共同生活の組織化
1818年4月 シャミナード神父の訪問
志願者の選択と養成 / アジャンの男子ソダリティ
修道会の男子部マリア会と在俗第三会
アデルの日課はぎっしりと詰まっていた。共同体の組織化と時間割にまつわる細かい問題、三部門の統轄、評議員会、会員との個人面談、ますます忙しくなる使徒活動、などである。アデルはこれらの仕事を夢中でこなしていった。住居の追加スペースの確保、じょじょに増加する志願者。これら変更や改善を加えなければならない点も数多くあった。最初は修道女の数も少なく、屋敷が広すぎてコンパニオン・シスター(労務修道女)の手が足りないほどであった。だからシャミナード神父は歌隊修道女たちにも、家事の手伝いをするように言いつけ、アデルにも自ら進んで模範を示すように助言したものだった(1)。
事実、ノビスや有期誓願者をふくめて、すべての修道女が勉強しなければならないことが山ほどあり、しかも日課の一部として手仕事をしなければならない状態にあったのだ。
このような手仕事には多くの利点がある。中でも沈黙と内省を実践する良い機会となり、会則が定めているわずかな念祷の時間を、ある意味で補ってくれていたのである(2)。
修道院生活を始めた最初の数カ月は、間に合わせの洗濯場しかなかった。シャミナード神父は、歌隊修道女はもとより労務修道女にも、洗濯のために近所の小川に出かけることを禁止した。
1816年9月のこと、シャミナード神父はアジャンを訪問した際、自分が協力して作り上げたミゼリコルドの洗濯場をアデルに説明し、同じようなものをアジャンにも作ることになった(3)。計画が進められたのはシャミナード神父がアジャンを訪問していた7月のことであると思われる。1817年12月には、すでにこの洗濯場は機能していた(4)。
修道女の衣類は共有にされ、サイズに応じて各人に支給された。しかしながら、病人が使用した衣類には印を付け、病室にいる人たちのために使用された(5)。
1817年8月、もと「牢獄」として使われていた場所の改装が完成し、引越しすることになった。「避難所」にあった元の聖堂は修道女の住まいとして使用され、二階の歌隊席は修練女の寝室になった(7)。
修道院も、じょじょに落ち着き、生活環境が整い始めると、シャミナード神父は、より忠実に蟄居を守るように指導した。洗濯場と庭園は囲壁の内側にある。従ってこの中に入ることができるのは、用事のある労働者のみで、その場合にも慎重な監督の下におかれ、修道女たちとのあいだに、ある種の隔たりが設けられた。仕事をしている労働者にメッセージを伝えたり、言付けものを手渡すために来るお使いの子どもたちは、この中に入ることが許された。しかし、そのような子どもでも、もし、ひどく修道院に好奇心を持っている場合には、模範的な修道女とのみ接することができるように配慮すべきだ、とシャミナード神父は述べている。もっとも、このようなお使いの子どもたちも、係の修道女に伝言をしてすぐに帰るとか、会うべき人を玄関で待つことができるような場合は、それに超したことはない、と師は述べている。だからシャミナード神父は、ベロックの召使などには、そのようにしつけるように希望した(ただし、ベロック夫人自身は、自由に囲壁の中に入ることが許された(8))。
シャミナード神父は、アデルがこのような「受身の」蟄居にかんして厳格すぎる態度をとらないように指導した(9)。ローモン神父は、病気の修道女を訪問するために来たときは、いつでも修道院の中に入ることが許された(10)。しかしこれも、1818年5月18日、シャミナード神父が訪問して現状を確認してからは、いくらか厳しく制限されるようになった(11)。
積極的な蟄居、すなわち、修道院の外に出ることにかんしては、もっと厳しい考えが適応された。志願者といえども、一旦修道院に受け入れられたならば蟄居を守らねばならなかった。なぜなら、これはかの女たちが入ろうと「志願している」修道会と切り離すことのできない一部分であると解釈されていたからである。
両親が訪問したときは、応接室で話をすることは許されたが、外出することは許されなかった。一般社会の人びとがこのような考えに理解を示してくれるとは、シャミナード神父も期待していなかった。しかし、アデルとその修道女たちには、これを理解するように求めた。そして、もし志願者が許可なく修道院の囲壁を出ることがあれば、そのまま二度と修道院に入れてはならない、と述べている(12)。
もちろん、訪問者はいつでも歓迎された。ジャクピ司教は、非公式に訪問した。ときには予告なしに訪問することもあった(13)。トランケレオンの男爵夫人も娘に会いにきた(14)。コンドムに住む三人のおばも、将来この修道会に入る可能性をこころに秘めて、アデルを訪問した(15)。
アデルは以前修道女であったおばが来訪した際、そのような状況を考慮にいれて、囲壁の中まで入れても良いのではないかと考えた。しかし、そのような特別扱いが、まんがいち、他の修道女に嫉妬心を起こさせる原因になってはならないと考えた。シャミナード神父の考えによれば、そのようなことは徳の高い修道女たちにとっては、何の心配もないと思われるが、このような差別的な行為が将来に前例を残すことにならないか、と心配した。そのようなわけで、師はアデルにたいして、おばたちを迎えるときは囲壁の外にある黙想の家で応対するようにとアドバイスした(16)。
おばたちの計画によると、50才になるコンパニオンで以前は修練女であったが、修道院が解散された後は、おばたちと居を共にしていた「転換修道女」(17)を連れて修道院に入ることになっていた。しかし、最終的には、おばたちは入会を断念した。おそらく高齢であることが、この最終決断を下すときの大きな要因になったのであろう。事実、おばたちは、そのころは、既に50才代であった。
修道院を訪れた人たちの中には、デュクルノ師やデュブラナもいたであろうと考えられる。二人ともアジャンに住んでいた。この二人の他に、シャルルの妻の実家、セバン家の人びとも訪問したと思われる。
もし、以前に、ロロットが黙想のために来ていたとするならば、修道院の中まで入れてもらっていたであろう。なぜなら、かの女は最終的にはスール・マリ・ド・ランカルナシオン(SOEUR MARIE DE L’INCARNATION)となった人で、この話をしている頃には、かの女はすでに、この共同体の一員になっていたのである(18)。
メラニ・フィガロール(MELANIE FIGAROL)も、いままでに修道院を訪ねた人たちのひとりであった。今では、かの女の家族は、タルブ(TARBES)に住んでいる。そして、かの女自身は、スール・クサビエ(SOEUR XAVIER)(19)の修道名をとって、修道院の一員となった。
ロロットの両親も、メラニの両親も、創立当初は娘の修道院入りを許可しなかった。修道院が創設されたとき、ロロットは28才、メラニはわずか20才であった。
1818年4月、シャミナード神父が修道院を訪れた。これで三度目の訪問である。今回の訪問は、18日間の長期にわたるものであった。滞在中の4月30日はご昇天の祝日で、スール・ドシテ(SOEUR DOSITHEE)とスール・セント・フォア(SOEUR SAINTE-FOY)が有期誓願を宣立した。アデルの説明によると、この二人は模範的な生活を送ったので、修練期を短縮してもらうことができたのだそうである(20)。
この誓願式の前日には、ソダリストの入会式が行われた。このとき入会した人たちの中には、三人の司祭がふくまれていた。一人は説教家の宣教師で、パッスマン神父(FATHER PASSEMENT)といった(21)。かれは説教台の上から、シャミナード神父を誉め讃えた。
滞在期間中、シャミナード神父は、修道院でのミサのとき、アデルの表現によれば「じつに見事な」訓話を行い、またみのりゆたかな講話や、個人的な面談を重ねた。そして、その訓話や講話のなかで、師は誰はばかることなく意見を述べた、とアデルは述べている。
事実、師は「率直に」いくつかの点についてシスターたちを叱責した。師は、当時、この共同体の中で蔓延し始めていたある種の習慣を、こころよく思っていなかったのである。とりわけ師は、修道女たちが蟄居を厳格に遵守することを望み、黙想の家と修道院との区別を明確にすることを望んだ。また、あまり頻繁に応接室を利用することのないように、とも忠告した。要するに、師が強調したかったのは、より良く沈黙を守ることであった(22)。
また、シャミナード神父は、この滞在期間中に、以前ボルドーのソダリストをしていたクラリス・デグランジュ(CLARISSE DESGRANGE)が修道院で起こした種々の問題を解決しようとした。将来を有望視されてボルドーからやってきたスール・サン・ジョセフであったが、かの女はかえって修道院の重荷になってしまったのである。距離をおいてかの女を指導しようとしたシャミナード神父の努力もむなしく(23)、結局は、かの女とそのコンパニオンを(24N107)おっぴらに叱責せねばならなくなり、昨年、1817年の7月に、シャミナード神父が修道院を訪問したときには、二人に償いを課さねばならなかった(25)。その時、シャミナード神父は、前年の3月から着衣していた修練女の服装をスール・サン・ジョセフから剥奪して(26)志願者の服に着替えさせたのだった(27)。
このことは町中に知れ渡った。それまで、この二人は、修練女の服を着て公教要理を教えていたからである。アデルは、そのようなかの女を授業に送り込むことをこころよしとしなかった(28)。しかし、本人はこの償いと屈辱を受け入れ、服従の態度をもって従った。将来に希望をもったシャミナード神父は、スール・サン・ジョセフとそのコンパニオンが、立派にマリアの娘として育ち上がるのを期待した(29)。
しかしながら、このスール・サン・ジョセフは、非常に気まぐれで怒りっぽく、簡単に気を落とす性格をもっていた(30)。そして、それは、身体にまで反応した。シャミナード神父は、もし、かの女が自分からこれを克服しようと望みさえすれば克服できるだけの若さと力をもっていると見ていた(31)。しかし、かの女は不眠症に悩まされ、そのため、時として、定められた起床時間に起きることができなかった・・・しかも、そのようなことがかなり頻繁に起こるのだった。かの女が神経質で忍耐力に欠けているのは睡眠不足のためだ、とアデルは考えていた。
償いを課せられたことが世間の人たちにも知れ渡ったことに気付くと、かの女の状態は更に悪くなった。かの女が自分の弱さから立ち上がろうとしていることをアデルは知っていた。しかし、短い間に沢山の欠点に打ち勝つことはけっして容易なことではなかった(32)。シャミナード神父が「沈黙の規則」を作成したのは、かの女のためであった。しかし、かの女は、それをほとんど理解することはなかった。そして、シャミナード神父によると、かの女はそのような規則のあることさえも忘却しているかのように見受けられた(33)。
訪問が終わったのちも、シャミナード神父は、かの女との連絡を絶やさなかった。そして、かの女は少し改善されるかに思われた(34)。スール・サクレケールの直接の監督のもとでしばらくのあいだ過ごした後、もう一度修道服を着用する許可を与えられた(35)。しかし、シャミナード神父は、かの女がこころの底から信仰と望徳と愛徳に燃えない限り、真の意味での希望はないと述べている。
1818年4月、シャミナード神父がアジャンに来た頃には、もうかの女は修道院に居ることができないほどの状態になっていた。かの女は自分自身の意思で修道服を脱ぎ、退会の許可を願い出た(36)。
ボルドーに帰ったクラリスは、マドレーヌのそばに住む善良な婦人(クラリスの父親はパリに住んでいた)のもとに寄宿し、引続きシャミナード神父の指導を受けながら過ごすことになった(38N108)。
ロロットはサン・ジョセフに強く心を寄せていたので、かの女がいなくなって、ひどく寂しいおもいをした(39)。ロロットは、後日、このような結果になり終わったことの裏には、自分のいたらなさが大いに災いしていた、と告白している。ロロットには、クラリスの善意と同時に、かの女の欠点にも多々気付いていたのである。しかし、そのために、必要以上にかの女に目を掛けた。ロロットは、むしろ、もっと修練長スール・サクレケールの意見を尊重し、修練女にたいするサクレケールの指導を、容易にしてあげるべきだったのであろう。
ロロットの行動は共同体の嫉妬を招き、修道女と長上との関係に水をさし、クラリスと他のシスターたちの距離をますます遠いものにしてしまった、とアデルは見ている。アデルは、クラリスにたいする心配のあまり、他のシスターからの正当な諫言にさえ耳を傾けることができず、過ちの可能性を認めることができなかった(40)。
アデルは非常に厳しく自分自身を反省し、クラリスとの人間関係が必要以上に感情的で、共同体を分裂させるようなものであった、と感じ取っていたようである(41)。1818年の年次の黙想では、かなりの時間をかけてこの点を反省している。アデルは、ますます被造物から心を離脱させ、より完全に自己を神にささげるとともに、あらゆる差別を遠ざけて、すべての姉妹たちに愛を捧げることを決心した(42)。
さて、アデルは、このようなサン・ジョセフの問題が片付いて、今ではこころの平安を取り戻したと云いながらも(43)、スール・サン・ジョセフのことを忘れさってしまうことができなかった。一年以上もたった1819年の9月、アデルはもとのノビスにかんする気がかりな点をシャミナード神父に手紙で記した際(44)、その中にクラリスあての手紙を同封して、それを本人に渡すか渡さないかはシャミナード神父の判断に一任している。
あの「かわいそうなクラリス」(45)に心をそそぎ込んでいたアデルは、弱く変わりやすいクラリスの救霊を気遣い、信仰を捨ててしまうのではないかと恐れていた。そして、シプリアンとアウグスチヌスの手本を思い起こして、「あなたはそれでも偉大な聖人に成れるのですよ」と述べている。また、サン・ジョセフから全く便りがないことを気に掛け、このような無関心な態度をとられても自分のクラリスにたいする友情は消え去るものではない、とも述べている。そして、その手紙の最後に、「恩寵に敏感でありましょう。まだ時間が残されています。勇気をもって下さい」と、励ましの言葉をしるしている。
おそらくシャミナード神父は、アデルが必要以上にクラリスのために気をつかっていると考えたのであろう。同封されていたアデルの手紙をクラリスに手渡さなかった(46)。このことから考えれば、サン・ジョセフの方からアデルに手紙をだした可能性が強い。そして、おそらく、シャミナード神父にことづけされたアデルの手紙を受け取らなかったことを知らせたのであろうと思われる。これは、シャミナード神父が、サン・ジョセフがいろいろな姉妹に宛てて書いた手紙を一括して、小包で修道院に送り届けた事実からも推察できる(47)。
アデル自身が、まだ長上としての管理技術を学びつつあった頃に直面した「人間問題」は、このスール・サン・ジョセフのケースだけではなかった。この他に、聖体拝領の許可を断わられて神経衰弱にかおちいったスール・マルタの問題があった(48N109)。
同じようなことを二度繰り返さないためには、どうすればよいのだろうか。アデルには解らなかった(49)。サンテスプリが、ふたたび共同体の重荷になったのである。
シャミナード神父が認めているように、これらの問題は、明らかにみ主が姉妹たちの愛徳を試すために送られた十字架であったのだろう。
アデルは、サンテスプリの問題を解決するために、応接室に「傍聴する修道女」を陪席させる規則を作らねばならなかった。こうして玄関の呼び鈴に応えようとするサンテスプリを、そこから引き離すようにしたのだが、問題を大きくすることなくこのシスターを矯正することは、至難の業であった。できる限り、かの女が世間の人びとに働きかけて修道院の悪口を云わせたり、修道院の内部事情に好奇心を起こさせるような機会をつくらないように配慮しなければならなかった。そして、その間、他の修道女は、友愛と祈りの内に、このようなサンテスプリを許容しなければならなかったのである(50)。
数カ月後、サンテスプリは以前よりも良くなったように見受けられた。なぜなら、この修道女は、ふたたび門番を勤めるようになり、人びと交わるようになったからである(51)。
スール・マルガリタという修道女がいた。この修道女にかんする細かいことは余り知られていない。1817年の8月、アデルはかの女に満足し、着衣させることができると考えた(52)。しかし、それから一年を少し過ぎた頃、シャミナード神父は、スール・マルガリタが会を去ったことを感謝している。そして師は、かの女を十分に確かめないで急いで入会させたアデルを叱責している。しかし、共同体はこれによって多くを学んだ、とシャミナード神父は考えた(53)。
スール・トゥリニテという修道女もいた。この修道女は何回も出たり入ったりして、なかなか入会を決意することができなかった。修道生活の第一歩が、世を捨てることにあるということを、この人はまだ理解していないのであろうか、とシャミナード神父は語っている(54)。じっさい、かの女は最後まで修道生活を堅忍することはなかった(55)。
シャミナード神父は、このような問題が起こるであろうと予見していた。1817年2月、師は入会の希望者をあらかじめ厳密に吟味するように強調し、修道院に入ったのちは適切な見習い期間を設けるように力説した。志願者が修道生活に従事するだけの健康に恵まれているか、欝病や精神病、目まい等の症状を持っていないか、などを十分に調べなければならない。このような症状は、家族たちは隠したがるものであり、本人は軽く考える傾向がある、と述べている(56)。
シャミナード神父のこの言葉が、どれほど的を射たものであったかは、これにつづく数年のあいだに実証された。そして、少しづつ、アデルは、志願者の受け入れに慎重になるのだった。
最初の頃のアデルは、その親切心から、来る人はだれでも受け入れようとした。世間に野放しにしたために救霊を全うすることができなくなった場合のことを心配したのである。しかし、後になって、志願者を厳選することは、本人にとっても修道会にとっても、大切なことであることを理解した。
意味は少し異なるが、修道会が創立されて約一週間が過ぎた頃、シャミナード神父は、14世紀に書かれた修道生活に関する書物から一文を抜粋してアデルに送っている(57)。
誓願の宣立が僭越な行為にならないように、慎重な試みが行われた。ある人が考えるように、単にそれが許されていると云うよりは、むしろ今日においてはその方が利益をもたらすという理由から、先人たちは、世俗的な人びとに修道生活への興味をもたせるよりは、むしろ、召命が明確でない者を退けることに力を尽くしてきたのである。事実、聖ベネディクトは、まさにこのようなことを命じている。教会に修道者がいるとは絶対に必要なことではない。しかし、もし居るとするならば、その修道者は完徳を目指す人であるべきであり、微温に浸る人であるべきではない(58)。
もう一つ別の問題がアデルを直撃した。ある聴罪司祭(59N110)が、共同体の規則に反するような指導をスール・アンヌに与えたのである。シャミナード神父はこの微妙な状況を賢明に処置したアデルを誉め、将来このようなことが起こった場合のためのガイドラインとして、聴罪師を選ぶときは修道会の会則に精通している司祭を選ぶことが大切であると指摘している(60)。そのうえ、聴罪師を容易に変えることは本人にとっても共同体にとっても良くないことである。それは、規則正しく順序をへて与えられる指導の成果を否定することになるからだ。共同体の聴罪師を任命するときは、司教はこのようなことを念頭において行っておられるはずだ、とシャミナード神父は述べている(61)。
霊生部長であったスール・テレーズは、創立から間もないころ、一つの危機を経験した。かの女は自分の召命に疑いを持ったのである。しかもかの女は、自分が召命にたいしてどれほど忠実に応えているか、また、どれほど忠実に祈っているかについて疑問を持ったのだ。シャミナード神父は、過度の内省と自己糾明で時間を無駄にしないようにと警告している。また、過去について痛悔することも必要であろうが、決然として未来にむかって前進することも大切なことである。自分の職責にたいして力不足であると感じるのはきわめてノーマルなことである。アデルは、スール・テレーズをその職に留まるように励ますべきであり、神のご意思にお任せし、より深い祈りの精神を養い、霊を見分ける力を養い、また、霊生部長としての職責にあっては、厳しさの内にも均衡のとれた親切心をもって当たるように指導すべきである、と述べている(62)。
アデルは共同体の面倒をみるだけにとどまらず、修道会に入らなかったアソシアシオンのメンバーにたいする配慮も怠らなかった。コンドムとその周辺地域で種々の仕事を行っていたロロットとも常に連絡をとっていた。オーラン(AURENS)の小さな学校がますます盛んになることを喜び、もしロロットが修道院に入ったならばこの経験を活かしてスール・サンバンサンが担当している修道院のクラスを助けて欲しい、と述べている(63)。
コンドムでのソダリティの発足は難航した。デステラックと、その地の聖職者の間には、ある種の現実的なためらいがあった。かれらはシャミナード神父が来ることを必ずしも歓迎していなかった。かれらは、もしソダリティ、特に男性によるソダリティが公然と設立されるならば、まだ革命の余韻が残っているコンドムでは、かえって反感を買うことになるだろうと考えたのである。
シャミナード神父はアデルの助けをもとめた。アデルはコンドムの情勢についてシャミナード神父よりもよく知っていたからだ。師はアデルの意見を求め、そして、カステックスに提案して、かれ自身の名前か、それとも考えを共にする他の男子青年または父親の名前をつかって、自分を呼び寄せてくれるように頼んだ(64)。
そうこうしている内に、コンドムではウルスラ会(URSULINES)が、会の伝統に基づいた「ソダリティ」を発足させた。もしアソシアシオンがおおやけに行うことができないならば、これに合流すれば良いではないか、とロロットは考えた。アデルはこれに答えて、ウルスラ会のグループが自分たちと同じ目的を持ち、同じような利点を会員に与え、正しく指導されているならば問題はないだろう。わたしたちはパウロやアポロのためではなく、イエス・キリストのために働いているのだから、と述べている。
しかし、アデルとしては、もしできることならば「ご託身の分会」を消滅させたくはなかった。アソシアシオンとの関係を絶ち切ることなく、他のソダリティのメンバーになることはできないものであろうか(65)。また、もし、まだ公式にアソシアシオンに入会していない人がいたならば、その人はウルスラ会のソダリティに参加してもよいのではないだろうか。このようなことは、あらゆる面で、アソシアシオンにも言えることなのだから、とアデルは考えた(66)。
「ご託身の分会」の身の振り方に関して、アデルはシャミナード神父とムーラン神父に相談した。これにたいするシャミナード神父の答は、「ご託身の分会が聖アンジェラのソダリティと呼ばれるグループに合流することは許されない。そのことをロロットに伝えるように」(67)と、極めて直裁な言葉で自分の考えを示している。
それは、一つには、このような16世紀に栄えたソダリティが現代においても昔とおなじように効力のあるものとして復活し得るかどうかを、シャミナード神父は疑問に思っていたからである。また、さらに念頭に入れておくべき大切な点は、「聖ウルスラのソダリティ」が「無原罪のおん孕りのソダリティ」と共通している点は、ただその呼称のみである、ということであった。
師はこの両者のあいだの二つの大きな相違点を指摘している。先ず第一に、前者は統治する者のソダリティであるのに対して、後者(シャミナード神父のソダリティ)は統治される者のソダリティであること、そして次に、前者は徳について教えるものであるに対して、後者は模範を示すことによって急速に他者を教化するものである(68)、という二点であった。
その翌年になると、無原罪のおん孕りのソダリティはすっかりこの地に定着した。カステックスは公開集会を開き、新しいソダリストを募集する認可も得た(69)。
アデルもシャミナード神父も、ロロットが修道院に入るのは時間の問題だと考えていた。だから二人はロロットに手紙を書く度に、早く意を決するように勧めるのだった(70)。そして二人は、ベロックがロロットの兄弟のためにお嫁さん探しをしている、と伝えている。義理の姉妹がくれば、いまロロットを束縛している家事から解放されるだろうと考えたからである(71)。
ベロックはお嫁さんの候補者を捜し当てた。その人はマドモアゼル・クリスチーヌ・サン・ジリス(MLLE CHRISTINE SANT-GILIS)と呼ばれ、アデルも認めているように、特別にすばらしい容姿ををもった女性ではなかったが(取り立てて美人でもなく見苦しくもなかった)心の暖かい人で、信心篤く、裕福な家庭の人であった(72)。
しかし、この縁談はまとまらなかった。だから、当然のこと、ロロットも家事から解放されることはなかった。しかしこのころ、ロロットは修道院を訪問している(73)。
近隣に住んでいたアメリは、アジャンのソダリティの仕事にどっぷりと浸かっていた。修道院で開かれるソダリストの集会で、アデルと一緒に講演をすることもあり、修道院には足繁く顔を出していた(74)。アメリが休暇に出かけると、必ずと言ってよいほどその行き先の地に新しいソダリティの核が作り上げられた(75)。また、アデルが断言しているように、かの女は身の回りの召使たちを聖化するように努力した(76)。
アメリはまた、日曜日やその他の特別な機会には、修道院の共同体に参加し、囲壁の中へ自由に入ることが許された。時には食事や休息の時間を修道女とともに過ごすこともあった。かの女は修道女の衣服に似た黒い洋服を身にまとい、持参金を修道院に入れていた。また、スール・ルイス・ド・サン・ジョセフ(SOEUR LOUISE DE SANT-JOSEPH)の修道名をもち(77)、正式に帰属していないという一事を除けば、あらゆる面で修道院の一員であった。
アメリは、当初、創立の仲間とともに修道院に入ろうと考えていた。しかし、そのちょうど一ヶ月前に母親が死亡し(78)、残された父親の面倒を見なければならなくなったのである。数カ月のちに父親も死亡した。しかし、それでもかの女は家から離れることはできなかった。幼い弟たちが残されていたからだ(79)。アメリ自身も、身体が丈夫なほうではなく(80)、絶えず用心していなければならなかった(81)。それでアメリはバネール(BAGNERES)の温泉で湯治をし(82)、アソシエイツの祈りや(83)聖人の遺物(84)の助けに頼っていた。かの女はシャミナード神父と文通を続け、種々の件でシャミナード神父の代理を勤めたことがあった(85)。それほど、かの女はシャミナード神父から信頼されていたと言える(86)。
家族とともに移動の生活を続けていたメラニは(87)、この頃も、やはり、行く先々でソダリティの種を蒔いていた。そして、これらのグループの代表者にはアデルが連絡をとり、関係司祭にはローモン神父が手紙を送った(88)。メラニは、いずれ両親のもとを去り、修道院に入る希望をこころに抱いていた。そして、以前にきめたスール・クサビエ(SOEUR XAVIER)の名前を保持していた。アデルによれば、かの女は熱意に溢れた人物であった(89)。メラニはフロランチン・アベイエ(FLORRENTINE ABEIHLE)と協力して(90)タルブ(TARBES)とマルシアック(MARCIAC)でソダリティのグループをつくっていた(91)。アデルはその仕事のために祈りを捧げている。
アデルはメラニやそのほかの人たちがしている仕事の中に自己の延長を見ていた。自分に宛てて書かれた手紙を読んで、アデルは叫んでいる。
「ああ、神よ。わたしのこころはあなたをお愛し申し上げるには余りにも小さすぎます。しかし、そのために、かえって他の多くの人たちの心があなたさまをお愛し申し上げることになりました。そして、その方々の愛のおかげで、わたしの弱さが補われています」(92)。
メラニは修道院を訪問することはできたが(93)、両親はかの女の入会を許さなかった。だからといって、許可のないまま家を飛び出して来ることもできなかった(94)。ある時アデルは、父親がパリに出かけている間に修道院に入る許可を願ってはどうか、とメラニに提案した。直接に面と向かって許可をとるより、手紙でお願いする方がやさしいだろうと考えたからである(95)。
それから数カ月のち、母親と聴罪司祭から入会の許可をとりつけた。しかし、父親だけは頑固にかの女の修道院入りに反対した。そこでメラニは、次に父親がパリに出かけた折りを見計らって、衣装とお金を持って修道院に逃げ込もうと考えた。しかし、この計画も水泡に帰した(96)。
その間、ソダリティはネラック(97)やオーク(98)(AUCH)など、アジャン以外の土地でも発展しつづけた。ベロックはポール・セント・マリで素晴らしい成功をおさめた。みるみる内に、10人の活発なソダリストが誕生し、多数の志願者が集まった。その地の主任司祭は非常な熱意をもって指導に当たってくれた(99)。シャミナード神父も、あちこちの地方からもたらされるいろいろな要求事項を精力的にこなして行った(100)。師は、自分が地方に出かけなくとも、その地の主任神父が指導できるように、ある種の共通のガイドラインを作成することにした(101)。ラリボー神父は相変わらず第三部会の指導に挺身し(102)、アデル個人の霊的指導司祭としての勤めも果たしていた(103)。
しかし、アジャンの男子青年部の動きにはシャミナード神父は落胆を隠しきれなかった。
まずボルドーで基本的な準備をしたシャミナード神父は、(1816年6月の)アジャンへの最初の訪問の際、ムーラン神父(MOURAN)とダンピエール(104)、ラコスト(LACOSTE) (105N2)、ダルディ(DARDY)(106N111)と協力して、ソダリティの男子青年部の創設の作業を進めた(107)。
当初、このソダリティは多大の成果を上げ(108)、極端な反宗教政策をとった大革命によって恥辱を加えられた有名なボナンコントゥルの聖母像への償いの巡礼が企画されたときにも、これに協力したほどである。その巡礼の行列では、ベロックとマダム・ヤナッシュなど、数多くの女子青年の人びとが聖歌を歌い、マリアの旗を掲げて進んだ。新しく入会した男子青年部の人たちも、複製のマリア像を担いで行列の中心を行進したのだった(109)。
しかし、この成功は長続きしなかった。8月の中旬、ちょうど巡礼があってから二ヶ月後のこと、ムーラン神父の神学校時代の校長であるガーデル(GARDELLE)神父は、市長から手紙を受けた(110N112)。この手紙は、直ちにソダリティのすべての集会を「停止し、手を引く」こと、また、いままで夕刻に集会を開いていたノートルダム・デュ・ブール(NOTRE DAME DU BOURG)教会を(111)日没と共に閉門すべきことを命じてきたのである(112)。
どうやら、ラコステがフィロソフィズム(哲学派)に対抗するような講演をしたらしく、市のボルテール派の人びとが武器をとって立ち上がったのである(113)。ロロットに伝えているアデルの叙述は、生き生きと、この時の状況を物語っている。
「悪魔は良いことであるならば何にでも嫉妬を抱く。いまや、かれらは多くの善をおこなってきた男子のソダリティに、戦いを挑んでいる。告白室は人びとで満ち、罪悪の巣は見捨て去られようとしている」(114)。
この弾圧にたいする公の理由は、集会によって近隣の静寂が乱された、と云うものであった(115)。シャミナード神父は理を尽くして弁明したが、そのかいもなく(116)、また、ガーデルとジャクーピの努力もむなしく、地方当局は頑固にその立場を変えようとしなかった。アピールも行われた。市が弾圧の挙に出たとき、母親の看病のためにアジャン市を離れていたダンピエールや市の行政長官も、このアピールに参加した。しかし、パリの中央政府にこの件が持ち込まれるや、すでにジャクピに反感をもっていた中央政府は、問題を解決することなく、ただ時間を引き延ばし、問題に関わることを避けようとした(117)。有名な宣教師パッスマンの尽力に支えられて(118)、シャミナード神父が次に訪問した際(1817)、ソダリティを復活させようとしたが、これも失敗に終わった(119)。
市長の弾圧からのがれた女子のグループは、いままで通り健全に活動を続けた。シャミナード神父は、できるだけ組織を簡素化するように指導した(120)。女子青年部は毎日曜日、小教区のミサののちに集会をもち、婦人たちは火曜日に集会をもつことにした。婦人部の責任者としてはベロックがこれを担当し、女子青年部は直接修道女がこれに当たった。
最初の頃は、アデルとアメリがチームを組んで女子青年部の集会を指導した。集会は頻繁に開かれ、ソダリストは与えられる講話に好意をもって反応した。かの女たちは集会を楽しみにし、次回の集会を待ち望むようになった(121)。アデルが修道院に入ってからは、エンマヌエルがアデルの代役を勤めるようになり、最終的にはアデルの後を継ぐことになった。
エンマヌエルは若い女性のあいだに大きな影響力を持ち、かの女たちの信任を獲得すると同時に、ある時には「遜らされるような告白を」打ち明けられることさえあった(122)。
スール・テレーズもソダリティのために働いた。かの女もエンマヌエルとともにメンバーから慕われた。この二人は、メンバーたちとの個人面談にかなりの時間を費やして霊的指導を行った。アデル自身もソダリティの仕事に従事し、この仕事に時間を使いすぎて修道院の共同生活の妨げとなることを心配したほどである。若い女性たちは、シスターの助けを必要としており、シスターたちはそのために働くことを心から愛していたのである。
年若い修道院長、アデルは、こころの内をシャミナード神父に打ち明け、師を質問責めにすることを詫びるのだった。これにたいするシャミナード神父の答えは、アデルを正しく導くための諸原則を繰り返すことであり、会憲の中でアデルの助けになるような箇条を引合いにだすことだった。
師はアデルにたいして、一人のソダリストが直面している必要性を満たそうとして会則を変更させてはならないこと、それよりも、アデル自身の慎重な判断にもとづいて、個別の例外措置を構じるように、と指導している。ただ、原則的に云って、テレーズにしてもエンマヌエルにしても、ソダリストと個人的な話をするときには、「傍聴するシスター」の陪席を免除されるべきではない。それよりも、集会の時に一般的な解答とか説明を与えるようにして、特殊な問題をもっているソダリストにたいしては、霊的指導者に会わせるように手配すべきである(123)、と指導している。
シャミナード神父は自分の立場を直接スール・テレーズにも明示して、次のように述べている。
このような私的な対話はできるだけ避け、かつ、手短にしなければならない。スール・テレーズのためを考えるならば、できるかぎり一般的な教訓を与えるにとどまる方がよい。そして、ソダリストの個人的な指導の仕事は、婦人たちにまかせればよい(124)。スール・テレーズは、こうしてできた余剰の時間を利用して、修道院での若い修道女の養成のために、より有益な仕事に従事すべきである(125)。
シャミナード神父はこのように指導することで、この種の仕事を好み、それに没頭してきたシスターたちに、大きな犠牲を要求していることを、十分に理解していた。それで師はアデルにたいし、アデル自身が先ず率先してこのような個人的カウンセリングの仕事から手をひき、自ら従順の手本を他のシスターたちに見せる必要がある、と述べている(126)。このように修道女の活動を制限したとしても、それによって今行われている使徒活動に支障を来すことはなく、むしろ、それは修道女各人を守ることになり、修道院を多くの危険から守ることになる、とシャミナード神父は考えたのである(127)。
エンマヌエル自身にしても、できるだけ会合の数を減らしたいと考えていたようだ。かの女は、自分が投入した時間と努力が、それなりの効果を生んでいるかどうかに疑問を感じたことがあった。これにたいしてシャミナード神父は、神のみ言葉を述べ伝えることは、たとえ人びとから受け入れられなかったかに見えたときでも、その努力は無駄にはなっていない、と励ましている。キリスト者は、たとえ人が耳をかさなくとも、絶え間なく神のみ言葉を述べ伝えなければならない。成功はみ主のみ手にあり、み主のお望みになるときに成就するものだ。世の中の精神に浸りすぎることを警戒するエンマヌエルの恐れの気持ちは、もしその気持ちから自己の弱さを知り、み主の恩寵により頼むこころを起こさせるものであるならば、それ自体は正しいものである。しかし、その恐れの気持ちが福音伝導の熱意を冷やすことのないようにしなければならない。また、アデルはエンマヌエルにアドバイスを与え、賢明なカウンセリングを与えることによってこの仕事に協力すべきである、とシャミナード神父は述べている(128)。
この問題にかんして、アデルは、テレーズとエンマヌエルに相談した。そして、一つの方法をあみだした。日曜日の午前中に開かれるソダリティの集会は、どちらかと云えばカジュアルな雰囲気の中で行われる。シスターはこの場を利用して数多くのソダリストと対話するならば、オープンな場所でかつ手短に、個人的な話合いを行うことになる。このようなインフォーマルなやり方は若い女性の心をひきつけるには必要なことであり、また、かの女たちに安心感を与えるものである。午後の集会は一般公開で行われ、従って、よりフォーマルなものとなる。この時には訓話や講演が行われ、個人的に話し合う機会はつくらない(129)、というものであった。
若い女性たちはソダリティの環境を大いに好感をもって受け入れ、カーニバルの三日間は修道院で過ごしたい、と云う程までになっていた(130)。そこでムーラン神父は、この(1817年の)三日間にミニ黙想会を催した。この黙想会では、毎日、2回の「霊操」を行った。最初は午前11時から正午まで、二回目は午後4時から5時までであった。この二つの霊操をおこなっているあいだは、少女たち(15才から18才の女性)は修道院にとどまり、休息を取ったり、ゲームなどをして楽しんだ。
スール・エンマヌエルは、アデルの観察によれば、アデルのおばマダム・ド・ロルム(MADAME DE LORME)のように愛想よく魅力的で愛情に満ちていた。かの女は女の子たちの心を掴むのが上手で、自分の思うように子どもたちを動かすことができた(131)。
さて、この頃、ボルドーのソダリティにあるソダリティ予備軍に似たものが、アジャンのもう一つのグループで芽生え始めていた(132)。若い女性の心を掴むのが得意なスール・テレーズは、毎日曜日、修道院の庭のいちじくの木の下で集会を行っていた(133)。集まっていたのは10才から15才までの女の子で、まだ「ソダリスト」になる前の年齢だった。ときどきムーラン神父が霊的指導を行ったが、このグループの中心になっていたのは、何と云ってもテレーズその人だった。
アデルは、スール・テレーズのこの素晴らしい仕事ぶりに驚かされ、この「いちじくの木の分会」が、将来のソダリティに育つ素晴らしい苗床であると考えていた。事実、ガルデル神父はこの成果に大変感激し、このソダリティの予備軍に時間とエネルギーをつぎ込み、かの女たちに学校で「操り人形」の準備をさせておくよりは、むしろ初聖体の準備をさせるほうがよい、と修道女たちにすすめたほどである。しかし、当然のことながら、それでは社会が許してくれない、とアデルは付言している(134)。
社会が求め、司教が求めていたのは、授業であり、とりわけアジャンの町の貧しい少女たちへの無料の授業であった。修道会が創立される以前から、ジャクピ司教はアデルにそのような無料の学校を開くようにプレッシャーをかけていたし、シャミナード神父も原則的にはこれに賛意を表明していた(135)。
1816年11月、新しい修道会にたいして司教がいまだに完全な承認を与えようとしないのを見て、シャミナード神父は、数名の子どもを収容する小さな教室を開設するようにアデルに提案した。先生たちが教授方法に精通し、成功の可能性が見えてきたら、すこしづつ生徒の数を増やせば良い(136)。決して急ぐことはない、とシャミナード神父はアデルに伝えている。
とりあえずは、子どもたちの世話がよく行き届くように努力しておきさえすればそれで良い。まだ宣伝をする必要はない。またアデル自身も、親や社会にたいして、自分たちが子どもの教育を引き受けるというような約束をしてはならない、とも述べている。
最初にこの小さなクラスをまかされたのはスール・サン・バンサンであった(137)。スール・サン・バンサンは修道院に入る前に、すでに学校の経営を経験していたからである(138)。後日、スール・ルイ・ゴンザグがバンサンの仕事を補佐することになった(139)。
やがて、子どもたちを教えるこの仕事は、司教が考えていた貧しい人たちへの無料授業をはるかに超えたものに発展して行った。
教師としての素晴らしい素質と教養を備えたエンマヌエルが修道院の一員となった今では、ソダリティに興味を示さない上流社会の少女たちにも手を延ばすことができるようになったのではないか、とシャミナード神父は述べている。このような上流社会の子どもたちには、昼間の生徒として修道院での授業に出て教育を継続させるように誘いかければよい。このような子どもたちは、信心業よりも文法や仏文、イタリア語、音楽、地理などに興味を示すかもしれない、とシャミナード神父は述べている。
エンマヌエルが目的と方法を混同しないで働いてくれるならば、これらの少女たちを少なくともキリスト者として教育することができるのではないか、とシャミナード神父は期待した。しかし、アデルには、あわててこの仕事に着手しないほうがよいと諭し、むしろ、他の人からのリクエストに答える形で行うのが理想的であると述べている。そして、最後にもう一つの注意事項として、若い修道女のあいだに同じような教育の必要性があったとしても、外から通う生徒と同じ席で授業を受けさせることのないように、と指摘している(140)。
ますます煩雑になるソダリティの仕事に加えて、この学校の仕事の他に、さらに幾つもの仕事を手掛けるようになった。スール・サン・フランソアは貧しい婦人たちの世話をした。最初、フランソアーズ・アルノデル(FRANCOISE ARNAUDEL)が修道会を志願したとき、アデルはかの女の年齢と持参金の用意がなかったことを理由に、入会に難色を示した。しかし、かの女に貧しい人たちを教育する特殊な才能があることを知って、考えを変えた(141)。今、その才能はフルに使われている。かの女は貧しい婦人たちと集会をもち、貧しい人たちの使う方言を話し(142)、個人的な指導を与え、かの女自身の熱誠にふさわしく、立派な成果を上げているのである(143)。
週に四回集会をもつ約20人の年かさの婦人と、15才から20才の若い婦人が何名かいた(144)。この人たちは良心の問題を含めていろいろな問題を相談するためにスール・サン・フランソアの助言を求めた。フランソアはこの人たちを指導し、教え、必要ならば総告解の準備をさせて、「気の毒な聴罪師」のもとに送り届けた、とアデルは述べている(145)。
この修道女は、町の婦人たちのために、不和と長年の宿恨を癒してくれる道具となり、長らく手続きもしないまま放置されていた数多くの結婚問題を解決に導いてくれた。実際、長年教会から離れていた女性が ー 時には男性が ー 司祭に相談に来ると、その司祭は告白の秘跡を受ける準備をさせるために、先ずスール・フランソアのもとに送り込むことが多かった(146)。フランソアはこのような人たちに、初聖体(ある人は50才・60才になっていた)や堅信の秘跡を受ける準備もさせたのである(147)。
もう一つの問題は、売春婦である。1816/17年の冬はとりわけ寒さが厳しく、フランス全土は経済不況と農業の不作に見舞われた(148)。(例をあげれば、シャミナード神父の葡萄の収穫は、ほどんとゼロに等しかった(149))。この不況に大打撃を受けたアジャンの売春婦たちは、新しく開設された修道院の門を叩き、スール・フランソアの暖かい助の手に迎えられたのであった。スールは調達できるかぎりの食物をかの女たちに分け与え、こころの糧をも与えて更生の道を教え、善をなすように励ました。
シャミナード神父は、エンマヌエルのこのような隣人愛と、貧しい人びとを助けようとするかの女の熱意を賞賛している。しかし、一年たっても、まだ、このような「女の子たち」が修道院の門を叩き続けていることに、シャミナード神父はいささかのためらいを感じている(150)。警察が反対しない限り、できるだけこのような女性たちは公の施設に助けを求めに行くべきだ。神は助けたもうにちがいない、と述べている。このような人たちを助けることだけが新しい修道会が創設された目的ではなかったのだ(151N113)。
新しい修道会は、一人または数人の罪人を改心させるためではなく、道に迷っている社会全体を引き寄せ、改善することにあるのだ、とシャミナード神父はアデルに宣言している。そして、新しく生まれたこの共同体は、創立の目的により適した他の仕事に集中することこそ思慮分別の教えるところである、とも述べている(152)。
新しい修道院にとって、黙想会も大切な仕事の一つになった。この仕事は、会の目的にかなったものであった。修道院の建物の一部は、やがて黙想に来る婦人や少女たちのために使われるようになった(153)。集団で行われる黙想会のみではなく、個人的に行われる黙想もあった。シスターは全般的な教訓や講話を与え、個人的な面談も行った(155)。特別な事情のもとにおいては、「傍聴するシスター」を常に客室に同席させねばならないとする規則を、長上が免除することもできた(156)。そうすることによって黙想に来た人は、自由に黙想の係のシスターと話をすることができた。しかし、このことは、黙想に来た人が、どのシスターとも自由に話しかけることが許されていたと云うわけではない(157)。
黙想に来る人は料金を支払ったが、それは実費に過ぎなかった。1日に2フラン支払えば、蝋燭とパンとぶどう酒と肉、それに、洗面用具と寝具が支給された(158)。
黙想も、修道会が携わっているその他の仕事も、収入をもたらすものは何もなかった。アデルとアデルをとりまく修道女たちは、持参金で生活しようと考えていたし、アデルが相続した財産から生まれる利子と信者たちが自分からすすんで行う寄付金でまかなおうと考えていた(159)。こうして修道女たちは、無償で奉仕をしたのである(160N114)。
この最初の1年半の間に、シャミナード神父とアデルは、シスターの派遣の要請を少なくとも三回受け取っている。その一つはコンドムからのものであった。アデルは、もし派遣が可能になった場合、その資金面を支援してくれることになっている後援者をロロットに紹介している(161)。第二の要請は、オーク教区の教区長代理を勤めるフェナッス神父(FR. FENASSE)からのもので(162)、オーク市に修道院を誘致しようとする呼掛けであった(163)。この町では男女のソダリティが盛況で、新しいグループが神学校の中にもできていた(164)。
シャミナード神父は、もしこの地で新しい修道院を作るとしたら、それはアジャン修道院の分院であるべきだ、と述べている(165)。そして、ひょっとしてアメリが一助になるかもしれないと師は考えたが、実際的な計画を立てるにはまだ早すぎた。時が熟すれば、神は示して下さるだろう、と師は述べている(166)。
第三の要請はトナンからのものであった。
いずれにせよ、シャミナード神父は、今の時期に修道院を増設するのは時期尚早であると考え、依頼者には丁重に感謝すべきだが、聖ジョセフ会のシスターに行ってもらうようにすればよいのではなかろうか、とアデルに述べている(167)。
女子マリア会は、別の意味で、拡大して行った。アデルはその成長の過程を興味深く見守っている(168N115)。シャミナード神父の考えによれば、ソダリティの男子青年部は女子青年部によって補われない限り完成したものではなかった(169)。ちょうどそれと同じように修道会の場合も女子マリア会だけでは完成したものとは考えられなかった。
さて、シャミナード神父の言葉によれば、新しい修道会は、いまやそのあらゆる可能性を展開する準備を整えていた。「わたしたちが建てようとしている建物の土台」、すなわちそれは女子マリア会の修道女たち自身のこと(170)であるが、を悪魔はあらゆる手段を用いて破壊しようとしても不思議ではない。
この悪魔による試みというのは、新しい修道院がこれから数年のあいだに直面するであろう人事や経済にかんする諸問題のことである、とシャミナード神父は述べている。
さて、この土台の上に、ボルドーの大司教ダビオ(D’AVIAU)の承認をもって建てようとしていたものとは、アデルの言葉によると、「わたしたちの修道会の男子修道者による小さな共同体」であった(171)。まだ少数ではあったが(1818年6月)、この頃すでに、非常に模範的な人たちのグループができ上がっていた(172N116)。かれらは俗服をまとい、世間の人たちはかれらが修道者であることに気付いていなかった。今の世の中では、女子の修道会を作るよりも、男子の修道会を作ることの方が、はるかに難しい、とアデルは断言している。アデルはロロットにこのことについて沈黙を守るように警告している。この小さな共同体はマリア会(THE SOCIETY OF MARY)と呼ばれた(173)。
ボルドーの男子青年部では、アソシアシオンで起こったと同じようなことが起こっていた。最初に男性の「世にあって生活する修道者」が現れ、その人たちが今では一つの共同体の中で生活しているのである。創設の起源は1817年の5月にさかのぼるが、7人の同志が集まって創立の黙想を行ったのは10月であった(174)。
12月には私誓願を宣立し、試修期間を開始した。1818年6月までには創立の土台も固まり、女子マリア会の会憲(GRAND INSTITUT)に少々手を加えて、これに準じた生活を始めた(175N117)。かれらにも三つの部門が設けられた。もっとも有望視されていたジャン・バプティスト・ラランが霊生部長になった。シャミナード神父は、スール・テレーズに、かの女の「霊生部長としてのカウンター・パート(もう一人の相手)」が記した文書の写しを送った(176)。
8月、ボルドーで新しい修道者のための黙想会が催された。ジャクピ司教はムーラン神父とローモン神父をこの黙想会に送った(177)が、残念ながら司教自身は参加できなかった(178)。司教が二人の司祭をこの黙想会に送ったのは、この二人がアジャン教区のために働く宣教会の中心的な要員になって帰省することを期待したからである(179)。
黙想の最終日、9月5日。6人の修道士が終身誓願を宣立した。この6人の中には、シャミナード神父の友人ダビド・モニエ(DAVID MONIER)も含まれていた。後日、アデルはモニエ士について次のように述べている。
「モニエ士はわたくしたちの修道会(OUR INSTITUT)の男子修道者の一人です(なぜならボルドーでシャミナード神父は、俗服を着ている男性の共同体を作り上げたからです。しかし、この人たちは修道会(INSTITUT)の会憲を守り誓願を宣立しています)」(180)。
修道会のもう一つの構成部分である在俗第三会も発展の途上にあった。それは在俗の婦人とソダリストから構成されており、その多くはアデルのアソシアシオンのメンバーから成り立っていた。この人たちは一般のキリスト信者としての生活と使徒活動の他に、蟄居の誓願を立てる修道女には接触できない人たちや地方に、手を差し伸べようとする特殊な「ミッション」を帯びていた。
この人たちは、ある程度まで共同体の祈りの生活に直接参与することが認められており(181)、共同体の黙想会にも参加した(182)。かの女たちが従っていた会則は、ボルドーの「在俗修道者」の会則に似たものであった。従順の誓願と、修道会への献身の誓願、そして未婚の婦人の場合には貞潔の誓願を、宣立した。
この在俗第三会の上司はそのメンバーの間で互選されたが(アジャンの場合はベロック夫人であった)、その人は修道会の権威の下に所属した(183)。
1818年の終わり頃になると、この新しい修道会は、その三つの部分と、その各部分が育てているソダリティの諸グループと共に、南西フランスのほぼ全域にしっかりと根を下ろした(この南西フランスは、アメリカのオハイオ州とほぼ同じくらいの広さである)。