アデル26才 父親男爵の死
新修道会の会憲の完成
ナポレオンの百日天下は、シャミナード神父の上にも、ボルドーのソダリティの上にも、ただちに悪影響をおよぼし、壊滅的な結果をもたらした。しかし、このころ、アデルはまだこのことについて何も知らされていなかった。
1809年のソダリティの弾圧は、いままでになく悪い意味で警察の目を引き、民衆の注意を喚起した。事実、王政復古がはじまる数カ月前におこなわれた復古運動は、だれひとりとして知らぬものはいなかった。現に、先にも述べたとおり、ボルドー市に最初にブルボン王朝の旗を掲げたのはソダリティの会員であったのだ。
また、1814年の夏には、著名な王政派のひとりでパリのソダリストであったアレキシス・ド・ノエイユ(ALEXIS DE NOAILLES)とジュール・ド・ポリニャックJULES DE POLIGNAC)が、熱狂的な歓迎のうちに、ボルドーのソダリティに迎え入れられたのであった(1)。
ド・ノエイユは反ナポレオン運動家で、ラフォンと共謀した人物であり(2)、そのために投獄されていた。後日、かれはナポレオン皇帝に仕えていた兄弟の影響力によって釈放されていたのだった(3)。
1815年1月、処刑されたルイ16世の追悼式をカテドラルで行ったとき、国民衛兵のメンバーであり、かつ、ソダリストでもあった兵士たちが、銃を置いて祭壇に進み、聖体を拝領して、ミサに列席していた人たちを驚かしたことがある。それ以降、ソダリストはいつも公共で行われる宗教行事に参列し、聖体行列においては聖体を覆う天蓋を担ぐ栄誉を得たのであった(4)。
そして、この年の春、ナポレオンがパリに進軍している正にそのとき、ソダリティは衆人の目の前で、三人の貴族を公式に受け入れたのだった(5)。
だからナポレオンが復権すると、パリから派遣されたナポレオンの監督官やボルドーのナポレオン派の人たちは、ただちにソダリティのすべての活動を禁止する弾圧令を下した(6)。
シャミナード神父は、ふたたび逮捕され、今回は中央フランスのシャトルー(CHATEAUROUX)へ監視付きで流されることになった(7)。こうして、師とアデルの文通は断絶した(8)。
ナポレオンがチュイルリ宮殿にかえり咲いて2週間のちのこと、アデルのこころは苦汁と悲しみでいっぱいだ、とアガタに手紙で伝えている。
この予期せぬ政変によって、アデルがこころに抱いていた修道会設立の夢は無惨にも打ちひしがれた(9)。そして、父親男爵の容態も悪化した(10)。このときのアデルの手紙の冒頭に書かれた祈り(ACTE)はつぎのようなものであった。
「ああ神よ、この世が与えることのできない平和をわたしたちにお与え下さい」
アデルは今回の政変を念頭にいれて、この祈りを次のように解釈している。
「そうです、わたしの敬愛する友人よ。どうか神がわたしたちの待ち望む平和、外部のできごとに左右されない平和、この世のいかなるものごとにも左右されない平和を与えて下さいますように。そのような内的な平和は、神のご意思に完全に委された魂にやどるものであり、神のみ手から頂戴するものです。神は悪から善を引き出すことがおできになります。神のお許しなくしては、わたしたちの髪の毛一本たりとも失われることはありません。わたしたちがなにを一番必要としているかは、主はがいちばんよくご存じです・・・この世は涙の谷でしかありません。終わることのない幸福と平和を味わうことができる天の祖国へ、いつ帰ることができるのでしょうか」(11)。
またもや宗教にたいする弾圧が始まるのではないか。アデルは最悪のシナリオを想定した。ベロック夫人からルーシュ神父(FATHER ROUCHE)の訃報を受けて一週間たった4月13日に、アデルは次のように述べている。
「特にいまでは・・・主のみもとに魂をかえす人びとの死を残念がっていることはできません」。
さらにアデルは、今回の政変が自分たちの文通を阻止することになるのではないかと心配しており(12)、信仰の思いと祈りの内に力を求めている。また、このような時勢にあって、全アソシエイツが特別な祈りをマリアにささげることは時宜に適したことであると述べ、もしイエスがただの一言のべたもうならば、わたしたちのこころには静寂と平和がもたらされる、とアソシエイツたちに述べている。
アデルにとってこの時期が試練のときであったように、他の人たちにとっても試練のときであった。例えば、ある主任司祭は、皇帝の復帰を感謝する儀式を行うことに反対し、これを拒否した(13)。
しかし、この月の下旬、アデルの周辺には、少しではあるが、明るい光が差し込んできた。短い滞在であったが、コンドムの伯母たちがやってきたこと、そして、配達がおくれていたアジャンのアソシエイツからの手紙が、ついに配達されたこと、などである。
伯母たちの今回の来訪は、アデルには特別な喜びであった。それは、アデルがとくに親しくしていた伯母サン・ジュリアンが、修道会の創立に協力することになったからである。
アデルはローモン神父に、もし神の聖旨であるならば、急いでトランケレオンに来て伯母を励ましてくれるように、と依頼している(14)。伯母サン・ジュリアンは、今年で51才になる。
アデルは、毎日が忙しくなった(15)。男爵の容態は相変わらずアデルのこころを占領し、ますます手間暇をとるようになり、エネルギーをつぎ込まなければならなくなった(16)。熱がでると夜となく昼となく残酷なまでに男爵を苦しめ(17)、ほとんど寝ている暇さえなかった(18)。聖体を拝領すると、あるていどは苦しみが和らぐかにみえたが、アデルの表現を用いるならば、「ぞっとするような」(20)この絶え間ない苦しみのなかで、男爵はじっとがまんしていたのであった(19)。
聖体を拝領し、告白の秘跡を受けてから二日のちのこと、男爵は言葉が話せなくなった(21)。こうして男爵は話すことも出来ず、食事をとることもできなくなった(22)。
ちょうどこの頃、デュクルノ師も病で倒れた。アデルはデュクルノ師に、もし健康が快復するまで司牧活動を中止しなければならないのであるならば、ぜひシャトーにきて静養するようにと勧めた(23)。
アデルは26回目の誕生と洗礼の記念日を迎えた(24)。しかし、いまは父親の看病に全力を注ぎ込まねばならなかった。食事をさせてもほとんど呑込むことができず、スプーン一杯の流動食を呑込むのが精いっぱいであった。体力は衰弱し(25)、手足がむくんだ。家族はドゥッセ神父をよび、6月14日、終油の秘跡を授けてもらった。意識はハッキリとしており、その忍耐力とすべてをまかせきった信仰の徳をもって、見る人を啓発した(26)。
それから二日後の金曜日、男爵は一番大切にしていた祈りを読んでくれるように合図した。また、日曜日には、ひどく容態が落ち込んでいる中、ドゥッセ神父を呼んでくれるようにと合図した。神父は到着し、臨終の祈りをとなえたあとで、病人に心を神にささげるようにすすめた。祈りがちょうど終わりに近づいたとき、男爵は目を天に上げ、命を天にかえした(27)。1815年6月18日のことであった。ド・バッツ・ド・トランケレオン男爵。享年61才であった。
ただちにディシェレットはシャトーに駆けつけ、ディシェ家からの弔意を表わすとともに、かの女自身、「友人としての弔意」(28)を表明した。かの女の滞在は短いものであったが、それはアデルにも、そして、男爵夫人にも、貴重なものであった。未亡人は未亡人としての慰めをわかちあうことができたからである。
アデルの気持ちは複雑なものであった。これほどまでに長いあいだの闘病生活を送った父親と別れる悲しみ、そして、かれが示した忍耐とあきらめの態度にたいする満足感、今では天国の幸福をえているだろうことへの喜び、そして、これからは「大切な計画」を実行に移す身の自由がえられたことの解放感であった(29)。
ディシェレットの滞在中、二人は将来の計画について話し合った。今となれば一刻も速く計画を実行に移したかった。しかし同時に、もしこの計画が神の聖意にかなうものでなかったならば、いつでもこの計画を見送る心構えもできていた。アデルはアガタに、聖霊の光を祈り求めましょう、と書き記している。
「主よ、わたしに何をすることをお望みですか」。
「あなたの下女は聞いています。主よ、お話しください」(30)。
これはアデルが、その生涯の、この時点で、もっとも好んだ祈りであった。
父親の死去により、アデルは二重の意味で「自由」になった。先ずかの女はもう看病のためにシャトーに留まる必要がなくなった。もちろん男爵夫人は修道会の創立にこころから賛成してくれていた。もう一つの自由は、男爵が死去したその日、ナポレオンがワーテルロの戦いでウエリントンの率いる軍隊から決定的な打撃を受けたことであった。ときに6月22日のことであった。アデルがアガタに男爵の死の詳細を知らせた、その同じ日のできごとである(31)。
ナポレオンは再び帝位を退いた(32)。その栄誉あり、かつ、不名誉きわまる百日天下は、こうして劇的な終わりを告げたのである。今度は、英国は、かれを大西洋の南、アフリカから10マイル、ヨーロッパからは数千マイルも離れた不毛の岩場セント・ヘレナへ流すことにした。こうしてかれはその6年後、52才をまたずして、魂を天に返すことになるのだ。
ルイ18世は、再び王位についた。シャミナード神父もボルドーに帰った。こうして、教会もソダリティも、安堵の息をついた。
7月。アデルはアガタがトランケレオンに来るのを待っていた。自分たちの計画についてラリボー神父の助言を仰ぐために、二人でロンピアンに行きたいと考えていたからである(33)。しかし、アガタは来ることができず、逆にアデルがアジャンに行き、アガタとディシェ家の人びとを訪問することになった。アデルは、9月4日までアジャンに滞在した(34)。
アデルの訪問で、いつもの通り話に花が咲き、みるみる時間が過ぎて行った(35)。シャトーに帰ったアデルはアガタに手紙を書き、かの女の元を去ってからは、どれほど寂しく思っているかを述べると同時に、まもなく自分たちはいつまでも一つの場所に居いることができるようになるだろう、とも述べている。
計画は実現の一歩手前まで来ていた。だから自分の欠点を矯正しなければならないとアデルは自戒している。そして、それと同時に、偉大な聖人は強い情熱のもとに厳しく自己を制した人たちであったことを考えあわせて、自覚をあらたにするのであった(36)。
この時のアデルの手紙の中には、実生活のこまごましたことも記されていた。マダム・パシャンからアガタに宜しくとの言伝や、自分がディシェ家に挟みなどを忘れてきたので探して送り返してくれという依頼事項などである(37)。
それから数カ月、修道会創立の準備を進めるあいだ、これに並行して、いままで放置されていた種々の慈善事業に時間をさいた。そのため、いままで以上にいろいろな走り使いや買物をアガタに依頼しなければならなかった(38)。そして、今まで世話をしてきたデュブラナや、もう一人のジャン・セン(JEAN SEN)(39)のために、シャツを作ってくれるように依頼している。
男爵は自分が使用していたリネン類をすべて下僕のブリベルに遺していった。アデルは、このブリベルにポケット用のハンカチを作り、ウールの靴下を作ってやった。普段に使うものとしては、アデル自身が使用していたものを与えた(40)。
母親といっしょに、病人で、近所の村に住んでいる屑拾いを見舞いに行った。そして、かれが、余命いくばくもないのを見て取ると、すぐにかれを病院へ連れて行くように手配し、近辺の司祭に世話を頼んだ。病人はこの司祭に自分が直面している問題を打ち明け、助けを求めた。
実は、かれには二人の娘があり、年上の子は16才であった。しかし、二人とも庶子であったため、当時の教会法によって、この人が持っていた僅かの所持品も、この子どもたちに相続することはできなかった。子どもたちの生活をどうすればよいのか。かれは途方にくれた。そこで相談を受けたこの司祭は、アデルを相続人として定め、かの女に娘たちの世話を依頼すればよい、と助言した。
6月、この病人は死んだ。アデルは、自分が法定相続人であることを知った。この人は、小さな家と壊れかかったベッド、いくらかの生活用品を所持していた。アデルは(共同相続人となっていた)デジレと共にかれの所持品を売却し、そのお金を商人の手に預け、二人の娘の養育費をまかなう基金としてこれを投資してもらうようにした。
年上の子は善良で信心深い婦人の手元に預けられ、年下の子は養育園に預けられた。しかし、それからまもなく、その養育園が閉鎖され、病身であった年下の子への世話も行き届かなくなったので、その子をシャトーに引き取ることにした。そして、アデル自身、この子どもの世話をし、風呂にいれたり嘔吐を催すような傷口の手当をしたりしたのである。やがてこの子が元気になると、良家をみつけて住み込みの女中として送り込んだ(41)。
11月、アデルは喜びに湧いた。ローモン神父が、アデルの「養子」の一人、プロテスタントの小さな男の子トリクレ(TRICOULET) の面倒を見てくれることになったからである。アデルはこの子のために洋服を作ってやった(42)。この男の子の弟はラリボー神父の手もとで生活しており、妹もロンピアンに住んでいた(43)。
アデルは、また、ボルドーの貧しい婦人にお金を送った(44)。また、少女ペサケット(PESAQUETE)をアジャンに住むジュリの母親に預けた。そして、かの女の宗教教育をベロックとアガタに委せた。デュクルノ師にはこの子の聴罪司祭の役をお願いした(45)。
ジュリは結婚することになっていた。しかし、この縁談はこわれてしまった。アデルはこの召使の女の子が新しい修道会のメンバーになるのではないかと思っていた(46)。またそれと同時に、もう少し年上の召使の女の子についても気を掛けていた。それは、この子が民法上の結婚をしていたが、初聖体をまだ受けていなかったからである(47)。
アデルはいろいろと気を配ったが、シャトーで働いている一人の従業員のために信徳唱と望徳唱と愛徳唱をポルトガル語に訳してくれるようにと、コンドムのアソシエイツに頼んだのも、その一つであった。この従業員は非常に真面目な人であったため、アデルは祈りを教えて上げようと思ったのだった(48)。また、アデルは、アガタを介して取り寄せた布地で、ドゥッセ神父のアルバを作った。
ところで、アデル自身は、自分の持ち物や衣服を売り、そのお金で貧しい人たちに施しをしていた(49)。アデルはデジレからの施し物(30フラン)をアジャンに住むある貧しい婦人のためにアガタを介して送っている。しかし、このお金は本当に必要なことのためにのみ、よく考えて使ってほしい、と添え書きをしている(50)。
アデルは、また、持ち主不明のためにアジャンとトランケレオンの間を行ったり来たりしていたリネンの持ち主を探し求めたり(51)、シャルルの義父からのトリフの代金を送ったり、遠方にあるバッツ家の農場から送られてきた七面鳥をディシェ家に送ったりなどしている(52)。また、「マリアの召使の手引」を売りさばき(53)、売れ残りはコンドムのロロットに送ったりもしている(54)。
これらのこまごました仕事をアデルがしたのは、かの女の言葉によれば、「すべてを整理しておきたかった」からである(55)。
一方、ボルドーでは、シャミナード神父も多忙な日々を送っていた。ナポレオン政権が倒壊し、ルイ18世が再びパリの政権を掌握すると、シャミナード神父も安心して活動することができるようになった。師はこころの底から「国王万歳」と叫び、「宗教万歳」と叫んだのであった(56)。これまでのフランス史でもしばしば見られたように、いまのところは、この二つが仲良く手をつないだのである(57)。
ボルドーのソダリティは、再び生命を取り戻した。そして、どの部会でも分会でも、会員の数は著しく増大し、新しい分野にまで活動を広げはじめた(58)。
8月、ダングレーム公(DUC D’ANGOULEME)は妻を連れてボルドーに帰ってきた。シャミナード神父は、ちょうどその時、ボルドーに滞在していたモンモランシ(MONTMORENCY)を通じて公爵夫妻に「マリアの召使の手引」を二冊贈呈した。モンモランシは、シャミナード神父の言葉によれば、「もっとも忠実で模範的なソダリスト」の一人であった。公爵夫人は、この好意に感謝して、いくつかの花輪と額入りの絵をマドレーヌ聖堂に寄贈している(59)。
9月になって、やっとアデルはシャミナード神父からの返事を受けとった。この手紙の中でシャミナード神父は、まず、返事が遅くなったことを詫び、それは怠けていたからではなく、ボルドーのソダリティで大変忙しかったからだと述べている。これが一段落した今、シャミナード神父は、他のなにごとをさしおいてもアデルとその仲間たちのことに力を注ごうと考えた。
あちこちの教区からソダリティを設置してほしいとの要望が来ていた。しかしシャミナード神父は、先ずアジャン教区のソダリティの発展に全力を注ぐことにした。事実、このアジャン教区のソダリティの発展は、アデルの修道会設立の望みよりも時間的には先行すべきものだ、とシャミナード神父はアデルに手紙で語っている(60)。
ジャクピ司教は、他の司教や聖職者とともに、ボルドー滞在中の公爵夫妻に挨拶をしに出かけた。シャミナード神父はこの機会を利用して、ジャクピ司教に面談しようと考えていた。しかし、司教はしばらく行列を外れて旧友シャミナードに挨拶することはできたものの、おちついて面談する時間をとることはできなかった。そして、その時以来、シャミナード神父は仕事に追われてジャクピ司教に手紙を書く暇さえ持てなくなってしまった。
そのようなわけで、シャミナード神父はアデルとベロックにアジャン訪問のプログラムを作るように依頼したとき、その手紙の中で、このアジャン訪問のプログラムをジャクピ司教にも報告してくれるようにと述べている。
この訪問でシャミナード神父は、先ず初めにアジャンの男子青年部の訪問を行い、かれらメンバーを激励するための黙想会を指導しようと考えていた。しかし、そのためには、司教がソダリティの必要性を認めてくれる必要があり、また、その時すでにプレフェ(総監)に任命されていたマルキ・ド・ダンピエールの今後の活動を支援してもらう必要があったのだ(61)。
シャミナード神父は、このアジャンの訪問旅行の往復を利用して、できるだけ数多くのアソシエイツに会いたいと考えた。従って、そのために必要であるならば、どの道を通ることにしてもよいし、どこに泊まることになってもよい、と述べている。また、できることならば第三部会の分会が正式に設置されている場所の主任司祭たち全員と面談したい、とも考えていた。しかし、これは実現できなかった。
師は、アデルとベロックに、この訪問中におこなうべき行動計画を作成するように依頼し、作成できたら実際に手配をするまえに、自分にその計画を見せてくれるように依頼した。そして、女子青年部のために計画していることは、すべて黙想の婦人部のためにも実行したいとの意向を示した。だから、もし小さな町であるならば、二つのグループを同時に集めて集会してもよい、と述べている。
これらの分会あるいは分会の一部分は、それぞれ、その小教区のソダリティを形成するものであった。師は最新版の「手引書」を何冊かアジャンのベロックに送った。トナンのクレラック氏にも何冊か送って預けておいたらしい。師は、その本の第二部の冒頭にある「ソダリストの身分(STATE)への訓話」を幾度も繰り返して読んでおくように勧めている(62)。
しかし、シャミナード神父は「大切な計画」を忘れていたわけではなかった。師は会憲のテキストの検討に着手し、必要なリサーチを行い、おそらく二人か三人の賢明な人に原稿を送って意見を求めようとも考えていた。しかし、アデルに会い、アデルに会憲のテキストを説明するまでは、最終的なものにするつもりはなかった。さらに、アデルたちにたいしては、教皇と国王に報告するまでは、いかなる公式の行動にも出ないように、と注意をあたえた(63)。しかし、そのあいだも、アデルとアソシエイツが考えているような生活方式を、実際に自分たちで実践してみるのも良いことではないかと考えていた。
シャミナード神父は、自分の考えをすべてラリボー神父とローモン神父に知らせ、ベロックを通して司教の耳にも入れるようにした。一方、アデルとベロックには、この人たちの意見や反応を感知したならば、ただちにそれをシャミナード神父に報告するようにとも述べている(65)。実際、シャミナード神父のこの手紙と入れ違いに(65)、アデルは司教の意見を知らせている。
この知らせによれば、シャミナード神父もアデルも新しい修道会をボルドーに設置しようと考えていたのにたいして(66)、ジャクピ司教はその考えには承認を与えないというものであった。司教は、この新しい修道会を自分の教区に設置し、教区のために働かせようと考えていたのである(67)。しかも、アデルが手紙に記しているように、司教はシャミナード神父の仕事の進め方が遅すぎて我慢ができず、ベロックを動かして、修道院の設置に適した場所をアジャン市内に急いで探させていたのであった(68)。
事実、ディシェレットは、このころすでに適当な建物を物色し終わっていた(69)。それは、以前アジャン市の「避難所」(REFUGE)として用いられていた建物である。アデルはこの手紙で、この家を借りても良いかとシャミナード神父に問い合わせている。
これにたいしてシャミナード神父は、前の手紙からわずか4日という異常な早さで返信を書き(70)、その「避難所」を借りるように、と知らせてきた。しかし同時に、アデルが修道会創立の準備のためにしばらくのあいだボルドーに来て修道生活を学び、修道生活に適した生活習慣を身につけることは絶対的に必要な条件であるとも述べてあった。また、そのために必要な宿泊場所はシャミナード神父が探し、この二つの目的を達成するために必要な手配は、シャミナード神父が自分自身の手で行う、とも述べている。
シャミナード神父は、アデルにいくつかの修道会を訪問させ、創立者たちと話をし、その経験から多くを学ばせたかった(71)。その準備ができるまでは、アデルも、その仲間も、いままで通り聖霊の導きを祈り、毎日、聖母マリアにたいする奉献を新たにするように、「なぜなら、あなたたちはマリアの娘であり、世の人たちにたいしても、自分たちがマリアの娘であることを公表することになるからです」と師は記している(72)。
ところでアジャン教区にソダリティを正式に設置する計画は一時的な暗礁に乗り上げた(73)。ベロックとアデルが、一般公開の集会を開きたいというシャミナード神父の提案を説明すると(74)、ラリボー神父は、直接司教から自分に宛てた許可がくるまではこれについて積極的に行動することはできない、と主張したからである。
9月のなかば、ラリボー神父は司教から許可をとるようにベロックに頼んだ。しかしアデルはこれにたいして、ラリボー神父が自分で直接許可を願い出るべきだと主張した。それは、自分たちが度重なる要求をすることによって、職務多忙な司教にこれ以上の迷惑を掛けることは得策ではないと考えたからである(75)。
そうは云いながらも、アデルは、もし妥当だと考えるならばパラビス(PARAVIS)の修道院の聖堂を(76N72)ソダリティの祈祷所として認可してもらうように司教に伺いを立ててほしい、とベロックに伝えている。なぜかといえば、もしこの許可を受けることができなければ、教皇教書によってソダリティに与えられた贖宥を得ることができなくなるからであった。
この贖宥には、一般公開された祈祷所または半ば公開された祈祷所を訪問するときに与えられる、との条件がつけられていたからである。もちろんそのためには、パラヴィスの修道院の聖堂をそのような目的で使用するための同意をその修道院からも取り付ける必要があった(77)。
パラビスはフガロールとポール・セント・マリの中間地点に位置しており、ガロンヌ川からわずか3キロしか離れていなかったので、大勢のアソシエイツにとって非常に便利な場所であっった。パラビスの修道院からの返事は非常に積極的なものであって、単にソダリティに興味を示したのみでなく、計画されている新しい修道会設立にかんしても大いに興味を示していた(78)。
9月下旬、アデルは再度コンドムを訪れ、伯母やアソシエイツと話し合った。そこでアデルは、アソシエイツの一人であるアデレイド(79N73)が重病にかかっていることを知り、死と最後の審判の思いに恐怖を抱いたのであった。アデルは苦しむかの女のために祈りをささげるように会員たちに通知をだした。
コンドムには何人かの愛徳会の修道女がおり、アソシアシオンのメンバーにもなっていた。また、コンドムでは、第三部会の熱心な志願者がいたので、アデルはかの女を入会させようとしていた。同じ目的で、オクタビ・デュフォ (OCTAVIE DUFFAU)にも連絡をとろうとアデルは考えていた。他のアソシエイツやデュフォの母親の意見によれば、もしこの子が入会するれば、立派な会員になるだろうとのことであった(80)。マリ・アガタ・デスプロ(MARIE AGATHE DESPREAUX)も新しくアソシアシオンに入会した。かの女は労働者階級の出身で、年若く、将来有望な志願者であった(81)。
アジャンにも、「女子青年部」や「黙想の婦人部」(82)ならびに「男子青年部」(83)への志願者がいた。そして、それは、単にアジャンのみにおける現象ではなかった(84)。しかし、アデルは、フォンサグニャン神父(FONSAGNAN)とベロック夫人の双方にたいして、志願者募集には用心と賢明さをもって当り、明確に志願者としての素質を備えている人のみを選び(86)、単に数を増やすようなことはしないでほしい(87)と忠告している。なお、このフォンサグニャン神父は、1814年、サンタビで集会が行われたとき、アソシアシオンに入会した人であった(85)。
この町にある病院の専属司祭であったカステックス神父(CASTEX)がアソシアシオンのメンバーになった(88)。それは、おそらくこのコンドムへの訪問のときであったか、それとも、それ以前の訪問のときであったと考えられる。
このときのコンドム訪問には、アデルはベロック夫人を同伴していたと思われる。二人はカステックス神父に男子青年のソダリティにかんするシャミナード神父の願望を説明した(89)。
アデルがコンドムを訪問しているとき、シャミナード神父はボルドーで黙想をしていた。師はこの黙想のあいだにもアデルのことは忘れないと約束している。そして、自分の黙想が終わると、次々と男子青年部の黙想の指導を行った。この仕事は、11月の下旬まで続いた。それまでには川上の地方(訳者注:アジャンはボルドーにくらべて川上に位置していた)を訪問する計画を煮つめることができるだろうと云っていた。そしてその間、いま計画されている「マリアの娘の修道会」について自分が先に書き送った内容をよく考えるとともに、仲間たちにも熟考させてその反応を自分に聞かせてほしい、とアデルに伝えている(90)。
アデルはおそらくコンドムから返事を出したのであろう。アデルはこの手紙で、ジャクピ司教はアデルがボルドーへ行くことに反対している(91)と述べている。また、アデル自身も、アジャンの建物を借りるようにと云いながら長期間ボルドーに滞在するようにと云うシャミナード神父の言葉に戸惑いを感じている、とも述べている(92)。
10月の半ば、アデルはトランケレオンに帰り(93)、10月3日付けで送られてきた手紙を受け取った。この手紙の中でシャミナード神父は、たとえすぐに移り住むことが出来ず、三ヶ月ばかり空き家にしておかなければならないとしても、適切な建物が見つかったならば、その機会を見逃すべきではないと説明している。すぐに入居するために借りるのではなく、移り住むことが決定したときに何時でも入居できるように準備しておく必要がある。また、司教が、アデルがボルドーに来ることを許さないのであるならば、自分もすぐにアジャンへ行くことはできないのだから、新しい修道会の設立について自分が考えていることを手紙で知らせることにしよう、と述べている(94)。
師はまたこの手紙の中で、アデルとアデルの仲間たちは真の意味での「修道者」である。なぜならば、アデルたちが望んでいるのは伝統的な修道誓願の宣立であり、そのような誓願を宣立する希望をこころに抱き、かつ、それを守るために助けとなるような諸徳を実践しているのだから、と述べている。さらにつづけて、マリアがかの女たちの手本であり保護者である。かの女たちが誓願を宣立することによって、また、かの女たちがマリアと結ぶ関係そのものから、修道生活の本質的ないとなみが流れ出てくるのだ。かの女たちを他の修道会の人びとと区別させる特殊な点は、魂の救済への熱誠をもつことである。教室で教えたり、寄宿舎を経営したり、病人を見舞ったり、看護したりすることのために修道者になるのではない。このような仕事は素晴らしいことではあるが、それは、既成の修道会に委せることができる(95)。むしろ、かの女たちの仕事というのは、信仰を教え、あらゆる身分、あらゆる状況に生きる若い女性に善徳の生活を教え、真のソダリストに育て上げることであり、ソダリティの集会(総会ならびに個別集会)を開き、少女たちの黙想会を指導し、生活における自己の有様を識別できるように助けることである。「あなたがたの共同体は、完全に修道宣教師によって構成されることになるでしょう。そして、このような観点から、どの志願者がこのような身分に最も適しているかを識別しなければなりません」、と師は記している。
従って、ソダリティ、とりわけ「第三部会」は、かの女たちが修道生活に入るからといって、何も失うものはない。むしろその反対で、それによってソダリティは強められ、支えられることになる。会員の養成を準備するときは、まさにこのような使徒的精神によって導かれなければならない(96)。このようにして、修道会が創立されたならば、ソダリティが修道ソダリストと信徒ソダリストによって構成されることになる(97)、とも述べている。
10月18日、アデルはアメリとカステックスを連れてロンピアンに行き、ソダリティの発展についてどのようにシャミナード神父が考えているか、また、新しい修道会の創立につてシャミナード神父がどのように考えているかをラリボー神父とローモン神父に話した。
ローモン神父は、そこに集まったアソシエイツのために、三日間の黙想を指導した。18日、水曜日の夕刻から翌木曜日の丸一日と、かの女たちが帰省する金曜日の夕刻までの三日間であった。この黙想のあいだにローモン神父は6回の訓話をおこない、少々健康を取り戻したラリボー神父は、木曜日夕刻に、念祷を指導した。
アデルはラリボー神父と3回にわたって話し合う機会を持つことができた。かの女にとってこの話合いは非常に有意義なものであった。アデルはまた、この両日、聖体を拝領することができた。アソシエイツたちは自分たちの計画について長時間にわたって話合い、その実現が間近に迫っていることを喜んだ(98)。
アデルは、ここロンピアンでも(99)、また、コンドムにおいても(100)、自分の妹たちが本当に聖なる人であり、熱心で、自己犠牲的で、愛に満ちた人たちであることを知り、あらためて感嘆の意を表している。
ロンピアンで行われたこの熱烈な集会は、アデルにとっては素晴らしい経験であった。アデルは、文通に追われていたアメリに、アジャンへ帰ったらこのことを詳しくアガタに伝えてくれるようにと依頼している(101)。
ベロックは、司教とシャミナード神父の了承をえて、以前「避難所」として使われていた建物を借りる手はずを進めていた。男爵が死亡したため、アデルはかなりの財産を相続したが(102)、アデルはその一部を新しい修道会の創立の経費にあてる考えでいた(103)。一方、シャミナード神父は会憲の草稿に精を出していた。そして、アデルの友人約20名が、この創立に参加する準備をととのえていた(104)。
その間、アソシアシオンは成長を続けた。シャミナード神父は男子青年部の各グループを発展させるために、それぞれのグループに関連する主任司祭を伴って、まもなくこの地にやって来ることになっていた(105)。将来は明るく有望であった。
だが、いくらか暗い側面がなかったわけではない。1813年以降、重い病気にかかっていた(106)アガタのいとこスゴンドが帰天したのである。かの女の死は人びとに立派な模範を残し、遺族におおきな慰めを与えた(107)。また、アデルは、自分の教え子で教会を離れて民法上の結婚した人と、二人の年若いカトリックの女性について心配していた。実は、この二人はプロテスタントの男性とプロテスタントの教会で結婚式を挙げたのだった。従って、その結婚がカトリックの教会法によって批准されない限り、かの女たちは破門の状態におかれていたのだ(108)。
アデルの行く先は決して平坦な道のりではなかった。あらゆる種類の誘惑が行く手に立ちふさがり、かの女を落胆に落し入れようとするのだった。修道会創立の一員と考えられていたアデル・カヌエ(ADELE CANUET)は、母親に反対された(109)。コンドム出身のマドモアゼル・カラス(MLLE CALAS)も同様であった(110)。ディシェ夫人さえも、アガタとベロックが新しい修道会に入ることをあまり心よしとしなかった(111)。もっとも、ディシェレット自身は必ず創立に参加するつもりでいた(112)。
アデルはベロックの模範に励まされ、支えられた。そしてアデルはアガタを励ました。「落胆しないでおきましょう。いままでに多くを為して下さったお方は、これからも必ず配慮して下さいます。焦らないでおきましょう。そして、み主のご加護を待ちましょう。罪を避け、み恵みに忠実であることによって、ひたすらみ主の助けを待ちましょう」(113)と述べている。
サンタビのベロックに会うためにトランケレオンに立ち寄ったディシェ氏は、折りからの悪天候で足止めをされてしまった。しかし、アデルは悪天候をおして予定通りポール・セント・マリへ行き、そこでベロックと落ち合ったのち、二人でアジャンへ行き「避難所」の賃貸契約を結ぶことにした(114)。アデルはこの「いとしい家」に落ち着く日を一日千秋の思いで待ちこがれていたのである(115)。
無原罪のおん孕りの祝日はソダリティの保護の祝日である。アデルはこの輝かしい日をディシェ家の家族とともに過ごすため、アジャンにとどまった(116)。アデルは、自分たちの戦いが十字架と勝利のマリアのみ旗のもとに進められていることをあらためて思い出し、こころを強くした(117)。アデルはベロックといっしょに「避難所」を訪ね、この家をどのように使えばよいか、計画を練り始めた。
ジャクピ司教を訪問したのち(118)、アデルはシャミナード神父にアジャンから手紙を書いた。それによると、アデルは修道院が設立されると同時に、できるだけ早く、貧乏な女の子のための学校を開くように、司教から約束を迫られていた(119)。そして、シャミナード神父が、以前、このような仕事は他の修道会に委せておくべきだと述べたのを思いだし、自分としてはこのような司教の要求にどのように対処すればよいのか戸惑っている、と述べている。
12月4日の手紙で(120)、アデルは、最近のアソシアシオンの状況を報告しているが、この手紙の中でも、新しい修道会の設置にともなう種々の問題点と釈然としない諸点をシャミナード神父に知らせている(121)。
12月14日、アデルがトランケレオンに帰省すると、かの女の最初の手紙にたいするシャミナード神父の返事が12月6日付けで送られてきていた。アデルの12月4日の手紙は、ちょうどこれと行き違いになっていたのである(122)。
この手紙の中でシャミナード神父は、まず長いあいだ返事を書けなかったことを詫び(123)、かねてから企画していたソダリストの黙想を指導しなければならなかったこと、また、それに加えて大神学校でも黙想を指導しなければならなかったことなどを伝えている。ところが、この大神学校での黙想中に悪い風邪をひいてしまい、十分な手当をすることができないまま、無原罪の祝日の8日間、これまでにもまして忙しい毎日をおくらなければならなかったとも述べている。しかも、まもなくクリスマスの準備に追われることになる、と云っている。
しかし、シャミナード神父のこの手紙は悪い知らせばかりではなかった。師はこの手紙で、新しい修道会の会憲ができ上がったと知らせてきたのである(124)。いまこの原稿は何人かの学者や賢人に送られ、批判を仰いでいるところであった。生活の規則にかんしては、シャミナード神父は、大ざっぱなものしか作るつもりはなく、アデルと面談した上で完成することにしていた。そして修道院ができれば、そこで実際にその規則を使って試してみることにしていた。
師はまた、司教がダングレーム公に会うためにもう一度ボルドーに来ることがあれば、その際は是非司教に会おうと考えていた。師がアジャンへ行くのを延ばしていたのは、クリスマスの休暇をアジャンで過ごす公爵の旅程と食いちがうのを恐れていたからである。師は、また、ダンピエールに、公爵が出発したのちもアジャンに留まるように、と要望し、自分の旅程をかれに知らせておいた。そして、もしダンピエールがまだアジャンに留まっているのなら、司教を通じて、あるいは、もしそれが無理ならばアデルかベロックを通じて、自分がアジャンに着くまでアジャンに留まっていてくれるように伝えて欲しいと要望した。いずれにせよ、シャミナード神父は、アジャンに向けて出発できるのは1月になる、と伝えている(125)。
貧乏な少女のための無料授業を開設する司教の要望については、シャミナード神父はアデルに、新しい修道会として、この司教の要望に応じることを約束してもよいだろうと述べている。当時シャミナード神父はアジャンの現況について、あまり詳しく知らされておらず、貧者にたいする教育はすでに他の修道会が行っているものと思っていた(126)と述べている。しかし、このように述べているシャミナード神父ではあるが、後日、師は、新しい修道会は特定の業種のために創立されるものではないと明確に述べ、そのような必要性に応じるために新しい修道会の使命を狭いものにしてしまうべきではない、と断言している(127)。
シャミナード神父は、アデルの二回目の手紙、すなわち12月4日付けの手紙を受け取ると、直ちにこれに対する返答を書き送った。師はこの手紙で、無原罪の祝日の8日間は忙しかったが、大きな慰めでもあった、と述べている。そして師は、第三部会は別として、一般に、女子青年部や黙想の婦人部よりも男子青年部や家庭の父親の部会から満足な成果を上げている、とも述べている。また、アデルにたいして、自分たちはこれから長いあいだ共通の使命を抱いて働くことになるのだから、新しい修道会にかんして思い当たる点があれば、どのような疑問でもよいから、必ず自分に相談してくれるように勧めている。また、期も熟し始めたのだから、アデルも仲間たちも、十分な準備をしておくように、と諭している(128)。
アデルは、12月6日付けのシャミナード神父の手紙にたいする返信をしたため、師と会える日が近づいたことへの喜びを表明している。ただ一つかの女が心配していたことは天候であった。天候が悪くなり、そのために師が健康をがいして来れなくなるのではないかと心配していたのである。このように考えるならば、師の訪問をいましばらく延ばした方がよいのかも知れない。ダンピエールはアジャンに居らず、おそらく男子青年部に必要なだけの青年を確保することは難しいと考えられるからである。しかしその反面、アソシエイツにかんしては、メンバーの大半が田舎へ行ってしまう春や夏よりも、今の季節の方が人数を集めやすいので良いだろう。その上、司教はシャミナード神父に神学校で黙想の説教をしてもらおうと期待して待っている、と述べている。しかし、師は忙しいのだから、いつ来るのかは、師がご自分で決めるようにと締めくくっている(129)。
他のことが起こりさえしなければ、希望と喜びで満ち溢れていたはずのこの聖誕祭の季節は、マタム・パシャンの病気で、悲しいものになってしまった。マダム・パシャンは、自分の身の上になにが起ころうとしているのか、十分にわきまえていた。従って、かの女は、自分の運命にたいして完全なあきらめの心を表していた。かの女は、周囲の人たちに立派な模範となり、ディシェ家の人びと、とりわけ、アガタのニュースを知りたがっている、とアデルは伝えている。そして、人生の幕を下ろそうとしているこの友人のために祈って上げてほしい、と述べている(130)。
ロロットに宛てた年末の手紙の中で(131)、アデルは、黙想の婦人や愛徳会のシスターをふくむすべてのアソシエイツに挨拶を送っている。また、コンドムの東方約8キロの所にある小さな村オーラン(AURENS)でロロットが経営している「学校」について賛辞を述べ、もっとこの学校について情報を送るように、と要望している(132)。アデルはまた、シャミナード神父と、また、おそらくベロックを同伴して、まもなくコンドムを訪れることになるので、そのときはぜひお目にかかりたい、とも述べている。もちろんシャミナード神父は、コンドムで男子青年部を創設する可能性についてカステックスと話し合うことになるだろう、と述べている。
ロロットは、新しい修道会にたいする自分自身の召命に決断を下すことができないでいた。このようなロロットにたいして、アデルは、来る新しい年が、ある者にとっては、この世と永遠に別れを告げる年になるだろうし、また、ある者にとっては、天国におられる神聖な浄配に全身全霊を奉献する年になるだろうと述べて、かの女の決断をうながしている。アデルはロロットに「大きく寛大なこころを持って心を高く天にあげ、神がどれほど多くをあなたに望んでおられるかを常に考えるようにしましょう」と勧めている(133)。
アデルは、この同じ日にアガタに手紙を書き、アソシアシオンの全員が1月1日からノベナの祈りを始め、全員が神の聖旨を知ることができるようにしたいと述べ、次のように記している。
「1816年がわたしたちにとって、尊い一年でありますように。この一年のあいだに、神は大いなる恩寵をわたしたちに準備しておられます・・・」(134)。
しかし、アデルが将来にたいして持っていた熱意は、葡萄畑の働き手の数が少なくなって行くことで、いささか抑えられ気味であった。事実、デゥッセ神父はクリスマスのミサもたてられないほど健康を損ない、エグイヨンの主任司祭(デュプイ神父か?)は身体が痲痺し、バロー神父(BAREAU)は死の床についていたのである(135)。
年が明けると、一気に修道会創立の仕事がすすみ始めた。アデルは興奮した。アガタに送った新年の手紙で、修道会の創立は思ったよりも早く実現するだろうと述べ、ひょっとして復活祭の直後になるかも知れないと記している。ベロックには、自分たちが移り住むまえに現在住んでいる人たちが引越しを完了するように建物の賃貸の話を進めてほしい、と依頼した。シャミナード神父が来るまでに家の中を掃除し、家具を置き、神父が来られたときに祝別してもらおうと考えていた。アデルは、また、この手紙の中で、自分がまだその家族の名前も知らない二人の志願者エメなにがしかと、ゴブフェック(GOBFECH)の某アソシエイツ(136)について、もっと詳しい情報を知らせるようにと依頼している。
だが、楽しい知らせばかりではなかった。このときから一ヶ月のちのこと(137)、アデルはコンドムに住むコンパニョ家を襲った悲しい知らせをアガタに伝えている。かの女の義理の姉妹が、5人の幼い子どもをあとに遺してこの世を去ったのだ。コンパニョの姉妹たち、とくに今年48才になるキャザリン(138)は、新しい修道会の創立に参加しようとしていたのだが、これによってかの女はこの子どもたちの面倒をみなければならなくなった(139)。
新しい修道会の有望なメンバーと見なされていたプーシュのクレマンティン・ヤナーシュ(CLEMENTINE・YANNASCH)も難関に直面した(140)。アデルは、かの女に手紙を書いて、シャミナード神父のアドバイスを求めるようにと勧めている(141)。
これらの困難はアデルの手紙の上にあらわれたごく少しのものに過ぎず(143)、かの女がこれから経験する厳しい内的試練の始まりに過ぎなかった(142)。向こう5カ月のあいだに、当初予定されていた創立のメンバーの多くの人がこの計画から身を引くことになった。また、参加を延期しなければならない人も出た。その人たちは、ロロット・ド・ラシャペル(LOLOTTE DE LACHAPELLE)(144)、メラニ・フィガロール(MELANIE FIGAROL)(145)、マダム・ベロック(MADAME BELLOC)(146)、コンパニョ姉妹(COMPAGNO)(147)、マドモアゼル・ロネ(MLLE LAUNET)(148N74)、アメリ・ド・リサン(AMELIE DE RISSAN)(149)、クレマンティン・ヤナーシュ(CLEMENTINE YANNASCH)(150)、マリ・ポアトバン(MARIE POITEVIN)(151)、アンリエット・ラクロア(HENRIETTE LACROIX)(152N68)、エメ(AIAMEE)(153)、マドモアゼル・ビゲ(MLLE BIGUE)(154)、ジャネット(JEANNETTE)(155)、アレクサンドリン・デュフォ(ALEXANDRINE DUFFAU)(156)、カヌエ(CANUET)(157)、カラス(CALAS)(158)、フロランティン・アベイエ(FLORENTINE ABEILHE)(159)、ジョセフィン・アベイエ(JOSEPHINE ABEILHE)(160)である。そして、アガタさえもが参加を延期することになった(161)。