王政復古 / ラコンブの死

修練期への期待と有期誓願

アジャン教区 ソダリティを正式に認可する

百日天下 

ブルボン王朝による「王政復古」は、男爵とその王政派の人たちに大きな喜びをもたらした。アデルにとっても喜びは大きかった。かれらはいずれも革命政府の下で大いに苦しみ、ナポレオンの治世下でも、苦しみから逃れることはできなかったからである。

フランスに平和が戻ってきたことは、アデルにとって大きな喜びであった。宗教の迫害はもうない。「これで頭を上げて歩くことができるようになりました」とアデルは記している。そして、「王位と王国」を統べたもう主なる神に感謝し、この新政府への変遷が、より大きな熱意と新しい意気込みをもって神に仕える機会を人びとに与えてくれるように祈るノベナをしよう、と提案している(1)。

ローモン神父は、このほとんど奇跡的とも思える大きな政変に驚きながらも、これによって、宗教に良い影響がもたらされるだろうと、好意をもって受け入れた(2)。

シャミナード神父も大きな喜びを隠しきれず、ブルボン王朝による王政復古を神の慈悲として感謝している(3)。そして師は、ボルドーがナポレオンの退位に先立つことすでに一ヶ月、フランスの都市としては最初に復古王朝を迎え入れる栄誉を得た、とも述べている(4)。サン・ミッシェルの鐘楼に、誰よりも先に白旗を掲げたのは(6)、ボルドー出身で初期のソダリストの一人であるジャン・バブティスト・エステブネ(JEAN-BAPTISTE ESTEBENET)(5)であった(6)。

ソダリティの弾圧はとりのぞかれた。シャミナード神父も警察の監視から解放され、マドレーヌ聖堂をおおっていた暗雲は晴れ上がった。シャミナード神父は、自由な気持ちで手紙を書くようにとアデルに述べ、自分が郵送代を負担するとも云っている。もう、秘密を守る必要はなくなったのだ(7)。

またシャミナード神父は、会員名簿を整理しなければならないので1808年に作成したアソシアシオンのリストに、姓名、年齢、住所、両親の身分を記入して送り返してほしいと伝えた。また、オフィサーには印をつけ、どの分会に属するかを明記しておくこと、公式に奉献をおこなった人にも印をつけるように、と述べている。師は、また、筆記の際は十分に気をつかい、氏名は正規の氏名を記入し、かつ、読み易く書くように、とも付言している。

男子青年部と女子青年部のメンバーを登録した台帳は一冊しかなく、それは日曜日や祝日に、ミサのあいだ祭壇の上に置かれることになっていた。部会長は祭壇の足元でこの台帳を差しだして次のように読み上げた。

「尊敬する指導神父さま。マリアの信心に身をささげた若者たちを、あなたさまの祈りにお委ねします。この若者たちの名前が、わたしたちのために血を流された小羊の祭壇から<生命の書>に運び込まれますように」。

ところで、ボルドーのラコンブは死んだ。シャミナード神父は、第三部会の連絡係としてマドモアゼル・シャンニュ(MLLE CHAGNE)を任命した。シャミナード神父は革命のあいだ、このシャンニュの家に籍をおいていた(8)。シャミナード神父は、かの女を幼いときから知っていたのである。

ラコンブは素晴らしい人物であったが、シャンニュもかの女に劣らず素晴らしい人物だ、とシャミナード神父は述べている。かの女はまさにこの仕事のために神から遣わされたようなひとであり、親切で、力強く、賢明で、かしこく、謙虚で、従順で、礼儀正しく、博識で、話の上手な人であった。ひどく難しい性格の人でさえも、最終的には、かの女に承伏してしまう。だから今ではすべての人からメール(母親)と見なされるようになっていた。そして、女子青年部の人たちは、シャンニュのような素晴らしい後継者に恵まれたのはラコンブの祈りのおかげだと感謝していた(9)。

今回の政変で数多くの人たちが周辺部からボルドーの都心へ集まってきた。

アデルの弟で王政派の兵士であるシャルルもその一人であった。しかし、シャルルはシャミナード神父に会わなかったようである。師は、この時、シャルルの義父にあたるアジャンの市長には会ったが、ずっと後になるまでその人の名前も、シャルルとの関係も知らなかった(10)。

以前、海軍で功績を挙げたアデルの伯父フランソアとその息子も、ボルドーに来ていた。シャミナード神父はこの両人に会ったことは、はっきりしている。そして、明確には分からないが、その二人のどちらかにアデル宛の手紙を言付けている。

シャミナード神父がこの手紙を書き出してから、たっぷり二週間は経っていた。このようにゆっくり手紙を書いた理由は、遅くなることによってアデルがどのように反応するかをテストしたかったからだ、と述べている。しかし、シャミナード神父はアデルにたいして、自分のアデルにたいする宗教的な絆は切り離し得ぬものであり、これにかんしては後日改めて説明したい、とも述べている(11)。

ボルドーを中心にして起こったこれらのできごとが、他の地方にも影響を与えずにはいなかった。4月25日、新国王ルイ18世の甥、アングレーム公(DUC D’ANGOULEME)がツールーズへ行くとき、トランケレオンから数キロ離れたところを通過した(12)。ボルドーで最初にブルボン王朝の復権を宣言したのは、この公爵だった(13)。

王家のために亡命を余儀なくされ、財産の剥奪の苦を堪え忍んだ国王の家臣男爵は、残念ながら病気のために公爵に謁見することはできなかった。しかし、男爵夫人とアデルは、他のシャトーの人びとと共に、公爵夫妻の謁見のためにポール・セント・マリへ出かけた(14)。おそらく、このとき、アデルは公爵に直接面談したものと思われる。アデルは公爵の穏和な人柄と、公爵を迎えるときの儀式の盛大さに感銘を受けたと述べ、この世の過ぎ去るものごとのはかなさと、神ご自身のより優れた柔和さに思いを馳せている(15)。

それからしばらくして公爵夫妻はアジャンを訪問した。このとき、挨拶に出た人びとの中には、アガタと数多くのアソシエイツの顔ぶれがあった。その中には、この時初めてアガタと対面した人もいた。アデルは、この人たち全員が正式にローモン神父によってソダリティに受け入れられたかどうかを気に掛けている(16)。

このアソシエイツの中には、ヘンリエッタ・ド・サント・クロア(HENRIETTE DE SAINTE-CROIX)がいた。アデルは新しくアジャンに移り住んだかの女に、友人アメリを紹介した(17N68)。

この新しい政界の動きは、トランケレオンにも直接的な影響をおよぼした。派遣された軍隊がこの地方に宿営し、その隊長がトランケレオンに宿をとった。アデルは、数多くの兵士が頻繁に屋敷に出入りすることは、屋敷の近隣から雇い入れている若い女性たちの誘惑の機会となり、気持ちを乱す原因になりかねないと心配した。アデル自身も、自分は雇われている女の子たちより年上であり、「もっと大人になっている」とは云いながら、兵士が屋敷へ出入することによって生ずる弊害から完全に身を守られていたわけではなかった(18)。

さて、公爵の訪問が終わり、まだローモン神父がアジャンに滞在している時期を見計らって、アデルはアメリに手紙を書いた(19)。そして、ジュリ(JULIE)がそちらに行くのでローモン神父に会わせてくれるように、と依頼した。ジュリはローモン神父に会うことを望んでおり、また、会う「必要があった」(20)のだ。

ジュリ・プランキエ(JULIE PLANQUIE)(21)は、シャトーに仕えていた召使の一人で、アデルのパーソナルな召使でもあったらしい。かの女の家族はアジャンに住んでおり(22)、ド・リサン家からトランケレオンに紹介されたのであった(23)。

ジュリはアデルの親しい話相手であり、友人であると同時に、アソシエイツの仲間でもあった。当時は、すでに召使と貴族のあいだの深い溝がなくなっていたのだ(24)。

ジュリの名前が最初にあらわれるのは1814年2月である。自分は指を怪我しているので手紙が書けないが、アメリによろしく、とアデルを介して伝えている(25)。かの女はこの同じ月、ローモン神父によって、正式にソダリティに受け入れられることになっていた。ローモン神父は、悪天候にもかかわらず、かの女の入会式のために、わざわざセント・ラドゴンドからポール・セント・マリまで足を運んだ。しかし残念なことに、ジュリはその時、姿を見せなかった。

アデルはアメリを介して、今度はたとえ槍が降っても必ず行きます、とローモン神父に伝えている(26)。アデルは、また、ジュリが好意を持つアメリを通して、シャトーで働いている若い男性から、もう少し距離を置いてつきあうように、とジュリに助言を与えている(27)。そして、このアメリの言葉をジュリが素直に受け入れ、それを実行に移してくれたとき、アデルはアメリに感謝の言葉を送っている(28)。

ジュリは、4月の中旬に、アジャンへ行く計画を立てた。しかし、身体の具合いが悪くなり、延期せざるをえなくなった(29)。最終的に、5月になって、やっとアジャンへ行くことができた(30)。

ジュリは旅行から帰るとアデルに報告し、ベロック夫人に特に深い感銘を受けたこと、そして、ベロック夫人が若い人たちに素晴らしい影響力をもっていることを知らせている(31)。そして、ジュリは今後もアメリに手紙で連絡をとるように約束している(32)。

種々の活動がボルドーとアジャンで活発に行われていたとき、アデルは明らかにその活動の枠外に置かれていた。だから、アデルは他の人たちが経験する満足感を持つことができなかった。しかし「孤独の深みから」(34)アデルは他の人たちの喜びを心で分かち合っていた(33)。

6月の初旬、ベロック夫人がトランケレオンに来ることになった。アデルはこの訪問を正当なものだと述べると同時に、アメリに、この喜びを妬まないように、と述べている。それは、アメリも、アデルと同じように、あまり他のアソシエイツに会う機会を持てなかったからである(35)。ベロックの訪問を受けたアデルは、「本当に喜びで一杯です」と述べている(36)。

当時のアデルは、この他にもう一つ大きな喜びを味わっていた。それは、アメリが、健康の浮き沈みが続く中で(37)、この世のすべての見栄を捨てて、神聖なる心の浄配に自分のすべてをささげ尽くすことを決意した(38)からである。アデルはアメリとともに喜び(39)、この決心に忠実に生きるようにかの女を励ますとともに、自分たちは不肖なものであるが、使徒なのだ、という事実を思い起こしている(40)。

ベロック夫人が来訪した。今やかの女は「おん孕の分会」のメールと呼ばれている(MERE OF THE FRACTION OF THE CONCEPTION)(41)。かの女が来たのは、25才の誕生日の祝を準備するアデルを手伝うためであった(42)。今年の誕生日はちょうど金曜日に当り、アジャンでは毎週この日にアソシエイツが集まることになっていた。それでアデルは、出席者全員に、自分の特別な意向のために祈ってくれるように、と依頼した。

かの女は、自分の青春のよき日が矢のように過ぎ去って行くのを感じ取っていた(43)。そして、この青春の時代にあって、移り変わる空しい喜びを追い求めるかわりに、み主に仕える努力に情熱を燃やすことができたことを感謝している。失われた時間を償うことは至難の業である。なにごとをなすにも全てはみ主のためになすべきであり、また、最善にしなければならない。どれだけのことをしたかよりも、どれほど立派にしたかが問題だ。いつに変わらぬ激しい性格を、少しでも和らげることができれば、なんと素晴らしいことだろう(44)と述懐している。

6月13日、月曜日、誕生日から三日のち、アデルはディシェレットとジュリをともなってロンピアンに向かった。この旅は、期せずしてかの女たち三人の将来を方向付ける転機になるのだった(45)。

睡眠時間もそこそこに、三人は朝の4時、シャトーを出発し、午前8時半にはすでにロンピアンに到着して友人たちを驚かした。当然のことながら、ラリボー神父は一行を待っていた。ローモン神父も待機していることになっていたが、あいにく事情があって不在だった。数多くのアソシエイツとともに、かの女たちの情熱と興奮は最高潮に達した。午前に一回と、午後一回、ミーティングを行った。翌日、火曜日の午前中にもミーティングをおこなった(46)。

この時のかの女たちの話題の中心は、「大切な計画」(CHER PROJET)であった。これは、すでに過去4年間、かの女たちの間でとりざたされてきた課題である(47)。アソシエイツのある者は、ボルドーの人たちのように(48)、ある種の修道生活に向かって歩み始めていたのである。

今年の6月、ロンピアンで、かの女たちは最終的にこの方向に進むことを決定し、「修道者」という言葉がもつ伝統的な意味での修道者になる効果的な計画を練ることを取り決めた。しかし、当時、フランスで、とりわけ復古王朝のもとで、再構築されつつあった伝統的な修道共同体を作ろうとしていたのではなかった(49)。

さて、かの女たちは、この計画の方針を決定したしるしとして、自分たちのあいだで修道名をつけることにした(50)。

アデルはスール・マリ・ド・ラ・コンセプシオン(SOEUR MARIE DE LA CONCEPTION)と名乗り(51)、ベロック夫人はスール・ジャンヌ・ド・ジェジュ(SOEUR JEANNE DE JESUS)(52)、アガタは、スール・マリ・デュ・サクレケール(SOEUR MARIE DU SACRE-COEUR)(53)、アメリは、スール・ルイズ・ド・サン・ジョセフ(SOEUR LOUISE DE SANT-JOSEPH)(54)、デルフィン(DELPHINE)は、スール・ジャンヌ・ド・ラ・ミゼリコルド(SOEUR JEANNE DE LA MISERICORDE)(55)、ジョセフィン・アベイレ(JOSEPHINE ABEIHLE)は、スール・ジョセフィン・ド・ジェジュ(SOEUR JOSEPHINE DE JESUS)(56)、アデル・カヌエ(ADELE CANUET)は、スール・カザリン・ド・サン・イグニャス(SOEUR CATHERINE DE SAINT-IGNACE)(57)、ビグエ(VIGUE)は、スール・サン・フランソア・ド・サール(SOEUR SANT-FRANCOIS DE SALES)(58)と名乗った。なお、これ以外の人たちは、修道会の創立がもっと近づいてから修道名をもらっている。

この7月以降、アデルは手紙の最後に「スール・マリ・ド・ラ・コンセプシオン」または、単純に「スール・マリ」と署名するようになった(59)。ある手紙では、あとで思い出したかのように「アデル」の後に「スール・マリ」を書き添えている(60)。ロロットのように、まだこの「大切な計画」にハッキリとした態度をとっていない人に手紙を出す場合は、相変わらず、それまでと同じように「アデル」とのみ署名した(61)。

9月になると(62)、ローモン神父は、「イエス・キリストの下女の下女であるスール・マリ・ド・ラ・コンセプシオン」と署名するように提案した。現に、その翌年の春までの(64)数多くの手紙では(63)そのように署名している。それ以降は、「イエス・キリストの下女の下女」の句を省略している。長すぎるので省略したのか、あるいは、かの女の謙遜のこころにそぐわないからそうしたのであろうと思われる(65)。

ロンピアンにおけるこの重大会議から一週間後、アデルとディシェレットはコンドムへ行った。その途中、一晩だけ、ネラックに宿泊した(66)。アデルは、コンドムからディシェレットとともにアジャンへ行き、アガタに会おうと思っていた。しかしながら、コンドムで新しいアソシエイツをつくり、忙しく実り豊かな2週間を過ごしたのち、二人は7月5日、アジャンへは行かずにトランケレオンへ帰った(68)。そして、その数日後、ディシェレットはアジャンへ帰省した。かの女は都合6週間をアデルと過ごしたことになる。かの女が帰ったあとのアデルは、こころに大きな空白を感じた(69)。

アデルはディシェレットといっしょにアジャンへ行き、帰りにアガタを連れて来るか(70)、アガタが先に来て、二人でいっしょにアジャンへ戻ろうか、と考えていた(71)。しかし、この計画はどちらも実現されずに終わった(72)。アガタがシャトーに来たのは、やっと8月になってからのことである(73)。

しかし、アデルには予期せぬ喜びがおとずれた。ラリボー神父とローモン神父がまったく突然トランケレオンに来たのである。それは、7月18日のことであった(74)。この訪問がアデルとジュリに与えた一番大きなハイライトは、シャトーの聖堂での聖体拝領であった。それは7月20日の午前5時におこなわれた。

ラリボー神父とローモン神父は、ロンピアンでのミーティングの席上で、教区長代理ガーデル神父から、トランケレオンで告白を聴き聖体を授ける許可を得た、と話していたが(75)、その許可が、ここで初めて実行に移されたのであった。

しかし、ラリボー神父は健康がすぐれず、この訪問のあいだにミサをたてることができなかった(76)。この訪問から数カ月、師の健康は急速に悪化した。アソシエイツは、師の回復のために祈りをささげた(77)。一時、師の健康は、生命を危ぶむほどの状態に落ち込んだ(78)。しかし、10月になると、かなり元気を取り戻した(79)。

体力の衰弱を感じながらもライボー神父は、師自身の言葉を借りていうならば、今回の訪問はローモン神父に「引きずられて」やって来たのであったが、師はアデルと長時間にわたる面談を三回も行っている(80)。

一方、ジュリはスカピラリオを拝領し、ローモン神父と二回にわたって個人的なセッションをおこなっている。

アデルはアメリへの手紙の中でこれらのできごとを詳細にわたって報告し、他のアソシエイツにも伝えてくれるように依頼している(81)。

この「大切な計画」の実現を待機していた数カ月は、アデルにとってノビシアのようなものであった。そして、かの女は他のアソシエイツたちに、この世に踏みとどまりながらも修道生活特有の諸徳、すなわち、両親にたいする従順、貞潔を守るための用心、可能なかぎりの清貧を、できるかぎり実践するように勧めた(82)。

アデルは、間もなく全員が真の意味での修練期を過ごすことになると期待していた(83)。ローモン神父は、アデルに、ボルドーの修道ソダリストがどのようにしているかをシャミナード神父に尋ねるように提案し、また、自分たちはソダリティの保護の祝日である12月8日に正式の修練期を開始したいとの考えをシャミナード神父に伝えるように、とも提案した(84)。

アデルは、自分たちがこれから行おうとしていることに思いが至ると、感謝の気持ちに加えて大きな不安を覚えるのだった。かの女はその時の気持ちを次のように、簡潔に表現している。

「ことの重大さに恐れることなく、勇気をもって立ち向かおうではありませんか」・・・そして、その間、最善の努力を尽くしながら、毎日を過ごしましょう(85)。

この計画を実現するに当たって、さしずめ暗い陰を投げかけていたのは、男爵の病状の悪化であった(86)。昨年の夏バレージュへ湯治に行ったが、その効果はほとんどあらわれなかった。当然のことながら、アデルはみずから進んで父親の看病に力を注ぎ、いつも父親に付き添っていた(87)。男爵夫人がその時間の大半を領地のマネージメントにつぎ込んでいたので、父親の看病にはアデルが当たらなければならなかった。ときどきデジレとエリザが交代することがあった。しかし、このデジレもエリザもクララと同じように慈善事業に多くの時間を割いていた(88)。

アデルは男爵の部屋や、シャトーの前の芝生の上で、本を読んで聞かせたり、そばに付添って編物や裁縫をしたり、手紙を書いたりした。フガロールやロンピアンの教会の祭服の刺繍をすることもあった。ディシェレットやアガタや他のアソシエイツが訪ねてきたときは、かの女たちも男爵のそばでアデルと時を過ごし、また、アデルに代わって子どもたちの勉強の面倒をみたりもした(89)。

凱旋将軍ウエリントンに仕える英国の将校セイモア・ラーペント(F. SEYMOUR LARPENT)が、6月、男爵を訪れた。何年か前、ロンドンで知り合った仲である。身体を動かせなくなって車椅子に座っていた旧友男爵に再会したラーペントは、男爵が大勢の人に取り囲まれて生活していた、と述べている。妻と息子、嫁、そして、5人の年若い婦人、それに男爵の姉妹と思われる年輩の婦人が付き添っていた、と述べている(おそらくこの年輩の婦人と云うのはマダム・パシャンのことであろうと思われる)。

ラーペントの言葉によれば、男爵は十分な配慮と愛情に包まれ、食事の時以外は男爵を中心に家全体が動いていた、と云う。家族の人たちは男爵のそばで手仕事をし、声を出して祈りをとなえ、男爵に声を掛けて話し合っていた。この英国紳士は、年若い婦人たちをふびんに思い、病気になった男爵「パパは、娘たちがダンスやその他の気晴らしに出かけることを許さず、アジャンに行くことさえも許していない」と述べている(90)。

7月のディシェレットにたいする手紙の中で(91)、アデルは父親からの約束を打ち明けた。アデルがこの手紙を記した前日の7月30日、男爵は、もし神が自分を少なくとも歩けるようにしてくださるならば、そして、少し動き回ることができるようにしてくださるならば、病める人たちの医療費と少女の教育費として24、000フランの基金をフガロールに設置すると約束したのであった。そして、それに必要な建物を手配し、三人の愛徳修道会のシスターにその運営を委せる、とも付け加えた。この時アデルは、もし父親が快復すれば、この基金を運営するのは自分たちであり、それは神が自分たちに示して下さったご意思であると考えた(92N69)。

父親がこのような状態にあったため、アデルは計画している新しい修道会の準備のために家を出ることはできなかった。もし快復しない場合、かの女を自由にしてくれるものは死以外にはない。このように思うと、アデルの心はちじに乱れた(93)。しかし、アデルの決意は堅く、お呼びがかかればいつでもその声に応じることが出来るように準備していた(94)。アガタにあてて書いている。「おいでなさい。そして、すべてを神さまのために、神さまの故に、おこないましょう。なにごとをなすにも、世のため、自己のためにすることのないように。ああ神よ、弱いわたしを助けてください」(95)。

8月、コンドムから男爵の妹がやってきた。アデルはサン・ジュリアンといっしょにアジャンへ行き、アガタに会うことができると期待していた。しかし、伯母は、男爵がもう一度バレージュへ湯治に行くまで男爵のそばに留まることになった(96)。

8月29日、昨年同様に男爵夫妻は出発した。そして、また、一家のメール(母親)役をアデルが背負うことになり、そのアデルを助けるためにアガタが来ることになった。

アガタは9月いっぱいトランケレオンに留まった(97)。アガタが滞在しているあいだ、二人は一年前に行ったロンピアンへの旅行を思い起こし、その時二人が受けたアドバイスを思いだしたりしていた(98)。

9月の初旬、アデルはシャミナード神父から便りを受けた(99)。アデルが書いた手紙の一つは紛失してしまったが、8月13日付けの手紙は近衛兵によってシャミナード神父の手元に届けられた。シャミナード神父は、ローモン神父からも手紙を受け取り、アソシアシオンのソダリスト全員のリストを入手した(100)。かの女たちの名前はボルドーの会員名簿に記載され、その後、約束通りミサの帳簿に転記されることになっていた。ローモン神父は、また、新しく創立される修道会の会則の原案の写しを送ることも、師に約束していた。

シャミナード神父は、アデルが修道生活を望んでいることを、大きな好感をもって受け入れた。昨年、師がアデルをボルドーに来るように誘いをかけたとき、シャミナード神父もアデルの修道生活の計画に近い考えを持っていたのだった。今、シャミナード神父は、この手紙の中で、以前よりももっと詳しくソダリティに存在する「在俗修道生活」(101)についての説明をおこなっている。マドモアゼル・ラコンブは、そのような在俗修道者の一人であった。しかしシャミナード神父は、もしアデルとその仲間が、一つの修道共同体を形成しようと考えているならば、それはこの在俗修道会とは全く別な話で、非常に注意深く検討する必要があり、適切な方法をもって構築して行かなければならない、と伝えている。

師は、ローモン神父が起草した会憲(102)を実践面で検討すべきだとかんがえた。すなわち、この会憲を実際にどのようにして遵守するのか、当事者に十分適合しているのか、厳格すぎはしないか、煩わしくはないか、不適切な点はないか、などの点である。師はこのような諸点を指摘した後、この草稿をできるだけ早く読んでみたいと述べ、自分に相談することなく決して創立への決定的な行動に出ることのないように注意している(103)。

シャミナード神父は、また、アデルにたいして、もう二ヶ月も前から非常に有徳な人物で「黙想の婦人」のメンバーの一人がソダリティの中にいくつかの「共同体」を形成しようとしているというニュースを知らせてきている、と述べている。

このソダリストは、特別に神から照らしを受けていたようであり、シャミナード神父の動きの鈍さにいささか戸惑っていた(104)。

シャミナード神父は、このように種々こころにかかる点を記したのち、ボルドーの姉妹とりわけマドモアゼル・シャンニュからの挨拶をアデルならびにアソシエイツに伝えている(105)。

二つ目の手紙では、返事を出すのが遅れたことにたいする詫びを入れたあとで、14年前、自分が教皇派遣宣教師としてフランスに帰るときに心に抱いていた構想を説明し、現在のボルドーのソダリティは、そのときの構想を実現したものであると述べている。このソダリティには、すでに小さな「修道者」のグループが芽生え始めており、その人たちは俗服を着て、普段の仕事についている、そして、一般にソダリティのオフィサーたちはこのグループの中から選ばれているとも説明している。このような「修道ソダリスト」の幾人かは共同生活を送っており、そうすることはシャミナード神父の使命を分かち合うこれらの人びとの目的遂行に有利にはたらいているかのようだ、などと述べている。しかも、長年のあいだに、数多くのソダリストがいろいろな修道会に召命を得て志願していった、とも述べている。

シャミナード神父は更に続けて、現在、一般社会の職業から離れて、「正規の」認可を受けた共同体に身を置きたいと願っている修道ソダリストがいるが、これはまた、アデルとその仲間たちが望んでいることでもあり、これは以前から行われていることとは性質の違うものである。従って、この考えに賛成はしているが、これがソダリティの仕事を育て、それに役立つものであるかどうかを検討し、ソダリティを変質させるものでないことを確認しなければならない、とも述べている。

このような人たちは、ソダリストとして留まりながら一般の男女修道者のように正規の共同体に身をおく修道ソダリストである、とシャミナード神父は云う。

シャミナード神父は、ローモン神父が執筆している会憲にこれらの考えが十分に反映されているかどうかを気にしていた。ソダリティの使命に参与する修道女の共同体、それはとりもなおさず、全フランスにたいする教皇派遣宣教師としてのシャミナード神父の使命に参与する修道女の共同体でなければならないのだ(107N56)。

アデルとその仲間たちは、シャミナード神父の云う使命と宣教師の考え方を、熱意をもって受け入れた。それは、10月中旬、アガタに宛てた手紙の中で明確に表れている。アデルはこの手紙の中で、会員各自がその身分に応じて小さな宣教師になることがソダリティの目的である(108)と書いているのである。

「正直に云って、この表現は素晴らしいものだと思います! わたしたちは、あらゆる手段をもって神の栄光と隣人の救霊をもとめるべく神に召されているのだと考えようではありませんか」(109N70)。

アデルがシャミナード神父から手紙を受け取ったとき、はからずもローモン神父がトランケレオンに来ていた。10月10日と11日のことである。アメリも居合わせたし、もちろん、ジュリも居た。かれらは全員、この問題について論じ合った。

トランケレオンを訪問したローモン神父は、アガタとそのアソシエイツに会うために、アジャンへ足をのばした。その時、ローモン神父はシャミナード神父の手紙を携えてきた(110)。

修道会設立の決意は、今や不動のものとなった(111)。

10月の下旬、アデルは再びトランケレオンを訪問したエメを連れてサンタビへ行き、ベロック夫人を訪問した。そこへローモン神父が来て、火曜日の夜、一晩泊まった。翌日、アデルは聖体を拝領する機会に恵まれた。また、金曜日と土曜日にはデュピュイ神父(DUPUY)に告白をし、聖体拝領の許しをローモン神父からもらった(112)。

日曜日の午後は、ベロック夫人とエメと一緒にラガリグと云う小さな町(LAGARRIGUE)に出かけた。この町はサンタビから歩いて行ける距離にあり、大勢のアソシエイツが晩課や集会のためにエグイヨンから集まって来ていた。

アデル一行はその晩ラガリグに泊まり、翌日ラリボー神父をともなってセント・ラドゴンドのローモン神父を訪問することにした。しかし、ベロック夫人が体調をくずしたため、アデルはエメをつれて二人の司祭に会いに出かけた。アデルは告白室でラリボー神父と長いあいだ話し合い、「神の恵みの重さに打ちひしがれる思いがした」(113)。

アデルはすべてのものごと、とりわけ自分自身から離脱しようとするかたい決意を立てた。そして、修練期が終わり修道会が創立されるまでは、ボルドーの修道ソダリストがやっているように、有期誓願を宣立することにした。

この週の半ばになると、ベロック夫人は体調を回復したので、ラガリグからサンタビに帰った。そこへラリボー神父とローモン神父が訪ねてきた。こうしてアデルは、再びかれらとともに「計画」について検討する機会を持ったのである。

ラリボー神父は、アソシエイツにノベナを提案し、フランスに再び修道会が再建されるように、また特に自分たちの計画に聖霊の御加護があるように祈ろうではないかと呼びかけた。祈りと、断食と、聖体拝領と、施しを行う九日間である。そして、このノベナは、諸聖人の祝日から開始することにした(114)。

しかしながら、トランケレオンに帰ったアデルは、このノベナ開始の日に、デュッセ神父から、聖体の拝領を禁止されてしまった。頻繁に聖体を拝領する許可がアデルに与えられていることを他の信者に知られることは良くないと云う理由であった。次の初金曜日には受けてもよいが、祝日には受けてはならないと言われたのである(115)。

この同じ週、アジャンのアソシエイツ、デジレ・ダルティーグ(DESIREE D’ARTIGUES)がアデルを訪問した。アデルはかの女の熱心と友情に非常な感銘を受けた。

このデジレは、アデルと文通することを望んだが、かの女がアソシエイツになることに家族が反対していると見受けられたため、こっそりとデジレの従姉妹を通して手紙を送ることにした(116)。

シャルルの義母にあたるマダム・セバンも、このとき、来訪していた。義母は訪問を終えて帰途につく際、男爵からディシェ氏に宛てた大切な手紙をあずかった(117)。かの女はおそらくダルティーグをともなって帰途についたと思われる。この頃、トナンの分会のメンバーであるルネト(RENETE)も近辺に来ていたが、トランケレオンには立ち寄らなかった。アデルは、あきらかに、これを心よしとしなかった(118)。これまでのアデルは、一度も会ったことない人を含めて、全てのアソシエイツを愛し心に留めていると強調してきた。だから今後は、誰もシャトーを無視して通り過ぎないで!と述べている。

11月上旬にスレット宛に書いた手紙の中で、「ご訪問の分会」であるプーシュ・トナン・アグイヨン地方のアソシエイツ全員を、氏名を挙げて確認しており、かの女たちに霊的挨拶を送っている。スレットの姉妹は三人ともアソシエイツであったが(120)、アデルはその内の一人が修道生活のプロジェクトに参加することを希望した(121N71)。2年前、ボルドーを訪問してシャミナード神父に会ったのはかの女たちであった(122)。実際、三人姉妹の一人マリは、最終的にこの新しい修道会創立のプロジェクトに参加している(123)。

今や宗教の自由は認められている。アデルは、トナンのすべてのアソシエイツが正式に、かつ、おおやけにソダリティに入ることを希望した。しかし、自分が面識のない人の入会には、非常に慎重であった。アデルは黙想の婦人部への入会を希望しているマダム・ラファルグ(MADAME LAFFARGUE)にかんして、スレットからその身元を詳しく聞きただしている。

すべてのソダリストは、アデルが云うように、自分たちの誇りを象徴する帯、入会の時に着衣した帯、を身につけることを誇りと思わねばならない(124)。この帯は赤い布製で(125)、「いとも清らかな乙女と栄光ある聖ジョセフの会」という文字が刺繍されていた。そして、この帯は、外衣の下に着けることになっていた(126)。ある人の帯はローモン神父によって祝別されたものであったが、あるものはシャミナード神父自身の手で祝別されたものであった(127)。会員は、夜も昼もこの帯を身につけ、死んでもソダリストはこの帯を身から離さなかった(128)。

この数カ月のあいだ、アソシアシオンでは二つの形で会員の募集が行われていた。コンドム、アジャン、プーシュ、トナンなど、その他各地で新しいアソシエイツが募集された。それに並行して会員同志の間では、計画中の修道会創立にだれが神から召されているかを見定める作業が行われた。アデルはだれにたいしても決してプレッシャーをかけるようなことはしなかった。そして、可能性にたいしては、つねに注意深く考察するように努力した。

会員全体のための全般的な祈りに加えて、会員各人が自分の将来について真剣に考えるようにも勧めた。例えば、アデルはスレットに手紙を書いて、「あなたさまが勇気をもって神から召されている道に進むことができるように心を開いておられることを望みます。(スレットは、この時、19才であった(120))。道を選ぶときには、死の床で自分が悔いることのない道を選ぶようにしましょう。何処であれ、神がお召しになるところでこそ、わたしたちは救霊を全うすることができるのです」(130)。

アデル自身は、細かいことは分からないまでも、自分の進むべき人生の道が何であるかを確信していた。いつ修練期を開始するかについての情報がボルドーから届けられるのを待っているあいだ、アデルは自分の召命に必要な心構えを養うように努力していた。結婚の話を断わってから6年目、マリアの奉献の祝日に、アデルは、全てのアソシエイツがマリアの手によって、その神聖なるおん子に捧げられますように、と祈りを捧げた。「ですから(スレットさま)、わたしたちは自分たちが完全にみ主に奉献された者である、と見なすようにいたいましょう」(131)と述べ、さらに続けている。

「もうすぐ待降節がやってきます。わたしたちの熱意を倍増し、わたしたちの神聖なる浄配への奉仕に勇気を持とうではありませんか。母親の中でもっとも美しいお母さまがわたしたちに下さるこの神聖なる救い主をお迎えするために心の準備をいたしましょう。償いの精神をもってこの聖なる季節を迎えましょう。わたしたちが行う犠牲の行為は小さいものでしかありません。これを、大きな内心の生贄で補いましょう。舌と目と、そして何よりもわたしたちの意思の犠牲を捧げましょう。遜りと服従の精神をもって、率直に自己の判断を他者の判断の前に生贄としてささげましょう。マリアの真の娘であることを示す目印としての謙遜がわたしたちの内で輝きますように。謙遜がわたしたちの話声の音色にまでも反映されますように。そして、この謙遜こそが常にわたしたちを他のひとたちから区別するものになりますように」(132)。

この新しい奉献の意識と修道生活にたいする憧れは、かの女の普段の慈善行為や他者にたいする思いやりの心をいささかも傷つけるものではなかった。この数週間の手紙のほとんどに、なにか使いの用向(133)とか、買物とか(134)、贈物の準備とか(135)、施し物の分配(136)などにかんする追記が附されている。また、男爵からのメッセージ(137)や、叔母からのメッセージ(138)、母親からのメッセージ(139)、デジレやエリサからのメッセージ(140)も伝えている。

11月の終わり頃になると、こちらから提案してあった修練期開始の日が近づいているにもかかわらず、何の返事もボルドーから来ないのを、案じ始めていた(141)。手紙が届いていないのではなかろうか(142)と案じ、師は今度も自分を試そうとしておられるのだろうか(43)とも心配した。

やっと12月1日の日付で書かれたシャミナード神父の手紙を受け取った(144)。その手紙の中には、マドモアゼル・シャンニュからの手紙も同封されていた。これは、以前アデルがボルドーのソダリティに宛てて書いた手紙に対する返事であった。

この手紙でシャミナード神父は自分が大変忙しかったこと、とりわけ黙想会の説教に追われ、まだ説教が残っていると説明し、何週間もペンを手に執ることができないまま過ぎてしまったのだと述べている。

師は、その間、アジャンで修道会設立の動きがあることを、少数のボルドーの修道ソダリストと話し合った、とアデルに伝えている。また、師はローモン神父から会憲の草案を受け取ったが、アデルの云うとおりこの会憲はあまり適切ではないと思う、とも述べている。

最初シャミナード神父は在俗修道者の規則を送るだけにしておこうかと思ったが、アデルたちにはもっと詳しいものが必要だと考えた。例えば、いままでこの在俗修道ソダリストは3カ月毎の有期誓願を立てていた。そして、師は、良心上問題が起こればそれを解決し、必要なときにはその有期誓願を免除したりもした。しかし、いまでは、ボルドーでもアジャンでも、終身誓願の問題が起こってきている。これは、真の意味での修道会としての問題である。アジャンの人たちにとってはシャミナード神父が地理的に離れた場所に住んでいるという問題を抱えており、ボルドーの人たちにとっても、師がいつ死んでしまうかも知れないという問題が残っていた。

このような問題点があったために、師はソダリストのために修道生活の基本法と細則を作成することを考えた。原則的な諸点にかんしてはすでに合意が出来ており、女子青年部の人も婦人部の人も、いつでも動く用意ができていた。しかしながら、「細則」と「基本法」を完成させるためには、まだいろいろな細かい作業をしなければならない、とシャミナード神父は考えていた。

このような状況であったから、アデルが望んでいたように、12月8日に公式にノビシアを始めることは不可能なことではなかったのである。しかしシャミナード神父は、無原罪の祝日か、そのオクターブの間に、6カ月間を期限とする貞潔の誓願を立てることを許し、2月までには待望の修練期を始めさせることが出来るだろうと考えた。それまでは「忍耐と勇気」をもって待つように、と促している(145)。

しかし、それでも、アデルとその仲間たちにとって、無原罪のおん孕りの祝日は大きな喜びの日であった。アデルは聖体を拝領することができたし、シャミナード神父からの励ましの手紙も受け取った。この日アデルはアガタに手紙を書いて次のように記している。

「さあ、私たちの神聖なる浄配に全てをお捧げする日の前夜になりました。何という特典でありましょう。救い主はなんと慈悲深いお方でしょうか。いつも恩を忘れ不忠実で、毎日のようにみ主を残酷に傷つけてしまうこのような卑しく価値の無い被造物なる私たちを、かたじけなくも、み主の浄配の品位にまで高めて下さいました。なんという優しさ。なんという慈悲深さ。これはひとり神のみのおできになることです」(146)。

アデルはさらに続けて、シャミナード神父は将来の問題点を考え、起こるであろう問題点を解決することができるような完ぺきな「規則」を作りたいので、もっとゆっくりと進むように私たちに望んでおられる、と述べている。

アガタとしては、提案された6カ月の誓願宣立についてラリボー神父と相談した。師は、アガタが心配性で小心に陥る可能性があるため、とりあえず一ヶ月に限って誓願を宣立することを許した。このような結果に落ち着いたことに、アガタは少なからず落胆した。しかしアデルはこのアガタを励まし、ラリボー神父の慎重さは賢明なことであり、一ヶ月が経てば、また、この誓願を更新することを許してもらえるだろうと述べている。

アデルも、自分が喜びの中にキリストの浄配としてのタイトルを受けようとする時に、ひょっとしてドゥッセ神父はラリボー神父以上に用心深い態度をとったとしても不思議ではないと考えていた(147)。

アデルは全員がイエス・マリア・ジョセフのみ名を刻んだ指輪をはめるように提案し、これについてラリボー神父とローモン神父の意見を聞くことにした。この指輪は銀製のものにした。その方が安かったからである。また、人びとの注意を引かないために、この指輪はボルドーから取り寄せることにした。

クリスマスの季節になると、またディシェレットは体調を崩し、ラリボー神父も病気になった。実際、ラリボー神父は無理をしなければ手紙も書けないほどに弱っていた(148)。そして、師の健康状態は向こう数カ月のあいだ快方に向かうこともなく、春までもつかどうか危ぶまれる程の状態になった(149)。当然のことながらアデルはこの二人の健康を心配した。そして、敬愛する霊的指導者を失うのではないかと心配した(150)。ラリボー神父の指導に頼っていたアガタも悲しみを隠すことはできなかった(151)。プーシュのアソシエイツたちも悲しんだ。かの女たちもロンピアンへ師に会いに行くことが出来なくなり、師と会合を持つことができなくなったからである(152)。

このような状況にあって、アデルはアガタに、いままで師からいただいた種々の勧めを思いだし、それをより忠実に生きるのが、いま自分たちにできる最善のことであろうと述べている(153)。アデルは、また、修道者の心構えは離脱することであり、死の心境を学びとることであると述べ、先ずなによりも自己に死に、世の物事に死なねばならない、と述べている。修道生活で求めるべきは、甘味で物静かな生活ではなく、十字架でなければならないのだ(154)。

新年にあたってアデルがアソシエイツに望むことは、この世の繁栄ではなく、寛大なこころ、従順なこころ、慈悲深い神が贈り給う十字架を感受するこころであった。実際、アデルは今では十字架につけられたイエス・キリストの浄配になっていたのだ。アソシエイツは悲しみの剣でこころを差し貫かれたマリアの子供ではないのだろうか(155)。「もしイエスを愛するならば、その十字架も愛さねばなりません。それによって神は私たちの愛が本当のものであるかどうかを試しておられるのです」(156)。

アデルはボルドーに行ってシャミナード神父に会い(157)、自分たちの計画について話し合おうと考えた。しかし、距離的にみても時間的にみても、父親の健康はアデルにこのような旅行を許す状態ではなかった。アデルは自分に代わってベロックにボルドーへ行くようにすすめ、とりわけ子供を連れてボルドーへ行くことになっていたラボリ夫人(MADAME LABORIE)に便乗して、旅費を使わずにボルドーへ行くように勧めた。そして、もし行くのなら食費として50フラン提供するとも云っている。シャルルもボルドーに行くことになり、かれはシャミナード神父に宛てたアデルの手紙を持参することになった。もしディシェレットが行けないのなら、せめてラボリ夫人と子供がボルドーに行ったときにシャミナード神父に会うことを望んだ。そうすれば、もう一人ボルドーとのつながりを持つ人ができると考えた(158)。

おそらく、この時、マダム・ベロックはボルドーへ行ったのだと考えられる。そして、何回かにわたってシャミナード神父と面談し、アジャンのソダリティの発展ぶりを知らせたと思われる。それは、これ以降、シャミナード神父がベロック夫人を以前にも増して頼るようになったことから察しがつく。

3月の半ば、師はアデルに手紙を書き(159)、自分は誓願と修道生活の計画について忘却しているわけではないが、当面はソダリティそのものの発展に力を入れている(160)、と述べている。

王政復古から一年が過ぎた。シャミナード神父は、新しい自由が自分の活動の発展をさまたげられることのないように望んでいた。師は、ベロックと司教に宛てて認めた手紙の写しを、ベロックの手を介してアデルに届けた。この手紙によると、シャミナード神父は、ベロックを女子青年部と黙想の婦人部のアジャンの分会の長に任命し、いろいろとかの女に助言を与えている。ベロックは司教座のあるアジャンに住んでいたのでアデルよりも司教に近く、連絡がとりやすかったのである(161)。

ジャクピ司教はシャミナード神父の親しい友人であった。二人は、共にペリゴールの出身で、誕生日もわずか20日違うだけであった。おそらくこの二人は、1780年代には、すでに知り合っていたと思われる(162)。司教は自分の教区内でソダリティの各部会や部門が展開されることを正式に許していた。もちろん問題が無いわけではなかったが、それは予測されていたことであった。困難があればこそ、自分たちの神とマリアへの奉仕の真心を伝えることができるのだ、とアデルに述べている。

シャミナード神父は、また、そこそこの人数をもつ分会を正式に設置し、パブリックな集会を持つにふさわしいセンターを作るにはどこが良いか決めてほしいとアデルに依頼している。しかし、このような決定をするときは賢明に動く必要があり、とりあえずは何人かの主任司祭に意見を仰ぐこと。また、ローモン神父の意見も聞き、それらの経過を逐一自分に報告すること。そして、いろいろな主任司祭と交渉を進めるにあたって、アデルもローモン神父も、先にディシェレットを介して送付しておいた文献を使用すれば、容易に仕事を運ぶことができいるだろう、と助言している(163)。

シャミナード神父は、司教座のある町を手始めに、アジャン教区に男子の分会も設置しようと考えていた(164)。ボルドーのソダリティでは、モンモランシ子爵(VISCOUNT OF MONTMORENCY – ダングレーム公爵の副官 AIDE-DE-CAMP OF THE DUC D’ANGOULEME)、シュバリエ・ド・ミランブ(CHEVALIER DE MIRANBE)、およびダンピエール侯爵 (MARIQUIS DE DAMPIERRE)をソダリストとして受け入れていた。そして、このダンピエール侯爵はその後まもなくアジャンへ行き、そこで新しく青年男子のソダリティを始めたのであった(165)。

シャミナード神父は、第一線であらゆる手を打ち始めていた。ボルドーで汚れなきおん孕りのソダリティを復活させ、アジャン教区全域に正式の認可を得て第三部会を設置し、男子青年部会の設置も立案した。ボルドーでも、また、アジャンでも青年男子と青年女子のソダリストの間では、修道共同体の形成の機運が高まった。

このような中で、シャミナード神父は意外な情報を耳にした。このニュースがボルドーにもたらされたのは、ちょうどシャミナード神父がアデルに手紙を送ろうとしている時であった。ナポレオンが1500人の兵士を連れてエルバ島から脱走したというのだ。

3月1日、ナポレオンはフランスのリビエラ海岸地帯のカンヌに上陸した。軍は北に向い、アルプスを越えてグルノーブルに前進した。そして、そこに仮の首都を設置したのである。

3月20日までには、パリの城門近くまで接近し、その道すがら未だに忠誠を抱く多数の旧兵士や職人を配下におさめ、歓呼する民衆に迎え入れられた。ルイ18世はパリから逃亡し、(オーストリア、プルシャ、ロシア、英国から構成された)ヨーロッパ同盟軍は百万人の兵士を集結してこの新しい反王政軍を迎え撃った(166)。

こうして、かの有名な「百日天下」が始まったのである(167)。