アデルの病気 / シャミナード神父の訪問
ラクサードとトナン
「避難所」からアウグスチノ会の建物への引越し
トナンの新しい修道院 / 院長スール・テレーズ
1820年1月、すでに以前からその兆候を見せていたが、アデルはついに病の床に倒れた(1)。
この年の新年は、病室へのパレードが後を絶たなかったように思われる。アデルの他に、スール・カタリン(かの女は一年半前に修道院に入った(2))も肺をおかされた(3)し、スール・アンヌもリュウマチで病床に就いた(4)。スール・スタニスラスは黄疸にかかり、教壇に立つことができなくなった(5)。
2月にはサクレケールが病気で倒れ、アデルも病気になった(6)。共同体は総長が四旬節の断食を守ることに反対した。しかし、アデルはその必要はないと考えた。しかし、その考えはアデルの自愛心から出たものであって、間違いであった、とアデルはシャミナード神父に打ち明けている。
アデルはソダリストに話をしたり、病人に読書を聞かせたり、大きな声で念祷をしてあげたり、パーソナルな面接でシスターと時間をかけて話合いをするのが好きだった。もちろん、共同体といっしょに祈ったり、娯楽の時間を過ごすのも好きだった。「いつか、わたしが口を閉じなくなる日が、来るでしょう」とかの女は云うのだった(7)。
アデルは相変わらず自分の心の最も奥底をさらけ出し、考えと行いの中に自己愛を見いだすのだった。人が構ってくれるなら、病気であることや苦しみに見舞われることは何でもなかった。人がどう云うか知るためなら、重病になっても、死んでもかまわないと思った。もし自分が重病にかかったり、死んだとしたら、シャミナード神父は何と云い、何をしてくれるのだろう。見舞いに来てくれるだろうか、などと考えた。
「どれほど沢山の時間をこのようなくだらない自愛心で費やしたことでしょう。わたしのこの情けない傾向を癒す薬を下さい」(8)と、かの女はシャミナード神父に哀願している。
アデルはローモン神父にも自分の心を打ち明けた。師はアデルを熟知しており、従って非常に適切な助言を与えることができた(9)。
3月になると、カザリンが肺病で「重体」になった(10)。また、スール・スコラスティックが死んだ(11)。5月には、ヤナッシュ夫人が病気になった。かの女も修道院に住んでいたのだ(12)。5月までにはアデルはシャミナード神父からの従順による命令で、仕事を制限され、共同体の種々の業務に参加することを制限された。かの女に課せられた休みをとることは、身体のためよりも心のためだ、それは摂理によるものであって、霊的な利益に変えることのできる機会である、とシャミナード神父は述べている。
休むことによって、より深く神を愛する機会を得、念祷を行い、霊的読書をする時間ができる。頭を疲れさせることなく魂を養う良い機会だ。シャミナード神父はこのように述べて、かの女のためになる書籍や、後日他のシスターたちに講話をするときに役立ちそうな書物を推薦した。そして、最後に師は、健康が回復すれば、その報告を自分で書くのではなく、アシスタントの一人に書いてもらいなさい、とも述べている(13)。しかし、この言葉に従うのは非常に難しい、とアデルは告白している(14)。
7月にはシャミナード神父自身も病気になった。しかし、8月の下旬(1820年)にはアジャンを訪問するだけの体力を回復した(15)。師はわずか一週間しか滞在しなかったが、そのあいだに修道会の精神にかんする講話をなん回もおこなった(16)。そして、それまでの数カ月間、シスターたちが企画していた二つの計画を実施できるように手伝ってくれた。
この時は、アデルの健康もかなり回復しており(17)、共同体を「避難所」から他の場所に移転させる計画を、みずからの手で統括して行くことができるようになっていた。ローモン神父もアデルも同意見であり(18)、シャミナード神父も賛成したのだが(19)、これほどまでに修道院に病気がはびこるのは、この建物が二方を溝に囲まれているからだ、と考えられた(20N126)。
その上、この家は、あちこちを修復していると、かなりの経費がかかった。しかも気にかかることは、人数が増えて、この修道院にこれ以上住まうことができなくなった場合はどうするのか、と云う問題である(21)。市は、この物件を売却する意向もなく、永久借款契約を結ぶ意向もないことを、幾度も明白にしていた(22)。これだけでも、修道院を新しい場所に移す十分な理由になる、とシャミナード神父は考えた。
行動は既に一年前から起こされていた。1819年の8月にシャミナード神父がアジャンを訪れたとき、以前アウグスチノ大修道会(AUGUSTINIAN CANONS REGULAR)の修道院として使われていた屋敷が、ボエ家(BOE)の相続人によって競売に掛けられることを知った(23)。師は、この屋敷を見て気に入ったが、じっくりと検討するだけの時間がなかった(24)。競売は9月22日に予定されており(25)、スール・ドシテ(SOEUR DOSITHEE)の義理の兄弟がシスターたちの代理人になった(26)。
逆説的に見えるが、実はベロックの伯父(27)で、避難所の「牢獄」を借りるときに(28)アデルの代理人になってくれたショドルディ氏(CHAUDORDY)が、今度は売り手の代理人になった(29N127)。
働けども収入はなく、家賃と避難所の改装ならびに今までに支払わねばならなかった多くの医療費のために、シスターもシャミナード神父も現金を持ち合わせていなかった。ガーデル神父とタイエ神父(TAILLE)が、スール・アンヌの持参金を抵当にして共同体のために短期ローンを組むことに同意してくれた。このタイエ神父は小神学校の校長であるとともに、アデルにスール・フランソアを推薦してくれた神父である(30)。スール・アンヌの持参金は、シャミナード神父がボルドーで預かっていた(31)。ドシテの親族であるラカン氏(LACAN)は、シャミナード神父とアデルに相談しながら、術策を練った。
ラカン氏はアメリカ人の友人にバイヤーのような顔をして物件をよく調べてくれるように依頼した。かれは注意深く建物を調べた結果、かなりの修復が必要であるとの結論に達した。そして、シャミナード神父にたいして、この物件は構造上かなり傷んでいるので15、000フラン以上のお金をだすべきではないと忠告した。そして、かれ自身、所有者にたいして、自分はこの物件にこれ以上の値を付けることはないだろうとも伝えてくれた。
競売の席には、シスターの手先として使われているこのアメリカ人が、ひとりで出席すべきか、それともシスターたちもラカン氏を代理人としておっぴらに出席すべきか、とアデルは迷った。アデルは、自分たちが競売に出席することで、その所有者に自分たちがひどくこの物件に興味を持っていることを勘ぐられたくなかった。
しかし、アデルはこのような操作をすれば、結局は人を騙すことになる、と良心の呵責を感じた。「わたしは、神の子が持つ素直さを犠牲にしてまでも、この世の子が持つ賢明さを真似るつもりはありません。小さな罪を犯すよりは、むしろ、もっとお金を出す方がましです。(このことに関して)どうかわたしの良心に光をおあたえ下さい」とアデルはシャミナード神父に述べている(32)。
競売は21、000フランから始まった(33)。だれも手を上げなかった。シスターたちは、そんなに沢山のお金を出すことはできないと云う理由から入札を拒んだ。ショウドルディ氏は、15、000フランに経費の2、000フランを加えた価額で折り合いがつくかも知れないと考えた(34)。
12月27日(36)、二回目の競売は17、500フランで始まった(35)。シスターたちは所有者が18、000フランで手放すことに同意していることを知ったので、500フランを上積みした価額で入札したいとショウドルディ氏に申し出た(37)。ところが、思いがけないことに、現在この屋敷を賃貸しているマダム・リエゴ(MADAME LIEGO)が競売に出席し、20、000フラン(18、000フランに経費を加えたもの)までせり上げた(38)。ラカン氏は、この物件を落とそうと思えば、22、000フラン(20、000フランに経費を付加した値段)にせり上げなければならないと考えた(39)。この時点で、ショウドルディ氏は、この競売でシスターは負けると思った、と述懐している(40)。
さて、このようにして買い取られた屋敷には、現在働いている庭園師の家も含まれていた。それで、アデルはシャミナード神父にこの庭園師も引き受けてはどうかと提案した。この庭園師は丈夫で信頼のおける人物であるように見受けられた。それに反して、いま避難所で働いている庭園師は身体が弱く、少々怠け気味の人物であった。新しい屋敷の庭は以前より広く、生産性も高かった。だから、ただ人手が足りないということだけで十分な収穫を上げないのは残念だ、とアデルは考えたのである(41)。
職人が提案した建物の修復は、大変費用のかかるものだった。しかし、ベロックが提案している計画を用いれば、これより安上がりで、かつ、修道院のためには十分であるとアデルは考えた。しかしながら、もし聖堂を建てようと思えば、隣接地を約45メートル買い取らなければならない(42)。アウグスチノ会の聖堂は壊され、その跡地に住宅が建てられていたからである(43)。ところで、ベロックからの提案によれば、150メートルに75メートルを掛けた広さの敷地があれば、余分な経費をかけないで仮の聖堂を建設することができる、ということであった(44)。
マダム・リエゴは三月までこの家に留まることになった。かの女には、契約にある通り、新しい住居を探すまでの三ヶ月を猶予期間として与えられたのである(45)。しかし、修道院側としては、契約通りに支払いをおこない、修復をするためには、急いでお金を作る必要があった。くだんのアメリカ人が8、000フランを貸してくれることになった(46)。また、司教も短期ローンで6、000フランを貸してくれることになった(47)。しかし、アデルは手紙の中で、ほとんど気が狂ったような調子で種々の金策をシャミナード神父に書き送っている(48)。
そのような情態であったにもかかわらず、1820年3月には、アデルは不在地主のブードン氏(MONSIEUR BOUDON)から、3、500フランで庭付きの家を買っている(49N128)。これは以前アウグスチノ会の敷地内にあったもので、今度買った屋敷の隣に位置していた。
この土地を買い足すことで修道院の敷地の境界線は、西に向かって、アウグスチノ広場(PLACE DES AUGUSTINS)まで伸びた(50)。後日、ここに聖堂が建てられた。また1823年2月には、6、000フランを出してサント・フォアの近辺に住んでいたギャメル氏(MONSIEUR GAMEL)から、修道院の東側にある二つの土地を購入した(51N129)。
ダビド・モニエは、今ではモニエ修道士になっていたが、士は、1820年の春、シャミナード神父のためにいくつかの細かい用事をするためにアジャンを訪問したが(52)、その際、シスターたちに講話をし、特に三つの部門と統治について説明した。この講話は、修道院生活によい結果をもたらした。
士は、また、アウグスチノ会の建物の修繕と改築作業を監督し、8月までに仕事を終わらせるように契約した(53)。明らかに職人たちはかれの指導力に満足していたようである。しかし、アデルは、簡単な木製のもので十分だと考えていた場所に、高価な鉄格子が取り付けられたのをみて、かれに腹を立てている。しかしながら、この鉄格子を注文したのはモニエ士ではなく、ラコステ氏であったことが判明したため、アデルはそれ以上ことを荒立てないようにした。しかし、労務部長(HEAD OF WORKS)をしていたスール・サン・バンサンに命じて、現場で、直接、自分の目で確かめさせた(54)。
アウグスチノ会の建物の買収が行われているあいだ、もう一つの新しい仕事が進められていた。それは土地を購入することではなく、新しい修道院の分院を創設することであった。
シスターがトナンで学校を開くことにかんしては、シャミナード神父は、すでに1818年の3月に、反対意見を表明していた(55)。しかし、この考えを変えるようにと、いつも他からプレッシャーを受けていた。
しかし、あるとき親友のひとりであるフォール・ド・ラコサード(FAURE DE LACAUSSADE)と、この件にかんして意見を交換してからは、なんとなく将来に明りが見えてきた。ド・ラコサード氏はボルドーの出身で、トナンにある政府のタバコ専売公社のマネジャーをしていた(56N130)。
ド・ラコサードは非常に熱心な人で、タバコ工場があるトナンの町の半数がプロテスタントであったため、アジャンの新しい修道会から修道女を招き寄せようと考えていた(57)。トナンにはすばらしい男女の学校があったが、それはいずれもプロテスタント系の学校であり、カトリックの学校ではなかった。そのため、カトリックの子女はプロテスタント系の学校に通わねばならなかった(58)。この町では、アデルのアソシエイツが何人か活動しており、また、ポアトバン姉妹の故郷でもあった。
ド・ラコサード氏はシャミナード神父に手紙を出して(59)、今なら適当な場所がある、と伝えてきた。パリから来た(61)プロテスタント(60)のマダム・ベルディエ・ド・ラ・カルボニエール(MADAME VERDIER DE LA CARBONNIERE)という人が、屋敷を手放そうとしていたのである。最初、かの女が要求していた値段は30、000フランであったが、今では25、000フランまでに下げる用意があった。
ド・ラコサード氏は、最初、何の興味も示さず、ただ好奇心で来たかのような顔をして屋敷を簡単に下見した際に、この夫人は20、000フランか、ひょっとして18、000フランまで譲歩するのではないか、との感触を掴んだ。屋敷は広大で、すでにその一部は閉鎖されていた。建物の改修は簡単で、二階に修道女のための6つの個室を作ることができる。非常に頑丈に作られた建造物であるが、ド・ラコサード氏が短時間で見たところによれば、保全が十分に行き届いていないと見受けられた。氏はシャミナード神父に敷地のスケッチと建物の簡単な見取図を送った(62)。
新しい修道院の誘致を必要としている市の状況からみて、自分の熱意は資力をはるかに上回るものだ、とド・ラコサードは述べている。この屋敷の購入価額の上に、更に修繕費として3、000フランは必要であろう。また、取引の手数料として当然1、500フランが必要となる。しかし、もしシスターたちが来てくれるのならば、数多くの善良な婦人たちが財布の紐を緩めるだろう。ただ、ことの始まる前に、この人たちのポケットを当てにすることはできない、と氏は考えた。長期的にみれば、この計画は問題なく進むだろうが、当初は困難も多く、不安材料も多い、と氏は考えた(63)。
シャミナード神父からの返事は積極的なものであった。師はド・ラコサード氏にシスターの代理人となってくれるように依頼した。しかし、マダム・ベルディエや、その他の人たちが、町に修道院ができることに反対するかも知れない。交渉のあいだは、できるだけ修道院の名前を表に出さないように、と忠告した。
法律によれば、私的な契約が結ばれた場合は、締結されてから24時間以内に買い手の素性を明らかにすればよいことになっていた。しかし、その時になって相手が誰であるかを知り、反対しても手後れとなる(64)。
アジャンへの途上、トナンに立ち寄って、ド・ラコサードを訪問したモニエ士は、帰り道にもう一度トナンに寄って、ド・ラコサードをアデルとスール・テレーズ(シャミナード神父は、テレーズを新しい修道院の院長に任命していた)の代理人に立てるために必要な書類を作成した(65)。
アデルはこの計画をことのほか喜び、直ちにシャミナード神父に手紙を書いて、この新しい修道院の教区の長上としてはラリボー神父を任命してもらうように司教に働きかけてほしい、と記している。司教は当然、この新しい修道院の設置に承認を与えてくれるはずだし(66)、トナンはラリボー神父が住んでいるロンピアンから僅か数時間の道のりしかない(67)。
ド・ラコサード氏は、とりあえず必要な修復工事の費用と買収に必要な経費として、4、500フランの基金(68)をねん出することに同意した。初回の支払金8、000フランはモニエ士が借りてきた。こうして6月5日、ベルディエとド・ラコサードは同意書に署名した(69)。しかし、買収人がド・ラコサード氏とその娘ではなく、アデルとクレマンティン・ヤナッシュであることが明るみに出ると、町の人びとは反対した。
マダム・ベルディエにたいして契約を破棄するように圧力がかけられた。そして、アデルが遺産を慈善事業に使い果たして、弟のシャルルに膨大な借金をしており、これ以上の出費に耐えることができない、という噂が流された(70)。
6月11日、ド・ラコサード氏はシャミナード神父に、契約を破棄するように要請されたと伝え、シャミナード神父が予想していた通りの嵐が起こった、と述べている(71)。
ベルディエは契約の破棄を要請した。かの女は、これ以外の取引でも思い通りにことが進んでいなかったために、この契約で同意した内容に不満を感じはじめたのである(72)。しかも、もし噂通りアデルの経済状態が不安定であるならば、今後の支払も約束通りに履行されない、と不安を抱いた。
混乱し、不安におそわれたベルディエは、シャルルに将来の支払を補償する何等かの保証か抵当を設定してくれるように求めた。しかしシャルルは、トナンの企画はアデルにとって経済的な破綻を来すことになると考え、この要求を拒否した(73)。そこでモニエ士は、その代わりにプーシュにあるヤナッシュの財産を抵当に入れることを提案した。しかし、この財産はすでに売却されており、その収益は避難所の家賃の支払に使い果たされていた(74)。
アデルは、ド・ラコサード氏自身がこの取引を保証してくれるように訴えた。しかし、かれは断わった。(おそらくそれは、政府との契約のためであったと思われる)(75)。ムーラン神父は、修道院のために新しく買収したアウグスチノ会の屋敷跡を抵当に入れるようにアデルに勧めた。この屋敷は30、000フランの価値があり、そのうち既に10、000フランは修道院の持ち分になっていたのだ(76)。
アデルは早速必要な書類をド・ラコサード氏に送った(77)。しかし、シャミナード神父とモニエ士の激しい反対にあい、この提案も取り下げざるを得なくなった(78)。この提案を取り下げることは、アデルの顔をつぶすことになる。しかし、たとえ周囲の人から気まぐれ者扱いにされたとしても、むしろ、従順の道を選ぶことに決意したアデルは、ビジネスにかんすることは「今後は絶対に」二人に相談したのちでなければ手をださない、とこころに誓うのだった(79)。
事態はアデルが直接ベルディエと文通することで急速に解決の方向に向かった。アデルはシャルルに借金をしているどころか、むしろ72、000フランを請求する権利を持っており、また、これにたいする利子を請求する権利があることを説明した。これは、契約の支払以上の保証をするものであった(80)。しかも、もしベルディエがお金を必要とするならば、契約がうたっているよりも早く支払うようにしてもよい、とも説明した。
計画が思い通りに進んでいなかったベルディエは、このアデルの言葉に非常に満足し、丁重な返事をアデルに書き送った。その中でかの女は、何時かアデルに逢う機会に恵まれることを希望し、いままでにアデルについて聞き知っていたことが、かの女にアデルの善良さにたいする深い尊敬心を起こさせることになった、と表明している(81)。
そこで最終の契約書が7月14日に交換され、その後、直ちにド・ラコサードは必要な修復工事に着手した。
8月、事態は急テンポで進展した。アデルはトナンの修道院の実務的な用件をド・ラコサード氏に手紙で連絡した。十分な薪を補給すること、ぶどう酒を補給しておくこと(83)、寝台の並べ方と戸棚の配置(84)、聖堂にすべての優先権を与えること、などであった。召使たちの住居に先んじて主人の住居を配慮するのは当然のことではないだろうか、とアデルは述べている(85)。
妥当な費用で適切な庭園師を雇おうとしたが、うまく進まなかった(86)。もし庭園師に高いお金を払うくらいならば、食品を買った方がましだ。避難所のように、パートを雇う方が良いのかも知れない(87)、と考えた。
最終的に、ド・ラコサード氏は、妻帯者で娘を一人連れた住み込みの庭園師を探し出した。この娘は、修道院の小間使いもしてくれることになった(88)。
シスターたちはベッドを送り、戸棚や寝具、聖堂の備品、台所の調理道具などを送った(89)。そして、アデルは、スール・ルイ・ド・ゴンザグへの好意として、シスターたちの所持品が到着したら、ポアトバン姉妹に手助けを依頼するように、と伝えている(90)。
8月の終わりまでには、二つの引越しの準備が完了した。共同体の全員が「避難所」からアウグスチノ会の建物に引越をして、そこから分院に派遣されるシスターたちはトナンへ出発することになった。
9月6日、水曜日、午前4時30分、雨の降る朝(91)、まだ町が寝静まっている中を、シャミナード神父とアデルは共同体を引き連れて、サンテチエンヌの廃虚を通り過ぎ、アジャンの北壁にある、もとアウグスチノ会の修道院へ移転した。そして、この同じ日に、新しい修道院は儀式をもってスタートしたのであった。派遣されることになっていたシスターの内、スール・ドシテとスール・サント・フォアが、シャミナード神父の前で終身誓願を宣立したのである。
また、このとき、二人の将来有望なポストラントが入会した。この二人は、23才になるスール・テレーズ・ド・サントギュスタン(SOEUR THERESE DE SAINT-AUGUSTIN)ことアルティグ(ARTIGUES)出身のユーフラジン・デジェ(EUPHRASINE DEGERS)と、17才のスール・エリザベトであった(92)。
その翌日、シャミナード神父とアデルは、派遣されるシスター一行を伴って、トナンへ出発した(93)。おそらく一行は、25キロの道を(94N131)船で(95)進んだと考えられる。
スール・テレーズが新しい修道共同体の院長になり、ほか5名のシスターが、この共同体を構成することになった(96)。すなわち、サンテスプリ(97)、サン・フランソア(98)、ドシテ(99)、サント・フォア(100)、そして、1818年の5月に入会したカタリンヌ(101)であった。
カタリンヌは、昨年の春、重病にかかったことがあり(102)、医者から匙を投げられた(103)。かの女はツリエール(TOURIERE)、すなわち、門番、訪問客、配達、その他の外回りの用事を受け持つ労働修道女であった(104)。
町の人たちは修道女にかんして誤解を招くような考えを吹き込まれていたにもかかわらず、カトリックとプロテスタントの別なく、好意をもってこの小さなコロニイを迎え入れた(105)。アデルはトナンのアソシエイツと集会をもち(この分会には約50人のアソシエイツがいた)、トナン市とその周辺地域での使徒活動を組織化した。
この地のアソシエイツは、アジャンのように(106)、在俗第三会を形成し、スール・ドシテがこれを担当することになった(107)。また、この機会に、シャミナード神父は、いままで正式に入会するチャンスに恵まれなかったメンバーたちを、公式にソダリティに受け入れた(108)。
司教は主任司祭にたいして、新しい修道院と協力し、多くの利益を生み出すように、と奨励し、アデルが期待していたように、ラリボー神父をこの新しい修道院の教会の長上として任命した(109)。
数日たって共同体が落ち着くと、シャミナード神父はボルドーにむかって出発し、アデルは(おそらくベロック夫人かポアトバン姉妹の一人に連れ添われて)アジャンの新しい住居へと帰って行った(110)。
帰省するやアデルは、時を移さずトナンに手紙を書き、次のように述べている。
「申し上げるまでもなく、皆さまとお別れするのは大変悲しいことでした。しかし、ラリボー神父さまの手に皆さまをお預けすることで、わたしのこころは慰められました。なんと神さまはお優しい方でしょうか。弱いわたしたちを助けて下さいます。いままで以上に、お愛し申し上げようではありませんか。これほどまでに慈悲深いみ主に、大きなこころをもってお仕えいたしましょう。なにごともおことわりすることのないように。数多くの聖なる創立者たちの模範にならって、み主のために苦しみを耐えることを学びましょう。それができなければ、わたしたちは真の修道女とよばれることはできません」(111)。なにはさておき、「わたしたちがこうして集まっているのは、み主の栄光のため以外のなにものでもありません。わたしたちがいま別れ別れになったのは、み主のためでこそあったのです」(112)。
この同じ月、ビルフランシュの修道女たちは終身誓願を宣立した。かの女たちとの統合の可能性は、これで無くなってしまったのだと、アデルは考えた(113)。
しかし、1821年1月には、アデルは、まだ、この懸案の統合が実現されるかも知れないという希望をもっていた。しかし、この統合の実現がどうであれ、アデルとエミリの友情にはなんの変わりもなかった。たとえアデルがこの世で一度もエミリに会うことができなくとも、二人が自分たちに与えられた羊の群れを率いて復活の小羊に従うならば、必ずや、天国で会うことができると確信していた(114)。
アウグスチノ会の建物に移り住んだアデルは、この新しい修道院が気に入った。それは「大きく、スペースがあり、換気もよく、ひじょうに魅力的であった」(115)。その庭園はすばらしく、空気も新鮮であった(116)。改築工事がまだ完全に終わっていなかったので一時的な不便はあったが(117)、「避難所」よりも、はるかに良かった。まもなく聖堂も使えるようになるはずだった(118)。
アウグスチノ大修道会がこの場所に修道院を建設したのは、遅くとも13世紀の終わり頃であったと考えられる(119)。すでにフランス大革命の時代には、アジャンで一番りっぱな修道院に成長していた。それは広大な土地を擁し、長さは約90メートル(120)、北面はアジャン市の北壁で、それに面して塔が建っていた。そして、この北壁の外側にはマッス川(MASSE)が流れていた(121)。敷地の東端はフォン・ヌベル通り(RUE FON-NOUVELLE)で、南端はアウグスチノ通り(RUE DES AUGUSTINS)、西端はアウグスチノ広場(PLACE DES AUGUSTINS)になっていた(122N132)。
この修道院の聖堂は、長さの異なるネイブ(聖堂本体)が二つあることで有名だが、これは敷地の南西に位置しており、正面入口は西のアウグスチノ広場に面していた。この教会堂の北には、14世紀の長方形の回廊があり、東側にある修道院の本体(124)とともに、アジャン市では最も美しい建造物の一つとなっていた(123)。
16世紀、この修道院はユグノー派によって略奪され、破壊されたが、のち、再建された。1791年には、フランス大革命によって閉鎖され、修道共同体は離散した(125N133)。
政府によって没収されたこの修道院は、ボエ氏(MOUSIEUR BOE)に売却されたが、ボエ氏はこの修道院の本体と東に延びる庭園を残して、他の部分は小さく区切って売却した。その際、聖堂と回廊は取り壊され(126N134)、その跡地に住宅が建てられた。ボエ氏夫妻が死ぬと、その相続者は、これを売りに出した(127)。
この建物に移転したおかげで、司教座聖堂サン・キャプレ・カテドラル(現在ではサン・エチエンヌと改名されている)に近くなった(128)。しかし、デュクルノ神父のいるノートルダム・デ・ジャコバン教会からは遠くなった。また、神学校とも遠くなり、「避難所」に居たときよりも、倍近く遠くなってしまった。大神学校は市壁の外側の南側に位置していたのだ。
この大神学校は1684年に建設されたもので、ラザリストの司祭たちによって運営されていた。フランス大革命のあいだは、他の教会の所有地と同じように、政府に押収されていた。最初、ここは、司祭たちを閉じ込める牢獄として使用されたが、のち、兵舎として使用された。
これが教会の手に返還されたのは、やっと1817年になってからのことである(129N135)。ガーデル神父が校長をしていたのはこの神学校であり、ムーラン神父はここで教鞭をとっていた。こうして、アデルはアドバイザーたちから約2キロ離れて住まうことになってしまった(130)。
「避難所」とおなじように、このアウグスチノ会の建物も市壁のそばにあるが、この二つの場所は、町の端と端、ちょうど対角線上にあった。実際、この敷地の北側の境界線は、市壁そのものであった(131N136)。そして、その外側には、ほとんどすぐに、隠遁者の絶壁が立っている。この絶壁は、アジャン市の北端になっている。修道院の窓からも、庭や果樹園からも見えるこの絶壁に、シスターたちは長いキリスト教の伝統と、いま自分たちも実践している修道生活の伝統を感じ取ることができた。
この新しい修道院に移転して最初に書かれたアデルの手紙は、トナンの新しい修道院にあてたものである。この修道院が分封したことによって、アジャンの共同体は一番優れた修道女のいく人かを失ったことになる(132)。しかし、互いに離ればなれになったのは、その肉体だけであった。アデルは、この悲しい離別によって(133)、手紙を書く熱意をさらに奮い立たされるのを覚えた(134)。なぜならば、アデルは過去4年間、修道会の創立に参加しなかったアソシエイツとの接触を続けていたからである。これからは、この修道女たちとも、ふたたび手紙で連絡を取り合うことになるのだ。アソシエイツにたいする手紙と同じように、この人たちにたいする手紙も、霊的なものであり、勧告的なものであり、自分自身の信仰の横溢でもあった。
アデルにとって、手紙は単にニュースや実務的な細い用事を伝達するための手段ではなかった。もちろん、そのような機能を無視したわけではないが、もし伝えるニュースがあったとしたら、それはアジャンの共同体にかんするニュースであり、シスターたちの健康や霊的生活にかんするニュースであり、シャミナード神父やムーラン神父から受けた指導についてのニュースであった。また、時としては、単なる「ビジネス」レターもあった。このような手紙は、普段の口調で書かれており、形式ばらず、会話調で記されていた。
院長のスール・テレーズに宛てた最初の手紙では、新しい分院の設立による離別の、云い知れぬ悲しさを表明しているが、しかし、同時に、あらゆる観点から、可能な限りの励ましと、支援と、助けの手紙でもあった。
まず第一に、引越しの結果生じた細々とした用件があった。食器の送付(安全を期して馬車よりも船便で送ることにした)、修繕のためにボルドーに送るカリスのこと、テントの返却(ある商人に借りていたもの)(135)、スール・サント・フォアのための刺繍の枠、祝別してもらうためにラリボー神父に送るソダリティのリボン(アデルはリボンをシャミナード神父に祝別してもらうのを忘れた)、配達しなければならない何通かの手紙、必要なお金(136)、聖堂用具、ベッドとフットカバー、ベッドカーテン、食用ゼリー(137)など、その他多数あった。
もちろん、修道生活にかんしても、いろいろ考えておかなければならないことがあった。囲壁を厳重に守ること(ラリボー神父の部屋は外部にある。そこへ行くシスターは、神父自身またはスール・テレーズの許可をとること)、食事中に読書をすること(ただし、シスターたちの体力を守るために、食事時間の一部のみにすること)、沈黙の遵守、祈りの時間の厳守、共同体の休息時間と祈りの時間を怠らないこと(138)、などがあった。
いくつかのニュースも書かれていた。セレスタンが修道院に帰りたがっていること、ヤナッシュ夫人が三日間ボナンコントルで過ごし、元気でいること、デジェ家の姉妹(THE DEGERS SISTERS)も元気でいること、クロチルダ・デルペシュ(CLOTILDE DELPECH)はアジャンで黙想をしていること、などである。
また、新しい修道院の使徒事業につて、いくつかの質問事項が述べられている。ソダリティの集会やオフィサーとの会合について、黙想の婦人部にかんして(黙想の婦人部全員にたいしてアデルは挨拶をおくっている)、授業について(内装工事の催促をド・ラコサードにして、早く完成させること)(139)などであった。
これら、一ヶ月のあいだに送られたいくつかの手紙によって、アデルは、「神のよりおおいなる栄光のために」離別しなければならなかったスール・テレーズや、他のシスターとの文通のパターンを作り上げた(140)。一つの手紙の結語の中で、アデルは自分のこころのうちを要約しているかにみえる文章をしるしている。「さようなら、わたしの親愛なる娘たちよ。聖なる人になろうではありませんか。シャミナード神父さまが手紙の中で書いておられる次の言葉を忘れないでおきましょう。<聖なる人と共に働けば多くを為すことができても、中途半端な修道者とでは何もできない。たとえ何かができたとしても、それはわずかである>。イエスとマリアのみこころのうちに、みなさまを抱擁します」。
一方、テレーズはアデルの指導によく応え、短期間のあいだに共同体の長としての役割を身につけていった。今、かの女は26才(142N137)。ひじょうに美しい女性で、「尊敬すべき聖職者」は、聖母マリアがこの世におられたときにはどのようなお姿であったかを考え始めると、自然にかの女の容姿が頭に浮かんでくるほどであった、という(143)。シャミナード神父はド・ラコサードに述べているように、かの女を院長に選んだのは、「神が以前からこの大切な仕事のために選んでおられたのではなかろうかと思われるほどにすばらしい長所をもった人物だからである。かの女の容姿の美しさは、たぐいまれな慎み深さと、深い教養と、大いなる賢明とによって高められ、精神とこころの数々の美点を引き立たせ、仕事をよりよくこなすことができるようにさせている」(144)からだ。
アデルはド・ラコサード氏とも連絡をとっていた。いまでは、ド・ラコサード氏とは面識をもつ間柄になっていた。氏はトナンの共同体の物的な必要性の面倒をみるだけではなく(145)、ヤナッシュ家の代理人として、プーシュにある同家の財産の売却先から代金を回収することも手伝ってくれていた(146)。氏は、また、トナン共同体の医者としても手腕をふるった。シャミナード神父が述べているように、アジャンにいるどの医者よりも信頼のおける医学的な技術をもっていた(147)。
さて、新しい修道院が最初の(1821年の)四旬節を迎えるころになると、シャミナード神父はド・ラコサード氏に、スール・テレーズに諮ったうえで、必要な免除をシスターに与える権利を委譲した。また、もし、かれに治せるものであるならば、病気にかかったシスターを、いつでもアジャンからトナンへ移動させることもできるようにしてあった(148)。
このような措置をとるのは、アジャンの修道院には快復の見込みのない修道女がなん人もいたからだ、とシャミナード神父はド・ラコサード氏に伝えている(149)。最近になって、ひとりの若い修道女(21才であった。ただ、名前は明白ではない)が肺病の症候を示し始めていた。エンマヌエルも頻繁に病にたおれ、死ぬのではないかと危ぶまれた。
この若い修道女は、ソダリティの集会で元気一杯に、しかも長時間にわたって話をしたため、体力を消耗していた。しかし、今後、もし上手に指導していけば、貴重な人材となるだろうと思われた。また、エンマヌエルにしても、もし、かの女が健康の理由でトナンに行かねばならないとすれば、トナンで上流階級の子女を対象とする教育プログラムを作ることもできるし、ソダリティの婦人たちのあいだに必要とされている刷新の空気をおくりこむこともできるだろう、とシャミナード神父は提案している(150)。
このころ、シャミナード神父もアデルも、マドモアゼル・ド・ベルナールの状況を注意深く見守っていた。かの女はなん年ものあいだ修道生活を志願していながら、いまだに父親の反対に苦しんでいたのである(151)。1818年6月の頃、すでに、アデルはロロットに手紙を書き、次のように述べている。「真にその名がしめすとおり熱心なスール・デザンジュ(SOEUR DES ANGES)」をいまだに引き留めている障害を取り除いて下さいますように、共同体とともに、神に祈って下さい(152)。かの女は本当に「すばらしい志願者」(153)であり、天使のような善徳のもちぬしです。いま、かの女は病気で、ひょっとして、回復しないかも知れません(154)。
1820年6月、シャミナード神父は入会を阻止する障害に苦しんでいるロロットに励ましの手紙を書き、次のように述べている。「スール・デザンジュの両親は(反対することによって)なんの利益を得るのでしょうか。何回も何回もかの女の入会を延期させましたが、いま、かの女は大きな失意のうちに死の床についています」(155)。
同年12月には、かの女の容態は悪化し(156)、しばらくして死亡した。けっきょく、かの女は、いままであれほどまでに望んでいた修道院に一度もはいることなく、この世を去ったのである(157)。
1月17日、25才になる男子マリア会の修道士ジャン・ニュービエイユ(NEWVIELLE)(158)(アデルは「わたしたちの兄弟の一人」とよんでいる)が、ボルドーで聖なる死をとげた。かれが一番気にかけていたことは、自分が死ねないのではないか、と云うことだった(159)。
スール・カタリンの母親も死亡した。この訃報を本人に知らせるときは、注意して知らせてあげてほしい、とアデルはスール・テレーズに伝えている。
シャミナード神父自身も重い病気にかかった。アデルは、「それほどまでに貴重で、かつ、大切な」リーダーのために祈って下さいと述べており、また、病気が回復に向かったときは、感謝の祈りをささげている(160)。
このとき、もう一人の死がアデルの身辺に近づいていた。その悲しみは、アデルにとっては間接的ではあったが、こころの奥底に迫ってくるものであった。アデルはスール・ドシテに手紙をかいて、忍耐深く病苦を堪えしのび、敬けんなこころをもって最後の秘跡に臨んだドシテの姉妹の態度に、せめてもの慰めを得るように、と励ましている(161)。アデルにとって、ドシテの姉妹の死は、修道者が絶えず親族のために祈る義務があること、そして、その義務を遂行することこそが修道者にとってその親族に捧げ続けることができる唯一の奉仕であることを今さらながらに反省するよい機会となった。ドシテの家族はアジャンの出身者であり、アデルはかの女の姉妹や姪など、その親族をよく知っていた(162)。
わずか18カ月という短い期間のあいだに、病と死はもう一人の修道女のうえにも降り掛かった。革命中に父親をギロチンでなくした(163)マリ・ギャブリエル・ビルジニ・ドレンヌ(MARIE-GABRIELLE-VIRGINIE DRENNE)が、1820年の5月に、こんどは母親を亡くした。
ビルジニはマルマンド(MARMANDE)の出身で、非常に裕福であり、かつ、聖なる人であった。かの女は25才になるが、すでに久しい以前から独身を守る決心をしていた(164)。かの女の母親も聖なる人で、生前から、ビルジニに、善徳と信心を身につけるように育ててきた。そのようなわけで、ビルジニは、以前から修道生活にあこがれていたのである。
ビルジニを知っていたスール・サンバンサンは、かの女のことを、まるで天使のようなひとだ、と述べている。しかしながら、かの女の母親はその死の床で、少なくとも2年のあいだは、将来にかんしてなにも決定的な行動をとらないように、と約束させていた(165)。
そこでビルジニは、この2年間をアジャンの修道院で寄宿者としてすごし、その2年の終わりに、入会するかしないかを決定したいとの希望した(166)。アデルはこの提案をシャミナード神父と相談の上で(167)許可することにした。
そのようなわけでビルジニは「避難所」に入り、シスターたちと生活を共にすることになった。生活の規則のとおり、食事は共同体の食堂でとり、修練期の養成プログラムとさほど変わらない生活をした(168)。かの女はスール・ルイズ・マリ(SOEUR LOUISE -MARIE)とよばれた(169)。
ビルジニは他の修道女とともにアウグスチノ会の建物に引っ越した。そして、それから3カ月ほど経った頃、かの女は授業の手伝いを始めた(170)。ところが、この授業をしているときに、かの女のまうしろの窓ガラスが壊れていたために頭の後ろから冷たい風をうけ、ひどい風邪を引いてしまった(冬のことだった)。ビルジニは壊れた窓について苦情をいうわけでもなく、風邪をひいても、たいしたことはないのだと云って(171)、たいして気にかけようともしなかった。
復活祭の日、ビルジニは床から離れることができなくなった(172)。この頃から、アデルはかの女の容態を心配するようになった(173)。
6月になると、かの女の容態は、すこし良くなった(174)。しかし、その一ヶ月後、再び悪化した(175)。肺はひどい炎症をおこしていた(176)。共同体はかの女のために祈りを捧げ(177)、また、かの女のための祈りを依頼した(178)。
1821年の秋、かの女はもはや回復の見込みがなくなり、共同体つきの医者ベロック(179N138)から、余命一年と診断された(180)。
しかし、一週間もたたないうちに、かの女の容態は急激に悪化し、10月30日、最後の秘跡を拝領した。この最後の秘跡は、すべての人のこころを打った。
その夜、アデルは、かの女の容態が悪くなったことを看護の修道女から知らされた。午前2時のことであった。ムーラン神父が終油の秘跡のために呼び寄せられた。ルイズ・マリは、はっきりとした意識のもとに、共同体全員に自分のすべての過ちにたいする許しを乞い、とりわけ「自分の忍耐力のなさ」にたいして許しを願った。
これについてアデルは、事実はちょうどその反対で、激しい痛さと、耐えかねるほどの息苦しさの中で「恐ろしいほどの苦痛」を忍びながらも、かの女は大きな忍耐力をもって堪え忍んだ、と述べている。
水曜日は、一日中、激しい苦しみが続いたが、ルイズ・マリは神以外のことは口にせず、周りの人びとを感化した。ムーラン神父は、夜を修道院で過ごし、翌、木曜日の朝早く、臨終の祈りをとなえた。
木曜日はもっとも苦しい時をすごした。そして、ルイズ・マリは、ムーラン神父に、自分を見捨てることのないように哀願した。一時間にわたる断末魔の苦しみののち、午前7時、やすらかに息を引き取った。
翌金曜日、11月2日は、教会典礼による死者の記念日であった(181)。
ルイズ・マリは死ぬことによって、自分がもっていたすべての所持品と、毎年不動産から生じる収入を共同体に遺した。修道院はアウグスチノ会の敷地内に共同墓地を作る許可をとり、ルイズ・マリを皮切りに、ここに埋葬されることになった(182)。
この墓地は崩壊した聖堂跡の隣にあり、アウグスチノ通りに面した入口の近くで、アウグスチノ広場に面した塀とサクリスティの中間にあった(183)。修道女たちの遺骸を修道院内に埋葬できることは大きな慰めである、とアデルは述べている(184)。
これら一連の死は、アデルに次のような信仰のこころを起こさせている。
「わたくしたちは、追放された人たちが天の祖国に飛び立ち、とらわれの身にある人びとが解放され、花嫁が天国の花婿をもとめて急ぐすがたを目の辺りに見ています」(185)。
死の手は、さらに幾人かの将来性のある志願者の命を奪おうとしていた(向かう2年のあいだに、あと二人の生命がうばわれた)。しかし、また、それと同時に、新しい志願者の数も増えて行った。
二人のデジェ姉妹(DEGERS)の他に、(1820年)9月にはヘレンが入り(186)、ジュリとユルシュール(187N139)が10月に入ってきた(188)。1月にはアントアネットが(189)、4月にはローズ(190)とマリ・ジョセフ(男爵夫人が少しやさしくしてくれた)(191)が入会した。スール・ギャブリエルが来た。しかし、ダビド・モニエ修道士が思ったように、かの女は堅忍しなかった(192)。
トナンにも志願者が来るようになった(193)。これが伝統となって、将来もそのように実践されるようになった。すなわち、分院で受け入れられた志願者は(公式・非公式の区別なく、ポストラントとして)、中央の修練院に送られるまでの(194)しばらくのあいだ、分院で過ごすことになったのである。
トナンではサンテスプリとサン・フランソアが病気になったので、アデルはかの女たちを援助するために、暫定的にユルシュールとアポロニをトナンに送った。
アデルは、また、ヘレンも手伝いに行かせようか、と提案している。ヘレンはスール・コンパニュ(労働修道女)としては、すばらしい将来性のある修道女であったし、ロロットからも高く評価されていた(196)。そして、その代わりに、ふたたび健康をがいしたカタリンをアジャンに呼び戻すことにした(197)。
このようにして、もう一つの伝統が形成されていった。それは、この二つの修道院のあいだを行き来する人事の移動である。すなわち、蟄居の誓願は、古い修道会のように、特定の修道院に閉じ込めてしまうものとして理解されることはなかったのだ。修道女が他の共同体に派遣されるのは、たんに新しい修道院を設立するときだけでなく、各修道院の必要性に応じて、また、その共同体がたずさわる事業の必要性に応じて実施されたのである。
シャミナード神父は頻繁な人事移動には賛成しなかったが(198)、健康や養成、院内の必要性や使徒事業での必要性に応じて移動させることには、いささかの躊躇もなかった。
さて、ビルフランシュでも、病気の蔓延は、緩むことがなかった。(1821年)7月頃までに、エミリ・ド・ロダの病気はさらに悪くなり、外科手術を受けなければならなくなった(199)。アデルはかの女に、自分の健康を保つために仕事の量を少なくするようにすすめ、ソダリティの仕事を他のシスターに委譲して、ソダリティのオフィサーたちに、もっと仕事をまかせるようにすすめた。あなたは、他のシスターたちのために自分自身を守らねばなりません。これがあなたの第一の義務です、とアデルはかの女にさとしている。しかし、そのように述べるアデルは、すぐに自分自身に目をむけて、実は、自分が他のひとからお叱りを受けなければならない正にその点にかんして、エミリに説教してしまったことを謝っている(200)。