELICITE)(58)そしてローズ(ROSE)の三人がいた。11月になると、これにビジタシオン(VISITATION)、アンジェリック(ANGELIQUE)(59)、アントアネット(ANTOINETTE)、そしておそらくジュスティン(JUSTINE)と、それに当然のこと、ランカルナシオンが加わった。
アデルは、有能な修練院長サクレ・ケールがいることに満足し(62)、数多くのノビスがいることを嬉しく思っていた。
1821年の12月、アデルはエミリに修道院の新しいメンバーリストを紹介しているが(63)、その中でアデルは、今ではトナンを入れずにアジャンだけで数えれば「総勢24人です」と記している(64)。修道女たちの構成は次のようになっていたと考えられる(65N147)。
アジャン:
アデル(マリ・ド・ラ・コンセプシオン) ADELE
アンジェリック(ノビス) ANGELIQUE
アンヌ ANNE
アントアネット ANTOINETTE
カタリンヌ(ポストラント) CATHERINE
フェリシテ(ノビス) FELICITE
ヘレン(ポストラント) HELENE
アンカルナシオン(ノビス) INCARNATION
ジュリ JULIE
ジュスティン(?)(ノビス) JUSTINE(?)
マリ・ジョセフ(ノビス) MARI-JOSEPH
マルタ MARTHE
メラニ(ポストラント) MELANIE
ローズ(ノビス) ROSE
サクレ・クール SACRE-COEUR
サン・サクラマン SAINT-SACREMENT
サン・バンサン SAINT-VINCENT
スタニスラス STANISLAS
スザンヌ(66)(ノビス) SUZANNE
テレーズ・ド・サントギュスタン(ノビス)TERESE DE SAINT-AUGUSTIN
ビジタシオン(ノビス) VISITATION
以上の他に、新しく加わった三人のうち二人と、10月に入った名前のわからないポストラントが居たはずである(67)。
トナン:
テレーズ THERESE
アポロニ APPOLONIE
ドシテ DOSITHEE
サンテスプリ SANT-ESPRIT
セント・フォア SAINTE-FOY
サン・フランソア SAINT-FRANCOIS
ユルシュール(ポストラント) URSULE
アデルはこれらの修道女たちの上司、道しるべ、指導者として、その役割を果たし、かつ、理解を深めていった。アデルが特にその親友エミリへの手紙の中でしばしば述べているように、自分自身では、いたらなさを感じていたが、シャミナード神父の助けのもとに、徐々に増大するこの職責に応えていった。事実、いまでは二つの修道院を持ち、数多くの志願者を抱えていたのである。
アデルは、テレーズへの手紙の中で、これらの職責にかんする自己の見解を述べている。それによると、アデルはこれらの職責をテレーズに説明することによって、明らかに自分自身の理解を深めていたことがわかる。
「他の人たちをみちびくために必要な光を常に祈り求めようではありませんか。慈悲深い神はわたくしたちに大いなる職責をお与えくださいました。しかし、私たちはこれについて神のみ前で申し開きをする責任を持たされております。終わりの日にあたって<あなたさまから託された一人をも見失うことはありませんでした>と、み主イエス・キリストに申し上げることができますように。わたくしたちの姉妹各人が、その与えられた恩寵の大きさに応じて進歩することができるように励みましょう。恩寵に応えることを怠るのは、恩寵を当然のこととして当て込んでしまうのと同じく悪いことです。すべての人が同じ完成に召されているわけではありません。わたくしたちの会憲が明示しているように<小羊の玉座のみ前で異なる栄光の冠が鋳造されるでしょう>。しかし、すべての人にとって、その受ける幸福は完全なものです」(68)。
後日、アデルは、テレーズと交代してトナンの院長になっていたスール・サクレケールに、次のように書き送っている。
「賢明の徳を祈り求めようではありませんか・・・この徳はわたしたちにとって非常に大切なものです。この徳があって、はじめて、わたしたちは、神聖な賢明さと思慮分別をもって行動することができいるようになるでしょう。そして、この賢明と分別は、わたしたちに、いつ、どのような言葉を選ぶべきかを教えてくれます」(69)。
シャミナード神父もアデルを指導することによってかの女が徐々に修道会の仕事にたいして責任ある態度で接することができるように教育した。評議会に諮り、分院の院長(たち)と相談してアデルが自分なりの判断を下すように指導し、複雑で困難なケースはシャミナード神父に問い合わせるようにも指導した(70)。(1821年)8月に二つの修道院を訪問して(71)十分に満足した師は、フォロアップのために二通の手紙を送った。
そのうち最初のものでは(72)、自分の訪問がもたらした良い結果を今後とも持続する手段と方法を記し、アデルと他の姉妹たちにたいする数多くの助言を記している。
(1)すべての修道女は、生活の規則を大いなる忠誠心をもって遵守すべきこと。
(2)生活の重要な諸点、特に祈りにかんして、アデル自身が共同体に講話を行うべきこと。
(3)共同体の各員は、祈りの生活に忠実であるべきこと。
(4)共同体の修道女各員にかんする報告書をシャミナード神父に送るべきこと。とりわけ、良きにつけ悪しきにつけ、特記しなければならない変ったことが起こったときには、報告しなければならないこと。もし、アデルが考えて、その方がよいと思われるときは、本人が直接シャミナード神父に手紙を書くことが勧められること(73)、などである。
第二の手紙では、生活上の種々の点が取り上げられていた。たとえば、(師は自分自身を含めて)一日のうちに一定の時間を定めることもなく、あまりにも数多くの人に修道院の中へ入る許可を与えていたことを反省している。これは共同生活をいちじるしく混乱させることであり、最終的にはゆゆしい障害をきたすことにもなりかねない。自分がそのような許可を与えたからと云って、それが共同生活の邪魔にならないわけではなく、最終的に起こるかも知れない悪い結果を回避することになるわけでもない。だから、いまこれに気付いた時点で、将来のための何かよい薬を考えなければならない、と師は述べている。そして、アデルに、このような問題にかんするポリシーを作成して与え、いままでこれに関わった人たちを責める事なくこのポリシーを実行に移すように伝えている(74)。
またシャミナード神父は、共同体の霊的生活に直接関連することがらの他に、将来的に重大な結果をもたらす可能性のある具体的な問題点を指摘することも忘れなかった。
シャミナード神父によると、志願者が会を去るとき、以前自分が所有していた家具や衣類や金銭を返還するように求めるケースがあり、生まれて僅か4年足らずの男子マリア会では、すでにこのようなことが問題化し始めていた。このような事態を予め的確に把握しておくことはほとんど不可能である、と師は認めている。しかし、このような争いから起こる論争やスキャンダル、友愛に反する行為、ときには憎しみを、できるかぎり避けるようにしたい、と師は述べている(75)。
いままでシスターたちは、どの家具がだれのものであり、どのシスターがどれだけのお金を持参したかに関する覚書を、未整理のまま保管していた。一つの共同体の中だけならば、これでも良いかも知れないが、最終的に志願者自身からクレームされた時、もっと悪いことにはシスターの両親や保護者またはその相続人からクレームされた場合には、このような記録はなんの効力ももたないだろう、と師は述べている。アデルがしておかねばならないことは、志願者が持ち込んだ物品(それほど重要と思えないものについても)のリストを二通作り、その一通を共同体が保管し、もう一通を志願者に手渡しておくことだ、と師は指摘している。
アデルは、早速、このようなリストの作成に取り掛かかり、高価なものを持ち込んだ人や、沢山のものを持ち込んだ人を皮切りに、すでに共同体にいる人たちを対象にして、リストの作成をおこなった。ただし、自分の持ち物や家具を他の修道女(修道会は法人ではなかった)や肉親の相続人に譲り渡す遺書を作成している人はその対象外にした。こうして、志願者が共同体を離れるときには、持ち込んだすべての物を(宿泊費と食費を差し引いて)返還し、志願者は書面による受取証を共同体に渡すことになった(76)。
アデルは、また、いまではすでに第二の修道院を持つまでに発展したこの修道会の生活上の諸点を整理した。テレーズには共同体とソダリティの評議会の議事録を明確に記録しておくように指示した。採決された決議事項を明確に記録しておく必要があったからである。また、アデルは、ソダリティの入会者台帳や誓願宣立の台帳が、引っ越した後、アウグスチノ会の建物の何処にも見あたらないので(77)、「避難所」にいた当時霊生部長をしていたテレーズに、それらの台帳がどこにあるかを尋ねた。また、サクリスタンや門番、労働修道女(Soeurs Compagnes) などのために書かれた特別規則の写しも喪失していた。エンマニュエルによって作られた美しい「一般規則(General Regulations)」もなくなっていた。幸いにして、これらの写しはトナンに保管されていたため、アデルはコピーを作ってアジャンに送るように依頼した(78)。
各部門の部門長も、シャミナード神父が作成した手本に従って、台帳を記入しなければならなかった。この台帳の中には、その部門にかんすることは、すべて記録されることになっていた(79)。後日、病気になったテレーズを助けるためにサクレケールがトナンへ派遣されたときにも、アデルはサクレケールに、修練院の後継者が記録を続けて行くことができるよに台帳の記録を更新しておくように依頼している(80)。
あきらかに、当時、サクレケールは記録を更新するために台帳類をもってアジャンへ行っていたようである。アデルは、直ちにそれを送り返すように伝えている(81)。そしてアデルは、教育部長の台帳にはすべてのソダリストのリストと、その年齢、市民としての身分、そして、各人にかんするコメントを付加するように指示している(82)。
いまでは、かなり多勢の志願者が二つの修道院に入ってきたが、出て行く人の数も多かった(83N94)。アデルにとっても、テレーザにとっても、志願者を受け入れるよりは、送り出すことにこだわりを感じた。本部での財務部長をつとめていたスール・バンサンは、新しく志願者がくると、憂慮の念をもってかの女たちを見るようになった。なぜなら、今までの評議会は、不適格な志願者、とりわけ病気の志願者を断わることにどれほど難色を示したかを見てきたからであった。かの女の念頭にあったのは、多くの人たち、なかでも、スール・アンジェリックの問題があった。
8月にシャミナード神父がアジャンを訪問したとき(1821年)、ポストラントであったアンジュエリックは病気であった。そして、かの女を家に返すべきかどうかについて話し合った。その当時、シャミナード神父は、アンジェリック自身にも、また、評議会にも、かの女は修道会に適していないと話していた。しかし師は、いましばらく修道院に留まって、かの女の病気が良くなるかどうかを確かめることに同意した。しかし、かの女が快復するとは考えていなかった。
後日、シャミナード神父は、修道院から送られてきた書類に基づいて一人の志願者を修練院へ受け入れる許可を与えた。その際、それが同じ少女アンジェリックであるとは知らなかった。スール・サンバンサンは、このシャミナード神父の一貫しない態度を指摘した。師は、その少女が同一の人物であることを知らなかったと説明し、願いを出したのが同じ少女であることを知っていたならば、決して許可を出さなかったであろうと述べている。そして、今後の報告書類は、もっと、明確なものにしなければならない、とも述べている(84)。
このできごとがきっかけになって、シャミナード神父は一つのガイドラインを作り上げた。もし、志願者の意向が正しく、必要とされる条件を満たしているならば、そのような志願者を受け入れることに躊躇すべきではない(85)。しかし、実績からみて修道生活に適切ではないことが明白であるならば、そのような人たち(特にポストラントとノビス)を退会させることに躊躇があってはならないとした(86)。もし、明白に適性のある人であれば、いくらかの時間、ときには一年でさえも、を与えて欠点を克服させるようにする。しかし、これはあくまでも例外措置でなければならない、とも述べている。サクレケールは、判断力よりも、慈愛のこころを優先させるのではないか、とシャミナード神父は憂慮していたのである(87)。
肉体的な病気にかんしては、受け入れる前に十分注意を払わなければならない。もしこの点で誤るとか、故意にひとを騙すようなことがあるならば(あきらかにカタリンの姉妹スール・スザンヌの場合はそうであった)、慈悲のこころと賢明さの観点からどのように考えられようとも、そのような志願者は送り返すべきである。修道院は不治の病にかかった人たちの病院ではないのだ、と師は指摘している(88)。しかし、その反面、志願者が経済的に乏しくても、もしその人が本当に将来有望な人物であるならば、入会を阻止すべきではない、と述べている(89)。
シャミナード神父は、サンバンサンに宛てたアンジェリックとスザンヌにかんする自分の手紙が、あまりにも強引なものではなかっただろうかと考え直した(90)。そこで師は、アデル宛ての手紙にサンバンサン宛ての手紙を同封し(91)、それをサンバンサンに手渡すべきかどうかは、アデルの判断にまかせる、と述べている。
労働修道女は、シャミナード神父に宛てた1822年の新年の挨拶の手紙のなかで、自分たちの霊生の進歩に必要なある種の気構えを修得することができるように祈ってほしい、とお願いした。師はこの手紙にたいする返信のなかで、1月14日から20日までの一週間、そのような意向で祈りを捧げるので、これに参加するように、と述べている。この祈りは次のような要領で行われた。
月曜日は、各人の、より大いなる謙虚のため、火曜日は、実践的な従順。水曜日は、労働を愛するこころ。木曜日は、歌隊修道女にたいする尊敬心。金曜日は、自分たちの一致のため。土曜日は、お互いの欠点を忍び合うこと。日曜日は、感謝の祈りであった。シャミナード神父は、これらの意向に従って、毎日、どのような祈りを唱えるべきかを指摘し、師自身も忠実にこれを実行するように書きとどめておく、と約束している(92)。
この同じ機会に修練女に宛てて書かれた手紙で、シャミナード神父は、いつの日か、すべての修練女がマリアとともに小羊に王冠を捧げるおとめの群に加えられますように、と祈っている。そして、また、いつの日か、みなさんを訪問して力づけ励ますことができるだろう。それまでは、会則を忠実に守り、とりわけ霊的生活を助長させるような基本的な諸徳の修得に励みなさい、と述べている。
シャミナード神父の説明によると、これらの基本的な諸徳は三段階に組み立てられていた。すなわち、「準備の徳」。これは偉大な聖人を作り上げた諸徳である。次に、「浄化の徳」。これは「選ばれた人たち」に与えられた諸徳である。最後に、「完成の徳」。これはイエス・キリストとマリアの諸徳である(93)。
一年前にアデルがメラニに伝えているように、この修道会において、この浄化の徳は、修練院のプログラムの基本的な骨子をなしていた(94)。メラニは家族が住んでいる地方でソダリティに全力を注ぎ、素晴らしい成果を上げていた。ポーでは、宣教説教師と協力してソダリティのグループ形成に尽力した。その結果、80人の女子青年部門の会員と、60人の婦人部門の会員を入会に導いた。
この時、司教自身が出て来てかの女たちに訓話を与え、メラニを女子青年部の長に任命し、婦人部の長に、信心深い未亡人を任命した(95)。
アデルは、メラニによるこの成果に非常に満足し、今後も支援を送り必要なアドバイスを行うことを約束している(96)。しかし、同時にアデルは、敬愛するスール・クサビエ(Soeur Xavier)ことメラニが、一日もはやく修道院に入る日が来ることを期待した。
メラニはすでに「沈黙の徳」の修得に励んでいたが、それを伝え知ったアデルは、大きな喜びをあらわしている。しかし、メラニにたいして、この修道会では「五つの」沈黙を修得しなければならない、と教えている。すなわち、言葉の沈黙、身振り(態度)の沈黙、精神の沈黙、想像の沈黙、そして、情緒(情念)の沈黙である。この沈黙を簡単に説明したのち、これらの沈黙の徳を一度に全部修得できるものではないと強調している。むしろ、一つ一つを修得するように提案し、とりあえずは言葉の沈黙から始めるように助言した(97)。
後日、アデルは「精神の沈黙」の修得をメラニに勧めている。これは、ある一定のあいだ、とりわけ、洋服を着たり脱いだりするような、あまり注意力を必要としないときに、精神を特定の考えに集中させることで修得するものである。このような練習をすることは、朝の念祷を準備することにもなる。霊的に成長しようと真面目に考えている人にとって、この五つの沈黙は非常に大切な手段である。聖なる人たちは、立派にこれを修得した人たちだ、とアデルは付言している。だらしのない微温な人はこれらの沈黙をほとんど修得しないか、たとえしたとしても、非常に不完全なかたちでしか修得していない人たちである、とも述べている(98)。だからこれらの沈黙を修得することは、メラニの使徒活動におおきな活力を与えることになるはずだと述べている。
数カ月のち、アデルはメラニにたいして、他の「準備の諸徳」、すなわち予備的な従順の徳(従順のこころがけ)を修得するようにとメラニに提案している。これは、それがたとえどんな些細な行為であっても、他者の判断に自己の意思を従わせることに同意することであった(99)。
この修道会では、これらの諸徳の修得は決して初心者だけに課せられたものではなかった。アデルは、誓願を宣立した修道女にたいしても、これらの諸徳の実践を勧めている。たとえば、ドシテが憂欝と落胆に打ちひしがれていたとき、精神を三つの要素、すなわち「浄化の徳」の三つ:人間的よわさ、悪い傾向(過失の根源)、不安感(フラストレーション)からの克服を、一つ一つ修得して行くようにと勧めている(100)。
後になって、アデル自身がもっと経験を重ねたのち、これらの諸徳にかんする要約を、とくにノビスの教科書として書き記した。アデルが記したこれらのテキストがシャミナード神父とカイエ神父(Caillet)(女子マリア会の修練院がボルドーに移転してから、師はその補佐をしていた)の承認を得てからは、女子マリア会と男子マリア会にとって、クラシックな文献として取り扱われるようになった(101)。
アデルは「精神の沈黙と想像の沈黙」の修得に磨きをかけようとしていたことは、誰の目にもあきらかなことであった。それは、数多くの心労がかの女の胸に洪水のように押し寄せていたからである。セレスチンとアッソンプシオン、そして、アンジェリックの問題が終わると、ローズの問題があり、そのほかにも「これに似た数多くの問題」が起こった(102)。
アデルのエミリとの文通が度重なるにつけ、アデルは次第に自分の苦しみをエミリに明かすようになっていった。たとえば、ある時、ひとりの修道女(おそらくサン・サクラマンと思われる)の行動が、アデルをひどく悩ませるようになった。この修道女は「熱心な天使」のようであったが、かの女の考えはとりとめもなくさまよい出すことがあった。これは、ひょっとして、以前、かの女が霊的生活の成長をあまりにも急ぎすぎて焦ったことがあったが、今では、もう何もしなくなったためではないか、とアデルは考えた。かの女の考えが「早く元通りに戻ってくれるように」祈って下さい、とエミリに書き送っている(103)。しかし、6カ月たったのちも、この修道女には、まだ快復のきざしはみせなかった(104)。
もう一人の修道女は、ひどい誘惑の犠牲となった。アデルはかの女がこのような環境の中でどのように振舞うべきかの知識も徳も持ち合わせていないことに気が付いた(105)。しかし、アデルは、このような助けを必要とする人たちにたいして、自分たちの聴罪司祭が素晴らしい助言を与えてくれることを知っていた。
共同体にとって、ローモン神父は非常勤の聴罪司祭であったが、このころ(1822年)には、常勤の聴罪司祭になり、ムーラン神父がガーデル神父に代わって大神学校の校長に任命されていた(106)。
一方、シャミナード神父もアデルを助けるように努力した。師自身が有益と思い、かつ、修道女を指導する上でアデルに有益であり識別力を養うであろうと思われるいくつかの原則を要約して送ったりもした。それは、アデル自身が、自分に与えられた恩寵にたいして責任をとり、かの女自身をも浄化するであろうこのような逆境において、それを十分に活用するように、と師は考えたからである(107)。
また、シャミナード神父はアデルに忠告し、ひどく興奮している人や感情的になってこころを乱している人、危機のまっただ中にいる人たちに、冷静にものごとを考えさせようとしても無駄であることも教えた。むしろ、その状態がいくらか静まるのを待って、その後で、修道会はけっしてそのような振舞いを大目にみることはない、と、きっぱり言い渡すのがよいだろう。また、もし、その修道女が自分の過ちを矯正する意思のないことが明確になれば、いつでも修道院を離れることができるようにしてあげるべきだ、とも述べている。また、それとは反対に、もう二度と同じ過ちを繰り返さないと約束し、自分を失うようなことはありませんと云うならば、もう一度チャンスを上げなさい。いや、さらにもう一度のチャンスも与えるべきかも知れない。しかし、三度の過ちがあるならば、もはや大目にみてもらうチャンスはないことを理解させる必要があるだろう、と教えている(108)。
このようなケースにたいして二度、三度と忍耐を示す必要があるのは、一般にこのような人は、たとえ自分を失うような行動に出たとしても、その間、ある程度までは自分をコントロールするだけの自由を持っているからである。そして、このような状態にあった人が、禁止され、思いとどまるように命令されただけで、そこから抜け出すことのできたケースを、自分自身も、また他の指導者も、幾度か経験している、と教えている。
このような犠牲者は、惨めな危機状態にある人でも、発作のあとで、自分のこころには自由が残されていたことを認めており、このような「発作」を決して好んでしているのではないことを認めている。事実、時には自分の意思でコントロールしながら行うゲームのようなものであったり、意地悪行為であることもある。これを性格からくる悪い癖と呼ぶか、もしそれを誘惑する悪魔の計略と呼びたければそれでもよい。大切なことは、長上がこのことに気付いているということを本人が意識しているかどうかだ(109)。
アンジェリックのように、気を落しがちですぐに腹を立てるような性格の人は、もし、その欠点を早期に見いだすことができれば、矯正することができるものだ、とシャミナード神父は自分の経験から述べている。しかし、その場合、当人が基本的な強さをもつ性格の人であり、与えられる指導に身を任すことのできる人である必要がある。まず第一に、そのような人は、自分の問題点の性格を的確に教え示される必要があり、それを治す力は自分自身のなかにあることを確信させられなければならない(110N148)。他から「矯正される」ことはできないが、自分で治すことはできる。そのような人が、外部から与えられるプレッシャーに応えることはない。このような人には、自分自身をよく知り、欠点を認め、肉体的におよぼす影響を認識することができるようにして上げなければならない。そして、その人の力の範囲内で立ち直るための方法を見つけさせて上げなければならない、とも教えている。そして師は、「だれがもっと忍耐しなければならないのでしょうか。長上でしょうか、それとも、目下の人たちでしょうか」(111)と皮肉混じりに付け加えている。16才になるマドモアゼル・ガイエ(MLLE GAYET)という女性をシャミナード神父はインタービューし、入会を受け入れた(112)。しかし、この女性も同様の性格を持っていた(113)。後日、かの女は考えを変えてプレゼンテイション修道女会に入ることになったが、それでよかったのだ、とシャミナード神父は述べている(114)。
強情で反抗的な人や、非協力的な人は、かれら自身が改善しようとする動機付けをもっていないことに、その一番おおきな難しさが潜んでいる。そのような人が、より大きな信仰をもって生きるように少しづつ導くべきである、とシャミナード神父はアデルに勧めている。なぜなら、信仰そのものは、強力な動機付けとなるからである。
アデルとサクレ・ケールにたいしては、大聖女テレジアの良き手本に倣うように勧め、人びとの性格は多様性をきわめていること、そして、それぞれに弱さがあって、それを癒すための薬が必要であることを十分に学びとるように、と教えている。非常に難しいケースで、さきに述べたガイドラインだけでは不十分であると思われる場合は、自分と相談してくれるように、とも付け加えた(115)。
アデルも修練院長も最善の努力をつくしたが、アンジェリックはその努力に応えてくれなかった。エミリ・ド・ロダは、1822年7月に、ほんの短い間かの女にあっただけであったが、かの女に召命があるとは思えなかったと述べている(116)。8月、シャミナード神父は、アンジェリックをもって、一つの手本を作ってはどうかとサンバンサンに提案している。ところで、アンジェリックの名前は、かの女にはまったくふさわしくないものだった。かの女は余りにもかんしゃくが激しく、気移りが激しい。アデルはかの女を退会させるべきだろう。もっとも、その場合は、できる限りやさしく、親切にしてあげるべきだ(117)、と述べている。
それから一ヶ月がたった。(かの女が退会すべきだと決定してから、すでに一年をオーバーしていた)。しかし、まだ、アンジェリックは会にとどまっていた。シャミナード神父は、これにたいして、疑問を投げかけている。もしかの女の態度が変わったとするならば、いったい何が原因で変わったのだろうか。もし信仰が原因で、神がかの女のこころに触れられたのならば、もう少しかの女に時間を上げるべきだろう。しかし、もし退会させられることが恐くて態度を変えたとするならば、これ以上かの女に居ることを許すべきではない(118)。
このようなケースを取り扱うときには、次のような手順をふむべきだ。まず、一人の長上がその志願者に、あなたはこの会の生活を送るには不向きであること、そして、自分からすすんで会を去る方があなたにとって良いこと、また、外部で生活するために助が必要であるならば、修道院が助けて上げること、を話して聞かせなければならない。そして、志願者が退会を決心したならば、できるだけ早く、しかし、静かに、かの女を去らせるべきだ。その志願者が退会させられたのだという噂が広がらないように、できる限りの努力をするべきであろう。適性をもたない志願者がこの退会の案に合意しなかった場合は、志願者を受け入れるのがアデルであるように、退会させるのもアデルの義務である(119)。
今度のシャミナード神父の言葉は効を奏し、二週間のうちにアンジェリックは退会した(120)。しかし、この時シャミナード神父はアンジェリックにたいして、もし誰も反対する人がいないなら、いま計画中の第三在俗修道会にはいることも不可能ではないことを示唆している(121)。
アデルは、志願者の心理的・霊的成長のほかに、身体と知的教育の必要性を感じていた。この点にかんしてもシャミナード神父は長年の経験をいかしてアドバイスを与えている。
病弱な人は入会させてはならない。とりわけスール・コンパニュ(労働修道女)になろうとしている人の場合はそうである。共同体の食事について行けず、また、共同体の生活の規律について行けないために、例外や規則の緩和をしばしば受けなければならないような志願者や修練女は、会にとどめて置くべきではない。このような人は、どれほど信心深くても、他に場所を求めるべきだ。女子マリア会の修道女たちは、強度な活動生活を行うように召されており、そのためには健康と力が必要とされている(122)。
アデルは、トナンでも、何人かの志願者の不適性であると判断されながらも、まだ退会させることができず、不必要に修道院にとどめていることを知って、困惑した。「これはわたしたちの修道会がもつ災難の一つです」とアデルはマリ・ジョセフに記している。病気は、とくに労働修道女のあいだでは、おおきなダメージを与えた。もしトナンでこのような状態が続くなら、これから入会者を受け入れるときは、(アデルは)もっと厳しくするだろう。共通善は特定の志願者の特殊な恩恵に優先しなければならない、とアデルは結論付けている(123)。
シャミナード神父は、ブラザーたちの間で起こった不幸なノビスを例にあげて、アデルに教えている。このノビスはサン・ルミ(SAINT-REMY)に新しい共同体を作るために派遣された先発隊の一員であった(124N49)。このノビスは病気をもっていたが、家族にもそれを隠していた。サン・ルミへ旅行するあいだ(約2週間かかる旅行であった)(125)、かれは他の修士たちの大変な重荷となった。かれは長生きしないだろう。いや、もう死んでいるかもしれない、とシャミナード神父は述べている。かれの入会は、家族の責任でもなければ、修道会の責任でもなかった。かれが病気であることを知る由もなかったからである。もし落度があるとするならば、自分にあったのかも知れない、とシャミナード神父は述べている。それは、この若者に会ったとき、医者に送った方がよいのではなかろうかと、ふと思ったことがあったからだ。しかし、そのノビスの外貌は健康そうに見えたため、そのままにしたのだった(126)。
志願者の知的教育にかんしては、修道女たちは修練期を始める前に、一般の基礎教育を履修し終わっていることを原則とする、というのがシャミナード神父の考えであった。従って、修練期には宗教教育に専念し、善徳の修得と信心業に専心し、労働に従事すべきである。しかしながら、もし、あるノビスに、さらに育成し開発すべき能力や才能を見いだした場合は、教育を授けるかどうかを修練長が決定すればよいだろう。教育部長との協議のうえで、長上は必要な手配をする。しかしながら、本質的な点すなわち真の修道者としての養成を危険に曝さないように注意しなければならない(127)。
以上のように述べる中で、シャミナード神父は、三部門の相互作用についての説明を修道女たちにしている。教育部長(スール・エンマヌエル)と労務部長(スール・サンバンサン)は、両人ともノビスの養成において、勉学の指導と業務の指導を行う役割をもっている。しかし、一人のノビスがどのくらいの時間を勉学や労働につぎ込むべきかの決定は修練長の肩にかかっている。修練長は院長(長上)と一緒になって、ノビスたちの将来の職業を予測して、それに見合った準備をさせなければならない。いずれにせよ、どんな場合でもノビスの霊的成長と修道の道を妨げることがあってはならない。そして、もしサクレケールがノビスの養成において何か見落としていることがある場合は、それをかの女に忠告するのはアデルの責任である(128)。
スール・デュ・プティハビ(SOEURS DU PEIT HABIT)(129N150)が作られたのは、修練期以前に十分な準備をさせるための気遣いからであった。志願者(ポステュラント)として正式に受け入れるにはまだ若すぎる女の子のための前志願期(PRE-POSTULANCY)を創設するというこの考えは、修道会が始まって以来、いつもアデルのこころと頭から離れることはなかった(130)。シャミナード神父も、この考えを悪くは思っていなかった(131N151)。しかし、その当時は、修道女のためにもっと必要なことが沢山あった。しかも、たしかに将来有望な少女ではあっても、僅か11才の一人の子供のためにこのような養成プログラムをくむことは決して勧められるべきことではない、とシャミナード神父は考えていた。少なくとも、このような子供が4人になるまでは待つように、とアデルに忠言していた。このような子供が4人いたとしても、1人の世話をするのと差ほど手間は変わらない。しかも、子供たちはお互いにサポートしあうことができる。そのような事態がくれば、修練院と学校の規則に手を加えて、このような前志願期の子供たちのためのプログラムをつくればよいだろう、と師は考えていた(132)。
1821年2月、このような「スール」が4人集まった。この子供たちは、いずれも将来修道女になるだろう、とアデルは考えた。この子供たちにたいするプログラムは、たしかに修道生活に入るための準備をさせるものではあったが、入るか入らないかは、将来、決定を下すときに、自由に自分の意思できめることができるような仕組みにしておかなければならない、とアデルは主張した。このようなプログラムを持つことは修道女たちにとっては、余分な手間のかかることであった(133)。担当は、まだノビスであるスール・テレサ・ド・サントギュスタン(デジェ)(SOEUR THERESA DE SANT-AUGUSTIN(DEGERS))がエンマヌエルの監督のもとにおこなうことになった。このプログラムは、決して容易なことではなかった(134)。子供たちがいることで、修道院はいままでのような静けさを保つことができなくなった(135)。修道院は、エミリが羨んだような平和を、もはや楽しむことはできなくなったのだ(136)。
翌年の夏(1822)、少女の数は5人になった。しかし、そのうちの3人は、まもなく健康の理由から修道院を離れなければならなかった。このような状態で、このプロジェクトを続けて行くべきか、アデルは迷った(137)。このような子供たちが必要なあらゆる教育を受け、特別な才能を(例えば、音楽を作曲したり、声楽や器楽を習うこと)開発することがシャミナード神父の希望であると思われたが、もっと大切なことは、先生たちが子供たちの霊的な育成と宗教教育を促進するだけの賢明さをもつことだった(138)。しかしながら、1823年には、最終的に、このプログラムを中止することになり、シャミナード神父自身、自分で責任をとって少女たちの両親に閉鎖を釈明する手紙を書き送った(139)。後ほど、1824年になって、アデルは、子供をコンドムの寄宿学校に送るよりは、アジャンにプティ・ハビを再開したほうがよいのではないかと提案している(140)。
堅実な基礎教育と充実した修練期を受けながらも、才能教育と技能教育の面からみれば、すべての修道女が満足な状態にあったわけではなかった。従って、養成期間の後も、それを補うように配慮する必要があった。そのようなわけで、トナンに寄宿舎学校を計画したときも、シャミナード神父はド・ラクサード氏にたいして、教師としての十分な資格をもつ人物を準備しておく、と約束している(141) 。そして、モニエ士にたいしては、教師たちが教え方を十分に習熟するまでは、あまりその学校を宣伝しない方がよい、と主張していた(142)。
自己開発も非常に大切な一面をもっている。従って、アデルは、これに関して規定を行っている一般規則(GENERAL REGULATIONS)を遵守することを力説した。すべての修道女は、毎日、少なくとも個人でおこなう読書の時間を持たねばならない。また、自分にあたえられた才能に応じて、他の修道女の啓発に貢献しなければならない。各人は、その共同体でおこなわれる毎週の宗教講話を順繰りにおこなう。このことは、トナンの共同体でも同じで、まだノビスであるサン・ソボール(SAINT-SAUVEUR)も例外ではなかった(143)。
マリ・ジョセフが主張するように、アデルは(初期のフランシスカンのように)勉学し教鞭をとることは、修道生活にとって非常に大切な謙遜と内的生活を危険にさらすことになるのではないかと恐れていたのは事実である。しかし、アデルは、自分たちの修道会がキリスト教の信仰と実践を述べ伝える使命を持つ限り、この両方が必要であることを、明確に認めていた。
事実、この使命に、より忠実に応えようとしたために、この修道会の基本的な構造の一つを変えることになった。会憲(GRAND INSTITUT)によれば、誓願を宣立した修道女のあいだでは、メール(歌隊修道女(MERES))とスール・コンパニュ(労働修道女(SOEURS COMPAGNES))の二つの階級が規定されていたにすぎなかった(145N91)。しかし、アジャンでもトナンでも、教育事業が拡大するにつけ、授業に出てくれる歌隊修道女の数が不足した。しかも、修道会に入ろうとする志願者の間には職人や召使の子供が多く、農民の子供もいた。この人たちは、最低限度の教育しか受けていなかったが、生まれながらに教師になるだけの才能と力量をもつ人もいた。アンシャン・レジームの社会階級はいまだに根強く残っており、「下層階級」の女性が歌隊修道女になることを許さなかった(146)。しかし、共同体がおこなっている使徒活動において、かの女たちの奉仕は、ミッションを効果的に遂行する上で大きな力となった。
そのようなわけで、共同体が発展する早期の段階で、この二つの階級のあいだに、もう一つ、中間的な階級を設定したのである。これをアッシスタント(ASSISTANTES)と呼んだ(147N91)。
1824年、歌隊修道女の修練院がボルドーに移転したとき、アッシスタント・シスターは、一般に、スール・コンパンニュと共にアジャンで修練をおこなっていた(148)。しかし、このアッシスタント・シスターのノビスたちが、コンパニオンの修練院長の直接的な指導のもとに置かれていたのか、アデルの指導のもとに置かれていたのかは定かでない。
また、だんだんと裕福な家庭の子女が集まるようになったので、アッシスタントたちの衣服についての問題も起こった。メールのものと同じにするべきか、コンパニオンのような厚手のものにするべきか、それともこの二つとは異なるものを設定するかが問題になった(149)。
しかし、フランス社会での変化とともに、メールとアッシスタントの区別は、徐々に姿を消すことになった(150N152)。